6.
宇宙は真空で出来ている。
そこは酷く冷たく(あるいは逆に酷く熱く)、暗闇に満たされた(あるいは逆に目を焼くほどの光に満たされた)場所だ。
冷たく暗い真空を飛ぶには、人間という生き物は余りにもひ弱だ。
だから人間は、宇宙船という強固な構造物の中に密封され、温度管理され、循環する空気を吸い続けながら星々を渡る。
限られた人工環境の中に閉じ込められて、無限の宇宙空間を飛ぶ。
何週間も、何ヶ月も、場合によっては年単位で。
宇宙船乗りたちが惑星の地表に降り立った時、いの一番にする事といえば、まずは深呼吸と相場が決まっていた。
鼻腔を通過する大気の香りを思いきり嗅いで、新鮮な酸素を肺胞で味わう。
たとえそれが惑星に元から存在した大気ではなく〈環境地球化〉によって人工的に調整された大気であったとしても、金属の船殻に長時間とじ込められていた船乗りたちにとっては、充分に『自然的』なものだと感じられた。
エムプラーヴの運転席ドアを開けて惑星ロメロンの大地に降り立った俺も、御多分に洩れず、まずはこの星の大気を肺いっぱい吸い込んだ。
空気は乾燥していて、少し埃っぽかった。
それは『異国の地に来た』という感慨を喚起こそすれ、決して不快感を催すようなものではなかった。
どの惑星にも固有の匂いというものがあり、都市や田舎町にも固有の匂いがある。
旅行者なら誰でも知っている当たり前の事だ。
他国の匂いを不快に思うようでは、船乗りなんぞ、やってられない。
……ただ、今回に限って、何か違和感があった。
単に『乾燥している』とか『埃っぽい』とかの表現では片付けられない、今までに感じたことのない違和感だ。
別に不快ではない……不快に感じるほど強いものではない。
もう一度、息を吸ってみる。
やはり違和感がある。
「気のせいだ」と言われれば「そうですか」と納得してしまいそうなほど微かな感覚だ。
多目的軽装甲浮遊車輌に搭載された人工頭脳は、環境センサーの入力値から『大気に問題なし』と判断し、俺に報告してきた。
自分の鼻が、軍用の高性能センサーより出来が良いなどとは思っていない。
……だが……
心の中の『引っ掛かり』をどうしても拭えない。
(まさか、新手の毒ガスじゃないだろうな?)
従来のセンサーでは検知できないような、毒ガス兵器の類?
(いや、まさか、な)
仮に、そんな新兵器を惑星ロメロンが開発していたとして、なぜそれを自惑星上で、自国民に向かって使う?
(ありえん……やはり気のせいか)
これ以上、思考をぐるぐる回しても埒が開かないと見切りをつけ、改めて周囲を見回した。
広い駐車場の向こうに、大きな箱型の建物が見える。
巨大ショッピング・モール。
図体はデカいが、しかし外壁は薄汚れ、かつてはカラフルだったであろうペンキは長年の紫外線で褪てしまっていた。
薄汚れたまま塗り直しもされない外壁が、放置されたような裏ぶれた印象をこのショッピング・モールに与えていた。
看板のフォント・デザインが古くさい。
建物それ自体も、どこか垢抜けない。
ずいぶんと古いモールだな、と思った。
築五十年は優に超えているだろう。
七十年……いや八十年といった所か。
古い建物でも、メンテナンスに金を掛けて定期的に改装していれば、ここまで見窄らしくは、ならなかった筈だ。
メンテナンスや改装をするだけの金が無かった、それだけの利益を生み出せなかった……つまり商売が上手く行ってなかった、という訳か。
色褪せた建物や看板、ひび割れた駐車場のアスファルトから、このモールが落ち目だったであろう事は推測できた。
寂れた感じは、モールだけでなく周囲の景色全体にも漂っていた。
どこからともなく流れて来て堆積し、駐車場表面の半分を覆った赤い砂。
木も草も無く、赤色の地面が剥き出しになった土地。
近くの幹線道路にも、ひび割れや小さな穴が目立つ。
公共物へ投資するだけの金が、最早この惑星の国庫に無かったという事か。
戦国時代が五百年続いたと言っても、銀河に散らばる七百の惑星すべてが五百年間ずっと戦争をしていた訳じゃない。
一つ一つの星の歴史を見れば、戦をしている時期もあれば、平和な時期もある。
鼻くそをほじりながらでも勝てる楽な戦を仕掛けてガッポリ戦後賠償金をせしめ、その金で束の間の繁栄を謳歌する星もあれば、悲惨なデスマーチの果て軍も民も国家もボロボロになり、他惑星の実質的な植民地に成り下がった星もある。
ある星間戦争で勝った惑星が、次の戦争ではボロ負け、なんて事はザラだ。
銀河中の星々が、戦争・平和・戦争、衰退・繁栄・衰退の短いサイクルを何度も何度も繰り返す。それが銀河戦国時代と呼ばれた五百年だった。
俺の生まれ故郷である惑星マシソニアと惑星ロメロンとは、ここ半世紀の間は互いに中立だった。
つまり、同盟国でも敵国でもない状態だった、という事だ。
だから一般市民レベルで言えば、マシソニア人のロメロンに対する関心は薄い。
仕事中毒患者の巣窟と噂される諜報部の連中ならともかく、一介の技術将校に過ぎなかった俺にとって、惑星ロメロンは空想上の国にも等しい存在だった。
ロメロンの歴史、現在の政治や経済、文化……何も知っちゃいない。
あらためて、ショッピング・モールの本館と思しき建物を見る。
この寂れっぷりから察するに、負け戦に金と生産力を突っ込みすぎて、国民に充分な物資が行き届いていなかったのか。
(勝ち戦であれ負け戦であれ、いずれにせよ、もう何も彼もが御破産だよ。将棋盤そのものが、ひっくり返されちまった)
国家も軍隊も消え、それらを支えていた国民が緑色の化物になってしまったこの状態を『平和』と呼ぶなら、銀河系に五百年ぶりの平和が訪れた事になる。
(ありがたい話だな)
皮肉っぽい笑みで、口元が歪む。
その時、左手首に巻いた腕時計型情報端末から注意喚起の微弱電流が発っせられた。
左腕に伝わるその『ピリッ』とした感覚が、感慨に耽っていた俺を現実に引き戻した。
反射的にホルスターから拳銃を抜き、だだっ広い駐車場を見回す。
腕時計型情報端末にも簡易的な環境探査センサーは搭載されているが、電力を消費するため普段は機能させていない。
端末を通して俺に注意喚起をしているのは、車載人工頭脳だ。
エムプラーヴの陰に隠れるようにして、その車体に背中をピッタリ付け、俺は情報端末に話しかけた。
「どうした?」
「車輌後方六時、百メートルの距離に、人間の反応があります」端末ごしにジョニーが報告してきた。
人間? 生きた人間が居るのか?
俺の心臓が、期待に高鳴る。
しかし期待は、ジョニーの第二報告で打ち砕かれる。
「ZMBE罹患者です」
くそっ、ゾンビ、か。
マシソニア軍の人工頭脳らは、ゾンビどもを『ZMBE罹患者』と呼ぶ。
『ZMBE』という暗号めいた文字列の意味は分からない。
何かの略称かも知れないし……あるいは単に、詳細不明の新型疾病に対し、取りあえずランダムに割り振られた空きコードというだけの話かも知れない。
(ゾンビを人間なんて呼ぶな。奴らは、もう人間じゃねぇよ)
心の中で毒づいて、俺は、ジョニーの指す方向を車体の陰から覗き見た。
ショッピング・モールの別館と思われる建物の傍に、少女が立っていた。
十歳にも満たないであろう女の子だ。
半袖のワンピースの袖や裾から出た手足は、緑色だった。もちろん顔も。
拳銃を構え、照準を百メートル向こうの少女の顔面に合わせる。
少女は動かない。
ただジッと、百メートル先から俺を見ている。
……いや、俺の自意識がそう思っているだけだ。緑色の少女は俺を見つめている訳じゃない。
たまたま目線がこちらを向いているというだけで、ゾンビは俺なんかにコレっぽちも関心を持っていない。
何であれ、自分の半径五メートルより外側の世界に対して、ゾンビは関心を持たない。
ちんたら歩くしか能が無いから、百メートルも離れていれば襲われる可能性はゼロだ。ちょっと小走りすれば楽に逃げ切れる。そもそも『何かを追いかける』などという意思を、ゾンビは持ち合わせちゃいない。
五メートル以内に近づかなければ、ゾンビは危険な存在じゃない。
……その時だ……
何処かから一羽の鳩が飛んで来て、ゾンビ少女の正面、四メートルほど離れたアスファルトの上に降り立った。
次の瞬間、少女の全身……緑色の肌が露出した部分から何本もの棘、というより銛のような長く鋭い器官が現れ、超高速で鳩へ伸びてその体を貫いた。
周囲に青灰色の鳥の羽毛が舞い散る。
いったいゾンビ少女は何をしているのか?
遠目で詳細は分からなかったが、俺には見当が付いていた。
無用心に近づいて来た鳩に、緑色の皮膚の内側から伸ばした無数の長い棘を突き刺して、血を、体液を吸っているのだ。
こうやって、ゾンビどもは養分を補充する。
あてもなく町をウロウロ歩き、時にはジッと立ち止まり、半径五メートル以内に近づくものに皮膚の内側から『棘』を伸ばし、獲物の体内へ深く突き刺し、体液を吸い取る。
犬や猫、鳥、爬虫類、とにかく動物なら何にでも棘を打ち込む。
熊などの大型哺乳類や肉食獣に対してさえ、射程圏内に入れば容赦なく棘を打ち込む。
ゾンビは、獲物の体内に深々と刺した棘の先端から、まずは神経毒と筋肉組織溶解液の混ざり合った物質を噴出させる。
それを体内に打ち込まれると、たとえ相手が巨大な象であったとしても、一瞬で体の自由を奪われ、生きながら体の内側の筋肉を溶かされ、溶けた筋肉組織を血液と一緒に吸い取られる。
もちろん、人間とて例外ではない。
考えただけで寒気がする。
たとえ姿形が家族や恋人や職場の同僚に似ていようとも、こいつらは人間じゃない。怪物だ。化物だ。
離れた所から見ている限りは、アホ顔でノソノソ歩くしか能の無い緑色の夢遊病患者。
接近してみれば、毒液を体内に注入して血液を吸い取る悪魔。
距離五メートルを境に、ゾンビの性質はクッキリと二極に分かれる。
俺は緑色の肌の少女へ銃口を向けたまま暫く迷い、結局、何もせずに銃をホルスターに戻し、いったん浮遊車輌の車内に戻ろうとドアノブに手を掛けた。
そこで、エムプラーヴが浮遊したままである事に気づく。
エネルギーの無駄だ。
「ジョニー」腕時計型情報端末を通してエムプラーヴの人工頭脳に命じる。「橇を地面に着けて、浮遊装置を切っておけ。エネルギーが勿体ない」
「了解」
地上五十センチほどの高さに浮いていたエムプラーヴが、ゆっくりと高度を下げ、橇と呼ばれる脚を接地させた。
ドアを開け、深緑色の軍用車輌の中へ入り、ドアを閉める。
運転席に座り、外部環境モニター越しに、少女の……いや、ゾンビの姿を見つめる。
少女の姿をしたゾンビは、ぼろ雑巾のようになった鳩の死骸をアスファルトの上に残し、再び、ゆっくりと歩き始めた。
明確な意思や目的地があるとは思えない、ただ本能に従い気まぐれに彷徨っているような足取りだった。
やがて少女ゾンビは、駐車場を出て、一台も浮遊自動車の通らない無人の幹線道路を歩き、カメラの視界から外れて、どこかへ行ってしまった。