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次にリーンハルトが婚約者の顔を見ることが叶ったのは、公爵家で無理矢理引き離されてから十日も待った後であった。
焦れに焦れたリーンハルトが「会わないか」と手紙を出していたものの、サンディに握り潰されたのか、返事がくることはなく。ならばと直接パチル家へ出向けども、オリヴィアが不在で空振りすること二回。どうやらウルバノに呼ばれていたらしい。提示された条件の中に時間や回数の制限は無かったことに思い至り、麗人の策士ぶりに頭を抱えた。業を煮やして通い続けること三日、ようやくオリヴィアを捕まえたのである。そして彼女の方から行きたい場所があるとの申し出があった。断る理由は無いので、リーンハルトは二つ返事で了承した。
「行き先は?」
「初めて一緒に出掛けた街へ行きたいです」
「ああ、わかった」
初めてのデートはたいへん険悪な雰囲気だった。互いに腹を立て、オリヴィアは怒鳴り、リーンハルトは暴言を吐いていた。それが今となっては随分と様変わりしたものだ。オリヴィアが不機嫌そうに唇を曲げているのは相変わらずだが、二人の心持ちは以前と異なる。オリヴィアは全然ご機嫌斜めではないし、リーンハルトもそれが解っているのである。
「気に入った店でもあるのか」
「…そんなところですわ」
「歯切れが悪いな」
「き、気の所為でしょう」
これ以上突くとオリヴィアの膨れっ面が破裂する予感がしたので、リーンハルトは追及を止めた。怒らせて揶揄うのも一興だが、今日はそういう気分になれなかった。かねてより伝えたかった事もあるし、目の前で何故か頬を染めている婚約者に毒気を抜かれたのも要因の一つだった。
市街地に降り立ってすぐ、リーンハルトは手を差し出した。躊躇いがちに腕を絡める婚約者を見遣りながら、あの時は彼女に一瞥すらくれなかったなと思い出して苦笑する。
「それで、どこに行きたいんだ?」
「こっちです」
オリヴィアが服を控えめに引っ張ったのを契機に、二人は歩き出す。目的地を知らないリーンハルトは腕を引かれるまま足を動かした。
「此処は…」
オリヴィアに連れられ、着いた先は宝石店であった。買ってやる、要らない、で派手に揉めた場所だ。最悪の客だった自覚があるため、リーンハルトはつい二の足を踏んでしまう。しかしオリヴィアはお構いなしに扉を開けていた。豪胆すぎやしないか。だが腕を組んでいる以上は、リーンハルトも腹を決めるしかない。
「いらっしゃいませ…あら!来てくださったんですね!首を長くしてお待ちしておりました」
嫌そうな顔をされるのがオチかと思いきや、謎の歓迎を受けている。不思議に思ってリーンハルトが隣に視線を移せば、ばつが悪そうに口籠るオリヴィアがいた。
「…約束を破るのは主義に反するわ」
「約束って何だ?」
「………」
「おい。黙るな」
置いてきぼりを食らった感じが否めないリーンハルトは、思わず詰め寄っていた。答え合わせに手を貸してくれたのは、にこにこ笑う看板娘だった。
「そちらのお嬢様がですね、あの後お一人でいらっしゃったんですよ。営業妨害をしてしまったから、お詫びに何か買わせてほしいと仰って。だからあたし『お詫びなんて結構ですから、またお二人でいらしてください』って言ったんです。仲直りできて良かったですね!」
これは確かに居心地が悪い。オリヴィアの反応は正しかった。
(俺がさっさと忘れた事を、こいつは気に病んでいたのか…)
貴族の令嬢自ら頭を下げに赴くなんて、律儀なことである。またお二人でなんて、単なる口上と切り捨てても良かっただろうに、照れ臭い約束まできっちり果たすとは。オリヴィアらしいとしか言いようがない。ふっと微笑を浮かべるリーンハルトをよそに、看板娘はオリヴィアへ向き直っていた。
「本日はどのような品をお求めでしょうか?」
「これを…修理してもらいたいのだけど」
「修理ですね。お預かりします。少々お待ちください」
看板娘は店の奥へと引っ込み、代わりに職人らしき筋肉隆々の男が現れる。彼は手には、オリヴィアが渡した首飾りが握られていた。
「こりゃあ酷くやりましたな」
「…すみません」
オリヴィアはぼろぼろになってしまった首飾りを、一日でも早く直してあげたかったのだ。あれはリーンハルトがくれた初めての贈り物だったから、思い入れもひときわ強い。
「元通りにならなくても構わないわ。ただもう一度、綺麗にしてほしいのよ。今のままだと悲しいから…」
「…引き受けましょう!本当は作製した職人に渡すのが筋なんですがね。わざわざうちを頼ってくださったお嬢様のために一肌脱ぎますよ!」
親方がどんと請け負ってくれた途端に、オリヴィアの碧眼がきらりと輝く。その期待に満ちた横顔を、彼女以外の全員が温かく見守っていたのだった。
宝石店を出た後も、オリヴィアは笑ってはいないがほくほくと花を飛ばしていた。大切にしているのは知っていたが、こうしてはっきり行動に表されるとリーンハルトも甘酸っぱい気持ちになる。
「付き合ってくださって、ありがとうございました」
「ああ。恥ずかしい思いはしたが」
「うっ…受け取りにはひとりで行きますからっ!」
「馬鹿言うな。俺は途中で投げ出すのが嫌いだ」
「それなら…あの…お願いしたい事があります」
「ん?何だ」
「…ネックレスが戻ってきたら。あなたの手で、付けてもらいたいんです」
上目遣いに見上げてくるオリヴィアは、もともと血色の良い頬をさらに赤らめている。残念なのは強張った顰めっ面であることだが、それはいつものことなので良い。それよりもおずおずと服を掴む指先がまずい。彼女の台詞なんて最大級にまずい。何がまずいって、リーンハルトの心臓である。鳴ってはいけない異様な音が聞こえた。
「…っ、大丈夫なのか?」
サンディから、オリヴィアの心的外傷については聞き及んでいる。今も彼女の首元は涼しげで、傷は癒えていない事を物語っていた。リーンハルトとて犯人に対する激しい憎悪は健在だ。それでも彼女は、絡みつく恐怖をおくびにも出さずに告げる。
「わたしは、リーンハルト様を信じます」
あなただから、あなたの手なら大丈夫だから。
オリヴィアはそう言葉を紡いだ。彼女の真っ直ぐな気持ちだった。
「わかった。俺がやろう」
「ありがとうございます」
「いや…俺こそ、委ねてくれてありがとう」
彼の返事に安堵したのか、オリヴィアの強張りが解れていき、瞳を覆う薄い水の膜が揺れた。それを間近で見ていたリーンハルトは、衝動的に彼女の両肩を掴んだ。勢いよく指を剥がされたオリヴィアは、唇を半開きにしながらぱちりと瞬く。
「…俺の願いもきいてくれるか」
真摯な剣幕にひとたび呑み込まれてしまえば、頷きを一つ返すのがやっとだった。
しかしオリヴィアは縋るようなこの双眼に見覚えがあった。そうだ、あの時───「どうか離れていかないでくれないか」と請われた時と酷似している。
彼が求めてくれるのは嬉しい。むしろ愛おしささえ感じる気持ちは本物だ。でも、地声の大きさと頑丈さしか能がない人間に、渡せるものなどあるのだろうか。それはわからないけれど、求められたなら差し出したいと思うのだ。
オリヴィアは瞬きも惜しんで、直向きにリーンハルトを見つめ返す。そして…
「俺と、結婚してほしい」
飾らない求婚の言葉が贈られた。
それは本当に今更であった。婚約はとうに成立し、挙式の準備も進んでいる。オリヴィアの左手には指輪だって在る。
それでもリーンハルトは、有耶無耶なままだった答えが聴きたかった。願わくば彼女の口から確約が欲しかった。親の意見で結婚するのではない、オリヴィアだから結婚したい。オリヴィアでなければ駄目だ。これは紛れもなく己の意志で選んだ決定である事を、どうしても伝えたかった。
正直なところ、リーンハルトは完全に頃合いも場所も見誤っていた。こんな人目につく街中の往来ではなく、二人きりになれる所で厳かな雰囲気に持っていくつもりだった。だというのに、この体たらく。予定していたことが何一つ達成できていない。オリヴィアのことになると感情の制御がきかなくなる。それが憎らしくて、途方もなく愛おしいから、もう決して手離すことはできないのだ。
儘ならない心のまま、みっともなくぶつかって行っても、オリヴィアはすべて真正面から受け止める。馬鹿がつく正直者だ。だから彼女はいつだって本音でぶつかり返す。折しもこれこそが、リーンハルトが渇望するものであった。
「はい」
短すぎる返答はいっそ見事なまでにぶっきらぼうだ。けれど、彼女の言葉に裏表は無い。彼女が「はい」と言えば「はい」で、「いいえ」と言えば「いいえ」なのだ。額面通りの意味しか持たないのである。
「嬉しいです」
音の余韻が消える間際、オリヴィアはちっちゃくはにかんだ。幸せを噛み締めるように、そっと笑っていた。
一瞬にして燃え盛った感情に身を任せて、リーンハルトはオリヴィアを掻き抱く。先日の失態を思い出したのは抱き締めた後だった。また平手打ちか、或いは拳か、はたまた蹴りでも飛んでくるかと潔く腹を括っていたものの、オリヴィアは大人しく抱擁を受けていた。妙な感動を覚えたリーンハルトは、胸元に埋まる頭をまじまじ見下ろした。すると、彼女の髪かと錯覚するくらい赤くなった耳を見つけてしまい、自分の顔にも色移りするのがわかっても、時すでに遅しであった。
次期伯爵夫人のオリヴィアは、社交界の有名人である。しかし有名といっても、悪い意味か良い意味かは聞く人によりけりだ。
『オリヴィア様はしょっちゅう夫と口論を繰り広げていると聞く』
『リーンハルト様の頬を腫らしたこともあるらしい』
『この間の夜会では、オリヴィア様は明らかにご機嫌ななめだった』
『しかし、リーンハルト様はすこぶるご機嫌に見えた』
『小突き合っても、最後まで手を離すことはなかったのだから不思議なものだ』
『ある意味、互いに特別な相手なのかもしれない』
「"稀代の美青年"はオリヴィア嬢に熱を上げている」という噂が立つのも、そう遠くない未来の話だろう。




