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穏やかな昼下がりに似合わない、鋭利な声が屋敷を突き抜ける。
「ちょっと!いつまでやってるのよ!」
よくもまあ毎日毎日、怒ることがあるものである。とは言っても、不機嫌そうな顔つきと尖った語勢のせいで怒っているようにしか見えないだけだ。感情的になりやすいたちなのは否定できないが、彼女が本気で激怒するのは稀である。例えばレティが危ない仕方で暴走しても、心のどこかでは許容している節がある。しかし残念なことに身内以外に信じてもらえた試しはない。ただし、オリヴィアの家族やパチル家の使用人達はちゃんとわかっているのだ。
「休憩時間は休みなさい!ネックレスはもう探さなくていいわよ!」
首飾りが紛失してから一週間が過ぎても、使用人達は空き時間を見つけては捜索を続けていた。もちろん、オリヴィアも家令も捜索の指示は出していない。彼らが自主的におこなっているのである。皆、オリヴィアが祖父から贈られた品を大切にしているのを見てきた。漏れ聞く話によると、今回失くなってしまったのはかなり貴重な宝石らしい。だが彼女は、そんな大切な品を使用人達のために躊躇いなく差し出したのだ。刺々しい言い方しかできなくても、オリヴィアらしい優しさが溢れた言葉に彼らはいたく感動した。首飾りが見つかればお嬢様は喜んでくれる、そう思えばこそ彼らはこぞって屋敷内を探すのだった。
「休憩中だから自由に時間を使っているだけですよ」
「…もういいのよ。本当に」
「ええ。我々が勝手にやっていることですので、気にしないでください」
押し勝ったのは使用人達の熱意であった。オリヴィアはだんだんと小声になりながらも、最後に「ありがとう」を伝えていた。
使用人達の話によれば、誰よりも熱心に探し回っているのはレティだという。実はレティ本人がいの一番に自分自身を疑っていたのだ。オリヴィアの近くにいる時間が長い分、責任を感じていたのだろう。奇行が目立つので忘れられがちだが、レティは仕事のできるメイドである。業務中は至極真面目に働いている。
「レティ?どこにいるのよ…まったく」
メイド業務の傍ら、勉強も怠らずに続けていることをオリヴィアは知っていた。「差し上げた」首飾りのために、レティの負担を増やしたくはない。もうやめなさいと言うべく、オリヴィアは休憩中であるはずのレティに会いに行ったのだが、使用人部屋にはいなかった。近くにいたメイド達にレティを見かけなかった尋ねつつ、廊下を歩いていたオリヴィアは、何気なく目をやった窓の外の光景に唖然とする。彼女が目撃したのは、庭の真ん中でハンカチの匂いを嗅ぐレティの姿だった。
「レティーッ!!何してるのよ!?」
「はっ!お嬢様!」
窓から身を乗り出して、悲鳴に近い叫び声を上げたオリヴィアは自分も猛然と庭に出て行き、レティからハンカチを取り上げようとした。見間違えでなければ、それはオリヴィアが使っていたハンカチだ。できることなら見間違えであってほしかったが、そんな事はある訳がなかった。
「手に持っているものを渡しなさい!」
「お断りしますっ。第一、これは捨てると決まったものです!メイド長にも許可はもらいましたから、私がいただいても問題はないはずですっ」
「欲しかったら持っていけばいいわよ!だけど、匂いを嗅ぐ必要はないじゃない!」
「あります!大いにあります!私のやる気の源なんです!」
「意味がわからないわ!とにかく返しなさい!」
「お嬢様のお願いと言えど嫌です!」
ドレス姿のオリヴィアは身軽なレティに勝てず、ハンカチは取り戻せなかった。けれども、めげずに返しなさいと繰り返す。
「本来の用法から外れた使い方をしないで!」
「これもれっきとしたハンカチの用途…あっ、リーンハルト様ですよ!お嬢様」
「そんな子供騙しには引っかからないわよ!」
「いえ、お嬢様の後ろに、」
「わたしが後ろを向いた瞬間に逃げる気ね!?させないわよ!」
「お前は騒いでないと生きていけない体質なのか?」
「ひぃっ!?」
背後からかかった呆れ声に、わかりやすくオリヴィアの肩が跳ねる。ぎぎぎ…と擦り切れた金具の音でも鳴りそうな風に振り返ると、可笑しそうに口角を上げるリーンハルトが立っていた。だが彼の顔に最初の頃みたいな嫌悪感は無く、愉快さが見え隠れしている。
またもや醜態を晒してしまったオリヴィアはというと、唇を中途半端に開けたまま固まっていた。
「俺を見て悲鳴を上げるとは失礼な奴だな」
「うっ…すみません…」
反論の余地も無いオリヴィアは、しおらしく謝るのだった。
「まあいい。手を出せ…って違う。手の平が上だ」
「?」
言われた通りに持ち上げた右手に、じゃらりと何か冷たい物が置かれる。
この時すでにレティは姿をくらませていた。ハンカチを死守するためであり、お嬢様をリーンハルトと二人きりにするためでもあった。くどいようだが、レティの仕事ぶりだけは評価に値するのだ。
「これは…」
「何の石か、わかるか?」
リーンハルトが乗せてきたのは、赤い宝石が連なる首飾りであった。石の周りに施されている金細工が、素晴らしく精巧で美しい。しかし何故、リーンハルトは宝石の種類が知りたいのだろうか。自分で買い求めたものならわかっているはずだ。ならば掘り出し物とか、あるいは遺品の類か。そもそもこれは急ぎの用事なのか。突然のことに疑問は尽きないが、オリヴィアはとりあえず目の前の課題に集中する。
(ガーネットではないわね。一見するとルビーのようだけど…)
赤色はルビーの特徴であるが、そうと決めつけるのは早計だ。赤色の宝石などたくさんある。オリヴィアは宝石を太陽に翳してみた。指先で転がしながら、光の屈曲と色の変化をつぶさに観察する。
「…ルベライトでしょうか。金の加工がキシュ地方特有のやり方ですので、ルベライトの可能性は高いと思います。あそこはトルマリンが多く採れますから。でもルビーの可能性も捨てきれません」
見て触れて判別できる宝石もあれば、専用の道具が無いと区別できない宝石もある。ルビーとルベライトの識別は難しい事で有名なのだ。オリヴィアは鑑定士ではないのでこれが限界だった。「断言できず、申し訳ありません」と口を開きかけた時、リーンハルトが先んじて話し始める。
「そこまで判れば上出来だ。それは報酬としてお前にやる」
オリヴィアの唇が「は?」の形のまま動きを止めた。するとリーンハルトは落ち着かない様子で「気に入らなくても棄てるなよ」と早口で言う。
「気にいるも何も、いただく理由がありませんけど」
「あー…女は黙って受け取ればいいんだよ」
投げやり且つ見下すような言動にむっとしたオリヴィアは、結構ですと言って返そうとした。ところが、急に彼の大きな手に首飾りごと握り込まれ、オリヴィアの右手から自由が奪われた。反射的に顔を上げると、なんだか険しい面持ちのリーンハルトと目が合い、視線も右手も外せなくなる。
「いいから受け取れ。お前の五月蝿い声は、俺の屋敷にまで聞こえるから困るっ」
「はあ!?そんなわけっ……えっ?」
「同じ物とはいかないが、それくらい我慢しろ!」
「もしかして……失くしたネックレスの代わり、なんですか…?」
呆然と呟くような問いかけに対し、リーンハルトはふてぶてしく返すのだった。
「わかったら、使用人をこき使って困らせるんじゃないぞ」
「し、してませんわよ!」
「知ってる。落ち込んでるかと思ったが、そうでもなかったな」
「!?」
思いがけずリーンハルトの表情が緩んだことで、オリヴィアの勢いが削がれる。
使用人同士の情報網というのも、なかなか侮れない。どこで情報交換しているのか知らないが、他家の内情が筒抜けだったりする。とりわけ婚約者として交流があるロス伯爵家なら、一連の事件が知られていてもさほど不思議ではない。オリヴィアを驚かせたのは、事情を知ったリーンハルトが新たな首飾りを渡しに来たことである。落ち込んでいるかもしれない婚約者のために、色違いと言えどわざわざ同じトルマリンの首飾りを選んで…。
どうしたらいいのだろうか、オリヴィアは顔に熱が集まってくるのを止められなかった。己の手ごと包まれた首飾りは、宝石箱に入っているどんな装飾品よりも価値があるように感じられた。
「あ…ありがとう、ございます。嬉しいです」
突き返される気配が無くなってから、リーンハルトはそっと手を離した。
「文句は受け付けないからな」
「文句なんか言いません。たとえ硝子玉のネックレスだったとしても、わたしは嬉しかったです。大切にしますわ」
感じた事を何でもはっきり伝えるオリヴィアに、リーンハルトは茶化すことも忘れてしまった。嬉しいと言いつつ、彼女は笑っていない。けれども碧い瞳はきらきら輝き、頬は紅潮していて、誤魔化しようのない喜びを体現していた。わかりやすすぎる反応に、リーンハルトの方が無性に照れ臭くなる。
(…贈り甲斐のある奴だな)
しばらく感激したようにじぃっと首飾りを見つめていたオリヴィアだが、我に返った後、いそいそと身に付け始める。似合いますかなどと問われる前にリーンハルトは来た道を引き返していた。一拍子遅れてかかった二度目の感謝の言葉を背中で聞きながら、彼は歩調を早める。あのまま留まっていたら、よく似合うだなんて本音を漏らしてしまうところだった。そうするのは、何というか…色々とまずい気がした。妙に速く脈打つ鼓動の理由を、急いで足を動かしたせいにしておきたかったのだ。




