10
───わたしの声は届かない。
───わたしの言葉は信じてもらえない。
それがオリヴィアの常だった。家族以外に味方はいなかった。きっとこれからも変わらない、そう悟ってからは他人に理解を求めるのをやめた。意見の主張はしても、期待は抱かない。だから今更オリヴィアの言葉を信じると告げられても戸惑うだけ。それも激しく、心が揺り動かされるくらいに。
「………や」
「や?」
「やっぱり言えませんっ」
「はあ!?」
意を決して口を開いたかと思えば、この期に及んでもまだオリヴィアは話そうとしなかった。頑なにもほどがある。リーンハルトの我慢も限界だった。わなわなと肩を怒らせ、頬を引き攣らせつつ「いい加減にしろ!」と叫ぶ。
「お気持ちだけで充分ですので!」
「急に殊勝な態度をとるな!いいからとっとと吐け!」
「駄目です!レティの…彼女の沽券に関わりますから、わたしからは言えません!」
「意味がわからない!」
その後十数分に及ぶ押し問答の末、とうとうオリヴィアは折れた。リーンハルトの意地が勝ったのだ。動いているのは口だけなのに、何故か互いに呼吸が乱れていた。
「…わたし、嘘は言いませんから」
「ああ、そうしろ」
とどめに念押しまでした挙句、彼女の放った言い分は以下の通りである。
「レティは……わたしに罵られると…よ、悦ぶんです!」
「…………………はぁ??」
ものすごい覚悟を決めた様子に釣られ、生唾を飲み込んだリーンハルトだったが、予期せぬ回答に素っ頓狂な声が出る。
「ほらやっぱり!疑いの眼差しで見てるじゃないですか!!」
「ち、違うわ馬鹿っ!予想の斜め上すぎて、反応に困っただけだ!」
「また馬鹿って仰る!」
赤い顔で喚くオリヴィアを宥め、とりあえず座って落ち着こうと試みる。それからリーンハルトは詳しい説明を求めた。うぅ、と唸るばかりだったオリヴィアも遂には観念し、早口に語り始めるのであった。
「レティは訳あって今は無給の状態なんです。本人は承知の上ですけど、報酬が何も無いというのは寂しいかと思って、希望を尋ねたら『お嬢様の罵倒が欲しいです』って…」
リーンハルトは「…そうか」としか言葉が出てこなかった。性癖、もとい趣味趣向は千差万別であるが、これはなかなかに強烈だ。
「わたしだって断ったんですよ!?でもレティったら、叱られようとして奇行を始めるんですもの!クローゼットに頭を突っ込んでいたりとか、最近では台詞カードまで自作してきて、わたしが読むまでへばりついてくるんです!棒読みしても、満足できるまでやり直しさせられるし…」
「…そうか」
つまりリーンハルトが目撃したあれはプレイの一環だったという事だ。どうりでオリヴィアが真っ赤になっていた訳である。これですべてが腑に落ちた。
「他人の趣味にとやかく言いたくありませんけど!限度というものがありますわ!」
「お前…意外と苦労人だったんだな」
猛然と捲し立てるオリヴィアを見ていたら、しみじみした感想がこぼれた。
(それであの時、メイドはこいつを庇おうとしたのか…こいつはこいつでメイドを守ろうと…)
そこまで思い至った直後、リーンハルトは堪え切れずに吹き出したのだった。いきなり声を上げて大笑いし始めた彼に、オリヴィアは瞳をまん丸にする。しばらく凝視していたのだが、腹が捩れるほどに笑う姿に彼女は顔から火が出そうになった。
「そんなに笑うことないでしょう!?わたしは悩んでいるんですよ!?」
「わかって、ぶふっ…いる。くっ…はははっ!」
オリヴィアは目いっぱい眉を吊り上げ、歯を剥き出しにするものの、彼の爆笑は止まらない。むしろ拍車をかけてしまっているようだった。
「悪かったよ」
散々笑い尽くした後でリーンハルトは、大層ご立腹な婚約者に頭を下げた。
「事情も聞かずに怒鳴ってすまなかった」
「それは別に…レティを心配して言ってくださったことですから」
つむじを曲げたままの彼女は、素っ気ない返事をする。
「笑ったことに対しての謝罪は無いのですか」
「お前にも笑わせた責任がある」
むっと唇を尖らせるオリヴィアの横顔に、リーンハルトは知らず知らず表情を崩していたのだった。
「…この後、何か予定はあるか?」
「いえ、何もありませんけど…」
「じゃあ前回の仕切り直しをしないか」
そう提案し、目を細めて笑うリーンハルト。どことなく無防備な笑みであった。
オリヴィアの頬にさっと赤みがさす。
「…ご一緒しますわ」
くぐもった返事を契機に、二人は長椅子から立ち上がった。
出掛けた先で軽い言い合いはしたものの、剣呑な雰囲気になることはなかった。和やかとは言い難いが、賑やかだったのは間違いない。
パチル邸まで戻って来たオリヴィア迎えるため、屋敷から走り出てきたのはレティであった。彼女の顔は今にも泣きそうだったが、主人が憑き物が落ちた顔つきをしているのを目にするやいなや、本当に泣き出してしまった。
「いったい何なのよ!?」
泣いている相手にはかなりきつい口調で詰め寄るオリヴィアを見ても、もうリーンハルトは小さく笑っているだけだ。
「リーンハルト様のお怒りは解けたのですねっ。あのままだったら私、どうしようかと…」
「だからって泣かなくてもいいじゃない!」
「だって…二度とお嬢様に罵倒してもらえないかと思ったら、辛くて辛くて…っ」
「そっちの心配!?自重しなさいって言ったばかりよね!?」
「仲違いしたままでしたら、責任をとって永遠に自重するつもりでした!ですけど仲直りなさったのですから、解禁で良いではないですか」
「良くないわ!断じて良くないわよ!少しは反省しなさい!」
「してます!すごーくしてます!だからしばらくは、お目線だけで我慢します!」
「お目線って何!?」
「ああっ!その気持ち悪いものを見る目…堪りません!」
「何をやっても悦ぶのはやめなさい!」
「ついでに『躾のなってない駄犬が!』と罵ってください」
「あなた、ついさっき我慢するって言ったわよね!?」
「お願いします!」
「嫌ったら嫌よ!!」
にじり寄ってくるレティに恐れをなし、オリヴィアは全速力で逃げて行く。そんなお嬢様を嬉々として追うメイド。いったい何を見せられている。破茶滅茶ではないか。必死に笑いを噛み殺して震えるリーンハルトを、そばに控えていた護衛は未知の生物を発見したような目で見るのであった。
痙攣する腹を押さえながら馬車に乗り込もうとした際、リーンハルトは肩を軽くつつかれた。振り返れば、護衛の青年があちらを見ろとばかりに屋敷の方へ視線を寄越している。彼の視線を辿るようにリーンハルトも顔を上げた。するとそこには、二階の窓から顔を覗かせるオリヴィアがいたのである。レティから逃げている途中なのか、カーテンの隙間からちょこんと見える彼女は可笑しくて、強引に引っ込ませた笑いがまた復活しそうだった。恐らく挨拶もせずに退散してしまったのを気にしているのだろう。リーンハルトは緩む口元を辛うじて引き締めると、彼女に向かって片手を上げた。それを見たオリヴィアは、ぎこちない会釈を返していたのであった。
(…俺は笑い上戸だったのか?)
半日の間にどれだけ笑わされたことか。最後に腹を抱えて笑ったのは、いつだっただろう。もしかしたら初めてかもしれない。婚約者だけでなく自身の新たな一面も知った彼は、一人でほくそ笑んでいた。
誰に教えた訳でもないのに、二人が和解したという噂は皆が知るところになっていた。しばらくリーンハルト独りで参加していた夜会に、二人揃って踊り明かしてきたならば必然の帰結かもしれない。最も恐ろしいのは、二人して社交界に戻るより先に、情報がウルバノの耳に入っていた事である。「わだかまりがとけて良かったですわね」という手紙を読んだ時、オリヴィアは戦慄した。後でリーンハルトに確認したが、彼も口外していなかったので、ウルバノは独自の人脈を用いて掴んだに違いない。
さて、本日オリヴィアは侮り難しダイアー公爵家の令嬢ウルバノから、個人的なお誘いを受けている。公爵邸へ赴くのは三度目になるが、オリヴィアは未だに慣れない。"最上の麗人"と向かい合うのは自ずと緊張してしまう。けれども美術品について高度な話し合いができる同年代は、ウルバノしかいないのもまた事実。かの麗人を相手にするのは怖いような、楽しいような、不思議な感覚があるのだ。
オリヴィアがその手の珍品に詳しくなったのは、本人が語っていた通り祖父の影響である。祖父は収集するのも好きで、その上やたらと蘊蓄を語りたがる老人だった。その長ったらしい蘊蓄を聞いてくれる者がずっといなかったのだが、唯一孫娘だけは一生懸命に聞いてくれた。大いに感激した祖父は、いっとき骨董よりも孫娘に夢中になったほどだ。だから祖父は現在でもオリヴィアにものすごく甘い。珍しい骨董品を求めて国中を放浪しつつ、各地で見つけた貴重な品々を頻繁に送ってくるのだ。
(正直、贈りすぎだと思っていたけど、今はウルバノ様との話のネタになるから助かるわ)
ウルバノと会うにあたり、身だしなみには気を抜けない。オリヴィアは支度の仕上げに、祖父から貰った首飾りをつけようと思案した。パライバトルマリンが美しい逸品で、耳飾りとお揃いなのだ。ここぞという場面でしか身につけなかったが"最上の麗人"に会うなら相応しいだろう。
そこまで考えてから宝石箱を開けたオリヴィアだったが、肝心の首飾りが見当たらなかった。
「レティ。お祖父様がくださった、碧いトルマリンのネックレスを知らない?」
「え?もとの場所に戻したはずですが…」
レティと二人がかりで探してみるものの、見つからない。
「おかしいわね…イヤリングはあるのに」
「申し訳ありません。私が間違えて別の場所に仕舞ったのかも…」
「あなたと決まった訳じゃないのに、謝るのはやめて。今日は別のを身に付けていくから良いわ」
孫にめろめろな祖父は旅の先々で見つけた品を送ってくるので、とっくに宝石箱ひとつでは収まりきらなくなっている。だから多分、他の収納場所にあるだろう。オリヴィアはすぐに切り替えて準備に戻った。
「お帰りになるまでに、探しておきます」
「よろしくね」
彼女はダイアモンドが輝く首飾りをつけ、屋敷を後にしたのだった。
何となく怖い感じがするウルバノと話すのは緊張するものの、それ以上に感心させられる事が多い。オリヴィアは美術品の造詣しか深くないが、ウルバノはありとあらゆる学問に通じている。彼女と会話するだけで、自分も賢くなった錯覚を起こしてしまうくらいだ。加えて、同性のオリヴィアでさえ気後れする美貌。この女性こそ"最上の麗人"だと、つくづく感嘆させられる。
「ついこの間、シャロム画伯の絵を手に入れましたの。是非、オリヴィア様にも見ていただきたくて」
「『赤い馬』シリーズを手掛ける画家ですね。…近代芸術家の中で、一番応援している方です」
「奇遇ですわね。わたくしもなんです」
微笑みを絶やさない貴婦人と比べ、オリヴィアはひどく無愛想な令嬢であった。しかしウルバノは気分を害すどころか、積極的に話しかけてくれる。突っぱねるような物言いをされても悠然と構え、決して感情を乱さない。オリヴィアと真逆というより、次元が違うといった方が正しいだろう。
「そういえば小耳に挟んだのですが、バートン家のステラ様と親しくなさっているとか」
「何度かお見舞い来てくださって、そのあとも我が家にお招きしたりはしましたが…」
その程度で友人を名乗って良いものか、友人が少なすぎるオリヴィアには判断しかねて語尾を濁した。
「いえ…他意は無いのですけど、ステラ様も何かと噂されるお方ゆえ、お二人でいると邪推されてしまうこともあるのではと少し心配なのです」
「お気遣い痛み入りますわ。わたしは噂の十個や二十個増えたところで、どうということはありませんが…周囲に迷惑がかからないよう気をつけます」
悪評が立つ事に慣れてしまっている様子を見たウルバノは、気取られないよう僅かに眉根を下げる。だがそれも束の間のことで、彼女は「ところで話は変わりますが」と言い、にこりと笑った。
「リーンハルト様のことは、いかがお思いなのでしょう?」
「はい!?」
「わたくし、同じ年頃の方と恋愛について語り合いたいと、常々思っていたのです。それで、いかがなのですか?」
「えぇ…と、あの…」
予想だにしない質問に、オリヴィアはしどろもどろだ。
それを眺めるウルバノが、ますます笑みを深めるものだから居た堪れない。
「わたしには過ぎた方だと…思っています」
変な汗をかきながら、もごもごと口を動かすオリヴィアへの追撃は止まらなかった。
「具体的にどのあたりがです?」
「ぐ、具体的!?」
「やはり外見でしょうか?」
「外見は、あまり…」
「あら?そうですの?」
「完璧すぎて、こちらが引け目を感じると申しますか…」
「そんな事はありませんわ。オリヴィア様は魅力的でいらっしゃいます」
それこそどの辺りの事だとオリヴィアは首を捻る。怪訝さがわかりやすく表れていたのか、ウルバノは美しい笑顔で言った。
「ふふっ。わたくしが個人的にご招待したいと感じたのは、オリヴィア様が初めてでしたのよ」
「?」
「ではオリヴィア様は、彼の方の内面がお好きなのですね?」
「!?そっ、いえ…まだ、そこまでの…あれでは…っ」
リーンハルトの内面を理解できるほど、深い付き合いはしていない。でも彼は、オリヴィアの最も欲しい言葉をくれた。単なる偶然だったとしても、すごく嬉しかったのは本当である。かと言って恋愛的な好意があるかと問われれば限りなく怪しい。別に大嫌いとまでは言わないが。
ぐるぐると考え込んでいたオリヴィアだが結局、答えは出せなかった。
「す…すみません…上手く言葉にできないです」
「あらあら。構いませんよ。素敵なものが見られましたし」
「えっ?」
「ふふっ、質問ばかりしてごめんなさいね。お詫びにオリヴィア様も、何でも聞いてくださいな」
「えっ!?」
オリヴィアは最後まで慌てふためくことしかできなかった。
火照った頬のまま帰宅したオリヴィアは、屋敷に入った途端に異様な空気を感じた。それに何だか騒々しい。オリヴィアが巻き起こす騒がしさではなく、張り詰めたような嫌な雰囲気だ。
「あっ!お帰りなさいませ。お出迎えが出来ず申し訳ありません」
「…ねぇ、何かあったの?」
近くを通りかかったメイドに尋ねると、彼女は言い辛そうにしながら教えてくれた。
「それが…お嬢様がお探しのネックレスが、どこにもなくて…使用人の誰かが盗んだのだと、騒ぎになっているのです」
それはオリヴィアの眉を吊り上げるに充分すぎる内容であった。




