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 出直すとの予告があったため、オリヴィアは今度こそ身嗜みを整えて待っていた。といってもベッドの中にいるので非の打ち所無し、とはいかないが。


「お嬢様、新しい紙をご用意しましょうか?」

「そうね。お願いするわ」


 挫いた足に代わり、動いてくれるのはレティだ。色々と道を踏み外しているメイドも、お嬢様が怪我をしている時に不謹慎な願い事はしない。甲斐甲斐しく働くレティに安心するかたわら、足が治ったら反動が来るのではとオリヴィアは背筋が寒くなった。

 そして今現在、半身を起こしたオリヴィアがやっているのは水彩画のスケッチである。彼女は絵画の鑑賞も好きだが、自分で絵筆をとることもあった。とはいえ腕前は趣味の域を出ないし、あくまで個人的に楽しんでいるだけだ。無心で絵を描いている間だけは仏頂面も喚き声もなりを潜めるので、オリヴィアのいる部屋は凪いだ湖面のように静かになる。


「失礼します。リーンハルト様がお見えです。お通しして大丈夫ですか?」


 レティの問いかけに手を止めたオリヴィアは首肯した。緊張して体に力が入るのが分かったが、自分ではどうすることもできなかった。


「ご機嫌よう。リーンハルト様」

「…ああ」

「先日は追い返すような形になってしまい、申し訳ありませんでした」


 オリヴィアは予め考えおいた謝罪の台詞を口にする。声色が固いのは今更だ。


「俺も…見舞いの品すら持たずに悪かったな」


 手近な椅子に腰かけるリーンハルトの手には花束があった。昨日は花の一本を用意する時間さえ惜しんで来てくれたと言う事か。兄の言葉が思い出されたオリヴィアは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


「ありがとうございます。レティ、わたしの代わりに受け取って」

「はい、お嬢様」


 貰った花を活けるため、レティが一時退室する。扉が閉まり、足音が遠ざかってから、オリヴィアはおずおずと口を開いた。また少し心拍数が上がる。


「…心配して、くださったんですよね」

「…ふん。報せを受けたのに顔を見に行かなかったら、父上が煩いからな」


 くだらない、とでも言いたげにリーンハルトは鼻で笑った。

 しかし、尊大に腕を組む美青年は心の中で己を盛大に罵っていた。そんな事が言いたいんじゃない大馬鹿野郎、と。オリヴィアが怪我をして動けないと聞き、どれだけ焦ったことか。後に控えていた用事を押しのけてまで彼女の無事を確認しに走り、元気よく反撃する姿にひどく安堵したくせに。この婚約者を好いており、好かれたいと思っているくせに何をやっているのだ。


「せっつかれて来てみれば、けろっとしてるし肩透かしを食らったな。だいたい、落馬した人間を受け止めようとしたってなんだ。馬鹿なのか。そんな細腕で抱えられる訳ないだろ。無駄に頑丈だった自分の骨に感謝しろこの馬鹿」


 安堵したら憎まれ口を叩くとはどういう仕組みなのか、リーンハルトは自分でもわからなかったし、制御もきかない。どうして「もっと自分を大切にしてほしい」のひと言が伝えられないのか。また喧嘩になるぞと思いきや、いつまで経ってもオリヴィアの口撃は飛んでこなかった。彼女が、自分の口を両手で塞いでいたからである。それが無ければ恐らく、リーンハルトの予想に違わない結末を迎えていただろう。その証拠に彼女のこめかみの辺りには青筋が浮かんでいる。

 オリヴィアは一度、大きく深呼吸をしてから塞いでいた手を外した。


「…嬉しかったですよ」

「は?怪我をした事が?」

「どうしてそうなるんですかっ」


 への字に曲がった唇、刺々しい物言い。それはいつものオリヴィアだった。けれども彼女の言葉には不思議な温かみがある。つんけんした表情と声音のせいで隠れてしまう彼女の飾り気のない優しさを、リーンハルトは知ってしまった。


「汗を拭わなければならないほど、急いで来てくださった事がっ!わたしは嬉しかったんです!なので感謝の言葉が引っ込んでしまわないためにも、馬鹿と仰るのは控えていただけませんか!?声を荒げたくないんですっ!」


 リーンハルトが猫被りの天邪鬼だとすれば、オリヴィアは怒りん坊の正直者。

 リーンハルトは他人の望む言葉は吐けても、自分が本当に言いたい言葉は吐けない。

 オリヴィアは無愛想な面持ちは直せないが、偽りのない言葉はどこまでも真っ直ぐだ。

 対極にあるからこそ、かちりと嵌るのかもしれない。


「……すでに大声だぞ」

「くっ…まだまだ序の口ですっ」

「それを自分で言うのか…ふはっ」


 リーンハルトは観念したように笑った。それはもう、高らかに笑ったのだった。


(ああ、ちくしょう…好きだ。好き、だなぁ…)


 もはや疑いの余地はない。




 笑いがおさまると彼は「ところで、何を描いていたんだ?」と何事もなかったかのように問うてきた。拍子抜けしながらも風景画のスケッチだと答えれば、見せてほしいとせがまれる。少しばかり抵抗はあったが、オリヴィアは下書きの絵を手渡した。まだ色はつけていない絵を見た彼は、上手いなと珍しく素直に褒めるのだった。だが、芸術に通ずるオリヴィアに言わせればお粗末な画力である。素人に毛が生えたようなものだと思っているので、リーンハルトの賛辞は半分も届いていない。


「独学でここまで描けるなら立派だと思うが」

「褒め言葉はありがたく受け取りますけど、立派は言いすぎですわ」

「謙遜なんて柄じゃないだろ」

「失礼な!自分で描くほど、名画と讃えられる作品の素晴らしさがわかるのです。謙遜してるわけじゃありません!」


 ぷりぷりするオリヴィアに、リーンハルトは苦笑する。率先して彼女の機嫌を損ねたい訳ではないのに、つい悪戯心がくすぐられてしまう。


「よく描くのか?」

「そうですね。手が空いた時には」

「へぇ。描きためた絵があるなら、それも見てみたい」

「すみませんが、ここには無いんです」

「売ったのか?」

「まさか。世に出せる代物ではありませんわ」


 売り物にしないなら捨てたのか。それは勿体ないだろう。リーンハルトの眉がぴくりと動いた。彼の言いたい事を察してか、オリヴィアは先んじて口を開く。


「描き上げたものは、お母様に届けているんです」

「母君に?確か、療養中だと…」


 オリヴィアは「はい」と頷いた。彼女の母親はもともと体が弱く、娘を出産してから一年近くは床に伏せる毎日であった。やむを得ず単身で別荘地へ移ることとなったのは、二人の子供がまだ可愛い盛りの頃だった。体調の良い時期は此方へ戻って来て、社交界にも顔を出すのだが、それでも一年の半分以上を別荘で過ごしている。


「お母様はこのお屋敷が好きだと話していましたわ。お庭も、窓から見える景色も、お祖父様のコレクションが並ぶ廊下も」


 彼女に釣られてリーンハルトも視線を落とすと、オリヴィアの手元にあるスケッチは、なるほど確かに窓の外に広がる景色だった。


「お一人で過ごされる時間が、お好きなもので少しでも紛れればと思って…」


 指先でざらついた紙面をなぞるオリヴィアだが、横髪がかかって表情が窺えない。普段の彼女からして、笑顔を浮かべているとは考えにくい。けれども、きっと優しい顔をしているのだろう。子供の落書きのような絵でも喜んでくださるから未だに届けるのがやめられない、と語る声音にいつものような険は無かった。


「…喜んでおられるなら、止める必要はないだろ」

「でも、昔の拙い絵はそろそろ処分してもらいたいですわ」


 尻すぼみになっていく声を聞き、リーンハルトはまた笑う。今度は大切な宝物を愛でるかのような、穏やかな微笑だった。


「あっ!」

「どうした」


 いきなり声を上げたオリヴィアは、サイドテーブルの引き出しに手を伸ばした。黙って見ていれば、彼女はそこから真っ白なハンカチを取り出す。結婚式の折に押し付けられた…もとい、オリヴィアの涙を拭ったあのハンカチである。お返しするのが遅くなりましたが、と口上を述べながら、オリヴィアは両手でハンカチを差し出した。ところがリーンハルトは考える仕草をして黙り込んでしまう。


「リーンハルト様?」

「…刺繍を、頼んでもいいか」

「はい?」


 白い無地のハンカチは味気なく、刺繍を入れれば映えるだろうが、なんでまた急に。不思議そうに首を傾げるオリヴィアが彼の目にどう映ったのか「苦手なら無理にとは言わないが」と歯切れ悪く付け加えられた。


「苦手ではないですけど…」

「なら頼む」

「わかりましたわ。何の柄がいいですか」

「何でもいい」

「それが一番困ります」

「お前のセンスが試されるな」


 安い挑発だったが、意地悪な微笑にオリヴィアはあっさり焚き付けられた。翌日、鼻息荒く裁縫箱を引っ張り出してくる彼女の姿があったとか。しかし、借してもらった恩は忘れておらず、険しい形相の割に一針ずつ丹念に縫っていた。

 ちなみに彼女が選んだ柄は青葡萄(マスカット)だった。てっきりオーソドックスな花柄だろうと予想していたリーンハルトを見事に裏切った。いや別に葡萄でも何ら問題はない。刺繍も上手い。だけど選ばれたのは青葡萄。どちらかと言えば赤い葡萄の方が主流なのにも関わらず。「渡す相手のことを考えていたら、マスカットが思い浮かんだので」と語るのはへの字に曲がった唇である。


「よくわからない理屈だな」

「あ、あなたの瞳が…っ」

「瞳?」


 リーンハルトの瞳は、翡翠のようだと称されることが多い。それを青葡萄に例えられたのは初めてだった。でも悪い気はしない。彼女らしくて、むしろ好ましい。


「…食いしん坊か」


 とはいえ、天邪鬼な彼が素直な気持ちを伝えられるはずもなく、思わず零れた感想にオリヴィアが怒り出したのは言うまでもない。




 そして、オリヴィアの見舞い客は婚約者だけにとどまらなかった。

 怪我の原因を作ってしまったステラはもちろん、馬主の彼も頭を下げにやって来た。そして極め付けはウルバノまでがオリヴィアの顔を見に訪れた。公爵令嬢が扉をノックした時は、心臓が飛び出すかと思ったほどだ。ウルバノもまた、オリヴィアの描いた絵を興味深く眺めていた。それだけでも緊張したのに、挙げ句の果てには言い値で買おうなんて発言が飛び出し、オリヴィアをさらに恐縮させたのだった。

 連日の見舞い客にゆっくり養生する暇もない…かと思いきや、リーンハルトに「無駄に頑丈」だと言わしめたオリヴィアは、医者の見立てた期間内にきっちり完治させていた。以前と全く変わらず踵を鳴らして歩く姿に、家族と使用人は安堵の吐息を漏らす。横たわってひっそり過ごすのは彼女に不釣合いで、皆、気もそぞろだったのだ。

 しかしながら、最も落ち着きを失っていたのはリーンハルトである。使用人から全快の報せを受けてすぐ、パチル家に足を運んだのがその証拠だろう。


「オリヴィアは部屋にいるのか?」


 廊下の奥からちょうどレティが歩いてきたので、リーンハルトは花束を片手に呼び止めた。


「お嬢様でしたら画室にいらっしゃいますよ」


 どうやらベッドの上で描き溜めた下書きに色を塗っているらしい。集中しているところに水をさすのは悪かろうと、リーンハルトは花束だけを置いて帰ることにする。


「お会いにならなくて良いんですか?」

「邪魔するのも忍びないからな」


 理由は知らないが、リーンハルトが「オリヴィア」と名を呼ぶと、彼女は決まってびくりと肩を揺らすのだ。母親へ贈る絵の製作中に手元が狂っては申し訳ない。


「ではお外までお見送りいたします」


 そう言って一礼するレティは罵られて悦ぶ人間に見えなかった。メイドの奇行に困っているとげっそりしていた婚約者を思い出して、余計なお世話かと理解しつつもリーンハルトは口を挟む。


「…あまり彼女を困らせてくれるな」

「ふふっ、お優しいんですね。でも、お嬢様に踏み付けられて『汚物に触ってしまったわ。舐めて綺麗にしなさいよ』と塵を見る目で言われるのが、私の夢なので!」


 前言撤回。このメイドは正真正銘、危ない人種だ。

 リーンハルトは恍惚としながら頬を押さえるレティから、本能的に距離をとるのであった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] もうオリヴィアもリーンハルトも可愛くて可愛くて、ニヨニヨしながら読み進めていました。 それをラストで全部ひっくり返すレティさんよwww
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