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使用人のレティがメインのお話です。
唇をひん曲げたオリヴィアは、足を踏み鳴らしながら廊下をすっ飛んでいく。
「ちょっと!どうなってるのよ!?」
一つの首飾りが紛失したために、屋敷は不穏な空気に包まれようとしている。使用人同士で罪の擦りつけあいが始まるのも時間の問題だった。そのような悲しい事態に発展させないべく猛抗議に出るオリヴィアを諌めるのは、パチル侯爵家の家令である。
「お嬢様。貴女様にとってはたかだか装飾品の一つかもしれませんが、我々からすれば…」
「あのネックレスはお祖父様から頂いたのよ!大切に決まってるわ!わたしが言いたいのは、我が家の使用人を犯人だと断定するのはやめてという事よ!」
「失言でした。お許しください。しかしながら、外部から侵入した形跡はありません。考えつく場所はすべて探しましたが、見つからないのです。内部による窃盗とみて間違いないでしょう」
「だからって…!」
「メイドを庇いたいお気持ちはわかりますが、これは曖昧に済ませてはならない事です。窃盗は立派な罪ですよ」
ここは仮にも由緒正しき侯爵家だ。そう易々と侵入者を許すはずもない。だとすれば、家令の推測は当たっていると考えるのが妥当だった。けれどもオリヴィアは抗議を続ける。
「証拠も無いのに決めつけないで!」
「お嬢様…」
家令はやや呆れ気味に息を吐く。
オリヴィアの部屋に最も頻繁に出入りしているのは、専属メイドのレティだ。レティが真っ先に疑われるのは必至。それが気に入らないのだろうと、家令は思ったのだ。
「捜索は中止よ。全員広間に集めなさい!」
「…仰せのままに」
オリヴィアの一声で、メイドはもちろん、護衛、料理人、庭師まで広間に集合した。広い屋敷で働く全員が集まるとかなりの人数になる。オリヴィアは機嫌の悪さを隠そうともせず、大勢の前で踏ん反った。それから大きく息を吸い込むと、一番後ろにいる人間まで届くよう声を張り上げたのだった。
「家令の言う通り、もしこの中に窃盗犯がいるとしたら、とても不愉快だわ!」
ここで働く使用人達は、オリヴィアの仏頂面にも怒鳴るような物言いにも慣れている。だが、今日の彼女は口調がきついと言うより固い感じがする。それにオリヴィアは、レティに懇願でもされなければ、滅多に「不愉快」なんて言葉は使わない。使用人達に動揺が走った時だった。
「お金に困ってるなら、そう言えば良いじゃない!盗みを働いて経歴に汚点ができる方が、よっぽど大損害でしょう!」
固唾を飲んで次の言葉を待っていた彼らは、空いた口が塞がらなくなった。変な空気になったのも構わず、オリヴィアはビシッと指を差して宣言する。
「決してあなた達を疑う訳じゃないけれど、犯人がいると仮定して言っておくわ。いい?あのネックレスは差し上げたの!盗まれたんじゃないから!わかったわね?」
「………」
「もう一つ。困っているなら『助けて』と声を上げなさい!悪事に手を染めてる場合じゃないわ!」
「………」
「返事は!?」
オリヴィアが鋭く要求すると、使用人達はまばらに「はい」と返事を返した。そして徐々に、皆の顔には笑顔が浮かんでくる。
「あのー、お嬢様」
「誰?なに?」
「厨房の人間ですけど、賄いの飯をもっと増やせないですか?」
「オレはトイレを増設してほしいっす」
「男女で分けてもらえると助かります」
「あっ、私は部屋の枕が合わなくて…」
「いっぺんに言うんじゃないわよ!書くものを持ってくるから、順番に並んでなさい!」
たった数分で侯爵家の日常が戻ってきた。あれだけギスギスしていたのが嘘みたいだ。一部始終を目の当たりにしていた家令は、参ったとばかりに肩をすくめる。オリヴィアは初めから、レティを含めた使用人全員を庇うつもりだったのだ。とはいえ、恐らく二度目は無い。大目に見るのも優しさだが、罰するのもまた一種の優しさである。そこを履き違えるような教育は受けていない。
「私としたことが…見誤りましたね」
苦笑する家令の傍らで、レティは両手を握りしめて小刻みに震えていた。
───困ってるなら『助けて』と声を上げなさい!
五年前の忘れられない光景が、レティの目の前で重なる。
彼女には家族も名前も、何も無かった。
道端に捨てられていたという彼女は、古びた孤児院で十年の歳月を過ごした。そこの建物は朽ち果てそうで、監督の目も行き届いていなかった。男児も女児も一緒くたになって部屋へ押し込められ、孤児達は番号で呼ばれる、ずさんな環境であった。
ある日、十歳以上の孤児は院長に呼び出され、非道な通告を受けた。食い扶持が足りないから、年長の者は出て行ってもらう、と。
突如として住む場所を失った孤児達は、途方に暮れたまま街を彷徨うこととなった。初めのうち、追い出された者達は一緒にいた。しかし、日を追うごとに一人、また一人と人数を減らしていく。人攫いに遭ったり、餓死したり、理由は様々だ。最後に残ったのは女の子だった。
彼女は思った。いっそ死んだ方が楽かもしれない。でもどうせ死ぬなら最後に一度くらい、温かい料理が食べたい。
パン屋から流れる香ばしい香りに惹かれ、ふらふらと道路を横切った時だった。大きな馬車が女の子の真横で止まったのだ。パンのことで頭がいっぱいになり、馬車が走ってくることに全く気付かなかった。あと少しで轢かれてしまうところだった。
『申し訳ありませんっ、お嬢様!お怪我はございませんか?』
『大丈夫だけど…いきなり何よ?』
『小さな子供が道を横切りまして…』
何やら騒がしい音が聞こえてきたものの、女の子は茫然自失となっていて、その音が人の声だとは思わなかった。ふと影が差したので、こわごわ視線を上げると、そこには燃えるような髪をした少女が立っていた。見事な緋色に目が釘付けになっていたら、耳をつんざくような声で怒鳴られた。
『急に飛び出したらだめでしょう!道を渡る時は、右と左を見てからよ!』
『………』
『あなた、どこに住んでいるの?お家まで送るわ』
孤児は言葉に詰まった。居場所なんて何処にもない。
とても綺麗な服を着た相手と、ぼろ雑巾のような服の自分。
名前すら無い人間もいれば、沢山のものを持っている人間もいる。
惨めで、悔しくて、哀しくて、涙が込み上げてきた。
『なっ…なんで泣くのよ!?怪我をしたの?言ってくれないとわからないわ!』
顔を覗き込んできた綺麗な少女に何も言えず、ぼろ雑巾みたいな孤児は泣きじゃくった。
『困っているなら「助けて」と声を上げなさい!』
泣くだけの孤児に焦れ込んだのか、緋色の髪の少女はぴしゃりと叱り飛ばすのだった。
『九十九人に無視されたって、誰か一人は聞いてくれるかもしれないんだから!言わなければ、届く声も届かないわよ!』
怒られっぱなしで、余計に涙があふれてくる。
訴えたいことはいっぱいあった。家が無くて寂しい、寒いのはもう嫌だ、空腹に耐えられない。けれども、出てくるのは涙ばかりで言葉にならなかった。本当に辛うじて絞り出せたのは、切れ切れの「たすけて」のみだった。
すれ違った大勢の大人達は、まるで汚いものを避けるように歩いていた。だが、たった一人の少女だけは、孤児の小さな悲鳴に耳を傾けた。そして、温かい手を差し伸べてくれたのだ。
鮮やかな緋色を持つ少女はオリヴィアと名乗った。
彼女は孤児の手を引いて、パチル家の屋敷に連れ帰ったのである。
『あなたの名前は?…無い?そう…じゃあわたしが考えるわ。……レティっていうのはどうかしら』
どう、と問われてもよくわからない。孤児にとっては番号で呼ばれるのが当たり前だったから、とりあえず頷いておいた。
『決まりね!あなたは今日からレティよ!』
レティという名前。それは何も持っていなかった子供が、初めてもらった贈り物だった。
しかし、パチル家当主のメルヴィンは、この件に難色を示した。レティの今後について持て余していたのである。メイドとして働くには幼すぎるし、読み書きができなければ、養成所の試験は突破できない。かと言って孤児院に送れば、同じことの繰り返しである。人助けは尊いことだし、娘を責めることはできないが、メルヴィンは年端もいかない孤児の扱いに困ってしまった。ところがここで、息子のサンディが「メイド見習いとしてここに住まわせれば良い」と言い出したのだった。
『そうすればオリヴィアの寂しさも、少しは紛れるんじゃないですか』
オリヴィアの遊び相手はもっぱら家族か幼馴染のフレッドだけで、彼も頻繁に来る訳ではない。しかも母親が持病を理由に別荘地で療養していたため、父も兄も留守にしがちで、オリヴィアはひと月の大半をひとりぼっちで過ごさなければならなかった。彼女は寂しいと嘆くことも、態度に出すこともしなかったが、広い部屋にぽつんと小さな背中があるのは、えも言われぬ哀愁が漂っていた。
だが、さながら妹分のような存在ができたことにより、オリヴィア本来の快活さが戻ってきたのは、メルヴィンも認めるところであった。最終的にレティは住み込みの見習いメイドとしてパチル家に置かれる事が決まったが、それに際して条件が出された。
まずは学問の基礎と、最低限の礼儀作法を覚えること。できるようになるまでメイドの仕事はさせない。そして働き始めても、勉強に費やした期間の分は給金を出さない、これがメルヴィンの提示した条件だった。要するに一年間を勉強に使ったなら、一年間は無給で働くという事だ。
レティは承諾し、最初の三年間は勉強漬けの日々を送ったのである。
努力の甲斐あって、現在はオリヴィアの専属メイドとして働いている。正式なメイドになって二年は経つが、レティは未だ給金が貰えていない状況だ。しかしレティには微塵の不満も無い。むしろ破格の待遇だと思っているし、ずっと無給でも良いくらいである。そんな風に思えたのは、初めてもらった贈り物のおかげだ。
『おじょうさま。どうして、わたしの名前をレティにしたんですか?』
『それは…自分で調べるのね。わたしからの宿題と思いなさい』
文字を覚え、辞書のひき方を知り、本が読めるようになったレティは、自分の名前に"喜び"という意味が含まれている事を知った。名付け親に宿題を提出したら、その人は滅多にしない、はにかみを浮かべながら教えてくれた。
『正解よ。あなたに出会えて嬉しかった気持ちを名前に込めたの』
初めて、幸せであることに涙が出た。胸を打つこの感動は一生忘れないとレティは思った。
「レティ。あなたさっきから、なに笑ってるのよ。少しくらい手伝ったらどうなの?」
「うふふっ、私も困っているので、助けてほしいのです」
「何よ?」
「お嬢様がなかなか私を罵ってくださらないので、干からびてしまいそうです」
「勝手に干からびてなさい!」
「ああっ!それです!そのお声…!」
「地声だけど!?」
ちなみにレティがこんな風になった理由だが、どうという事はない。
初対面の時から頭ごなしに叱られたのが、強烈な印象を残し、良くない方へ作用したのである。ある日レティは気づいたのだ。「なんだか…褒められるより、怒られるほうが嬉しい」と。ただし、怒られて興奮するのはオリヴィア限定であり、オリヴィア以外を相手にする時は至って普通の感覚で接している。
思い出されるのは、レティが新たな世界の扉を開けた時のことだ。
『おじょうさま!この文章を読んでもらえませんか?むずかしくて、読めないんです』
『いいわよ。…「この汚い雌豚が」?……なに、これ…?』
『すみません!よく聞こえませんでした!』
『ちゃんと聞いてなさいよ。「この汚い雌豚が」』
『もっと感情をこめてもらったほうが、覚えられる気がします!』
『そうなの?「この…汚い雌豚がっ!!」』
『オリヴィアァァァ!!??』
最後の悲鳴は父エルヴィンのものである。
オリヴィアはただ、レティの勉強に付き合おうとしただけなのだが、まんまと歳下の子に手の平で転がされていた。たまたま通りかかった父親は不幸にも、娘がえげつない台詞を叫んでいる場面に出くわしてしまった訳だ。しかし娘の隣で、涎を垂らさんばかりに恍惚な表情を浮かべているメイド見習いを発見し、ますます混迷を極めたのであった。
レティが新世界を開拓したのと同時に、オリヴィアも未知の世界の存在を知った一幕は以上である。




