20
定刻より早く帰って来たオリヴィアは凄惨な姿をしていた。髪も服も乱れ、血色の良かった頬は病人のようになっている。しかし最も目立つのは、首元に残った痕だろう。赤紫色に鬱血したそれは、人間の手形をしていた。何をされたのかなど一目瞭然で、出迎えたメルヴィンもサンディも血相を変えた。集まってきた使用人達も愕然となり言葉を失っている。
「…とにかく手当てだ。医者を呼べ!サンディ、お前はオリヴィアに付き添え。レティは書斎に来なさい」
当主の指示が飛んだ事で、各々がぎこちなく動き出す。オリヴィアは俯いたまま唇を噛んでいた。
「さあ部屋に行こう、オリヴィア」
兄のサンディが優しく促すと、オリヴィアは緩慢ながらも足を動かそうとした。ところが一歩を踏み出すことができず、その場に崩れ落ちてしまう。もう気力だけで立っていたのだろう。
「オリヴィア!?」
「お嬢様!?」
サンディが咄嗟に腕を伸ばしたおかげで、オリヴィアに傷が増えるのは防げたが、彼女の震えは止まらなかった。見たこともない憔悴ぶりに、居合わせた全員が猛烈な憤りを覚えるのだった。
オリヴィアの怪我自体は大したことなかった。首の痣も数日で引くものであったし、痛みもほとんどないようだ。しかしながら、彼女が負ったのは外傷だけではない。一歩間違えれば殺されていたという恐怖が、心に深い爪痕を残していた。そんな状態だったにもかかわらず、怒りをぶつけようとしたメイドより冷静だったと、レティから聞いたメルヴィンは目頭を押さえた。激しく動揺していたに違いないのに立派だったと、娘を存分に褒めてやりたかった。だが、感情が抜け落ちたようにぼんやりしている彼女に対し、事件を想起させる言葉はたとえ褒め言葉でもかけられそうにない。
「お嬢様。画室ならいつでもお使いいただけます」
「お嬢様。出来たてのお菓子はいかがですか?」
「お嬢様。新しい刺繍糸が手に入りましたよ」
白い包帯が痛々しいオリヴィアを案じ、使用人達はすれ違うたびに気分転換を勧めた。けれどもオリヴィアの答えは決まって「ごめんなさい。気分じゃないの」であった。しばらく母親のいる別荘地へ移ったらどうかとの提案も出たのだが、当の本人が病人に余計な心労はかけられないとの一点張りで首を縦に振らなかった。妥協案として、絶えず屋敷の者が付き添う事、外部との関わりを断つ事が当主命令で下ったのである。
園遊会の主催者であったフローレス夫人は、事件の翌日にパチル家を訪ねて来た。夫人は良識のある人間で、己の邸内で起きた事ゆえ責任を持って始末にあたると誓った。パチル家が望むなら事件の公表も厭わないと力強く言ってくれたものの、メルヴィンはそれを辞退した。他でもないオリヴィアが、無闇に話を広めてほしくないと訴えたからだった。男に襲われたというのは、女性にとって大っぴらに話したくないことである。そうは言っても父親としては決して許せない蛮行であり、大々的に犯人を追い詰められないのは不満が残った。しかし、そのあたりの心情はフローレス夫人も汲んでくれたらしく、逃亡した守衛の追跡と報告は随時行うとの約束を取り付けた。そして最後に、他所様の家財を破壊してしまった事を娘が気にしているとメルヴィンが伝えれば、優しい顔で不問にしてくれたのだった。
オリヴィアの首の包帯は三日ほどで取れた。けれども、まだ薄っすらと赤い痕が残っている。鏡や硝子に映ったのを目にすればきっと嫌な気持ちになるだろう、そう考えたレティはお嬢様のために、触り心地の良いスカーフを用意していた。
ところが、いざ包帯が取れてスカーフを巻こうとした際、レティの手は勢いよく払い除けられたのだった。突然のことにびっくりしたレティは、持っていた物を取り落としてしまう。ひらりと舞ったスカーフの向こうには、青褪めて硬直するオリヴィアがいた。レティを拒んだ右手を宙に浮かせたまま、微動だにしない。
「どうなさいました!?何か不手際がありましたか?」
ただならぬ様子に焦ったレティの顔色まで悪くなっていく。それを見ていたオリヴィアは、やがて小さくかぶりを振った。
「ご…ごめんなさい。違うのよ、レティは悪くないわ。ただちょっと…首に、何かが巻きつくのが、嫌だっただけ」
オリヴィアから出たとは思えない、擦り切れた声。この三日間、襲い来る嫌悪感を我慢して包帯を巻いていたのだろうか。だから何事も手につかず、ずっと上の空だったのか。怯えた姿を見せれば、皆をさらに不安にさせると思って…
「…では、お召し物を変えましょうか。襟元が大きく開かないものを出してきますね」
レティは泣きそうになるのを堪えながら、なるべく普段通りに振る舞った。衣装を見繕うためレティが背を向けている間、オリヴィアは自分の手元に視線を落としていた。彼女の手の平には、美しい金細工に縁取られたルベライトが乗っている。リーンハルトから贈られた首飾りでさえ、オリヴィアの身体は拒もうとする。その事が辛くて悲しくて、もう首に纏わりつくものは無いというのに息苦しさを感じるのだった。
七日もすれば鬱血痕は綺麗に消えたものの、依然としてオリヴィアは首元を飾ることができずにいた。チョーカーなどは以ての外、どれだけ鎖が細い首飾りでも駄目だったのだ。毎朝、果敢に試みてはいるが、ルベライトの首飾りは手の上に置かれたままである。
元気が戻らないオリヴィアを案じて、父と兄がなるべく共に過ごすように配慮していても、侯爵位を賜る貴族は暇ではない。本日、当主は招集を受けて屋敷を留守にしており、サンディは当主代行を命じられ執務室から動けなかった。
ところが、正午を迎えたあたりで思わぬ助っ人がやって来た。オリヴィアを溺愛する祖父だ。放浪ばかりしている好々爺は、消沈している孫を見つけるやいなや、外へと連れ出して行った。なんでも昨日から、下町で骨董市が催されているらしい。趣味に走れば多少なりとも元気が出るだろうという、祖父なりの気遣いであった。オリヴィアも関心を示した様子だったため、サンディは「行っておいで」と優しく背中を押した。
しかしながら帰ってきた妹の表情を見た瞬間、己の判断が間違いだったと悟りサンディは苦虫を噛み潰した。彼女は執務室に入るなり、開口一番にこう尋ねてきたのだ。
「わたしの身持ちが悪いという噂は…どのくらいの人の耳に入っているのですか」
サンディは返事に窮してしまい、質問に質問を返すこととなった。
「…誰に、何を聞いたんだい?」
社交界では今、唾棄したくなるような噂話が飛び交っている。その内容があまりにも忌まわしく、メルヴィンなどは流血するのも構わず拳を机に叩きつけていた。そして、絶対に娘に聞かせてくれるなと屋敷の人間に厳命を科した。サンディも父とまったく同意見であり、余計な情報が入ってこないよう細心の注意を払っていた。本当は祖父と外出させるのも躊躇われたのだが、都から離れた下町ならば貴族の噂など聞こえてこないと思っていたのに。くしゃりと顔を歪めたオリヴィアを見るに、最悪の事態になったのは明らかである。
「答えられないほど、酷い状況なんですね…っ」
「気に病んではいけないよ、オリヴィア。根拠のない噂はすぐに沈静する。大丈夫だから」
サンディは慎重に言葉を選び、とびきり優しい声を出した。それでも妹の憂いは拭えず、オリヴィアは耐えるように唇を引き結んでいるだけだった。そんな彼女から話を聞き出すのは酷であったため、サンディは祖父や同行していた者達に尋ねたのだが、芳しい成果は得られなかった。
月明かりが華奢な背中をぼんやりと浮かび上がらせる。
オリヴィアは灯りの消えた私室で、今朝と同じように自分の手の平を見下ろしていた。だが、その手の中には何も無い。首にかけることはできなくても大切に持っていた首飾りは、もうオリヴィアの手元には無いのだ。
就寝時間はとっくに過ぎたというのに、昼間に聞いた声が耳にこびりついて離れない。
『ご自分がいま何と噂されているか、ご存知ないのですか?あっ、ごめんなさい。知っていたら、こんなふうに出歩けないですよね。失礼しました』
雑踏の中、その可憐な声はいやによく響いていた。天使のような微笑みを見せつけられたオリヴィアは、目を見開いて固まることしかできなかった。
骨董市は予想以上の賑わいで、オリヴィアはほんのいっとき祖父と逸れてしまった。手持ち無沙汰になったため、何気なく外套のポケットを探れば、指先に固い物が当たった。毎日のように好んでつけていた首飾りを肌身から離してしまうのが寂しくて、持ち歩くようになったのだ。こんな所で取り出して眺めるのは良くないことは理解しつつも、少しだけと思いオリヴィアは手の中にある美しい紅色を眺めるのだった。
そこへ人影が差したのは突然であった。祖父が自分を見つけたのかと考えたが違った。顔を上げた先にはステラがいたのである。つけていたのかと疑いたくなるほどのタイミングに、背筋が凍る心地だった。しかし、例え仕組まれた出会いだったとしても最早どうでもいい。そんな事より、目を丸くしながら信じられないとでも言いたげに吐かれた毒が、オリヴィアを蝕んでいった。
『あんなに素敵な婚約者がいらっしゃるのに、浮気なんてしたら駄目じゃないですか、オリヴィア様』
『…何の話ですか』
『しらを切るんです?真昼間から堂々と、しかも他人の屋敷で密会していたとの噂で持ちきりですよ』
可愛らしく笑う少女は、間違いなくステラ・バートンだ。けれども花弁のような唇から転がる言葉は、茨よりも鋭い棘を持っていた。見知った顔がいないのを見越して、ここぞとばかりに言葉の暴力を振るい始める。ご存知ですか?という前置きの後に続いたのは、事実と真逆の事柄ばかりであった。
───オリヴィア様は礼儀知らずな令嬢をしつこく叱った。
───怪我を負った腹いせに、共にいた令嬢からネックレスを奪った。
───"稀代の美青年"の婚約者でありながら、他の男に体を許していた。
指を折って数えられていく噂話を、オリヴィアは唸るような声で遮る。
『…全部、あなただったのね』
『あははっ、気付くのが遅すぎですよ。オリヴィア様って目付きは鋭いのに、鈍感なんですね。もしかして、捻挫したことで怒っています?でも悪いのはオリヴィア様ですから。良い人ぶって庇ったりするからいけないんです。あの日、落馬で怪我をするのは私のはずだったのに。そうすればもう少し穏便に済ませて差し上げたのに残念です』
『何よそれ。結局、あなたは何がしたかったのよ』
『あれ?まだわからないんですか?』
心底不思議そうにステラは小首を傾げた。直後、オリヴィアが無意識のうちに握りしめていた首飾りを引ったくったのである。
『!!返しなさい!それは…っ』
『大きな宝石がついていれば良いなんて、とっても単純でオリヴィア様にお似合いですね!本当に、リーンハルト様と全然釣り合わない』
釣り合わないと告げた瞬間のステラは、真っ黒な微笑みをたたえていた。
『可哀想なリーンハルト様。下品で、愚かで、こんな可愛くない人が婚約者なんて。本当に可哀想』
『あなた…リーンハルト様のことが好きなの?』
『好き?そんな簡単な言葉で括らないでほしいです。あの方こそ私の…私だけの王子様なんですから』
うっとりと語るステラは、正しく恋する乙女そのものだ。けれどもそこに狂気じみたものを感じ、ぞっとした。可愛らしい容姿と声だけに余計不気味である。
オリヴィアにはステラの言う事が半分も理解できなかった。恐らく一生、共感することはないだろう。ただし一部分を除いては。
『…自分が彼に相応しい人間だなんて、思ったこともないわ』
オリヴィアは重みの消えた手をぐっと握り締める。
ステラの言う通り、オリヴィアという人間は品もなく喚くし、馬鹿だと連呼されるし、食いしん坊だし、可愛げがあるなどと自惚れる暇なんかありはしない。相応しくないだなんて、最初から分かりきった事だった。だから沸々と湧いてくる怒りの感情は、自分が貶されたことに関してではない。
『だけど、ステラ様がお似合いだとも思わない。そのネックレスの価値も分からない人は、リーンハルト様に相応しくないわ』
力強い眼でステラを睨みつけながら、オリヴィアははっきり言い切った。
彼は王子様などではない。表面上はそう映るかもしれないが、人並みの寂しさを抱え、子供のように笑ったりする普通の人間だ。そんな事も分からずただ憧れているだけの令嬢に、彼を哀れんでほしくない。
それこそ初めのうちはオリヴィアも、ステラみたいな女の子が彼に似つかわしいと引け目を感じていた。だけど、本当に相応しいのはウルバノのような素晴らしい女性なのだ。こちらが引け目を感じる隙もないほど完璧な人こそ"稀代の美青年"の隣に立つに値する。あの麗人ならば本質を見抜き、彼の憂いも願いも寸分違わず汲んで応えるのだろう。それは、彼を王子様と称え陶酔するような人間には到底できないことである。
思わぬ反撃だったのか、ステラの天使の皮が剥がれた。それは、可憐とは対極にある醜い素顔だった。
『…月夜ばかりと思わないで』
ステラはその一言だけを残し、オリヴィアの優しい思い出ごと持ち去ってしまったのである。




