妖精の恋人 1
ぽかぽかと暖かな陽射しが降りそそぐ、町の大通り。
綺麗に舗装された石畳を進むシモンの足取りは、軽やかだ。
空を仰げば、白いヴェールを思わせる薄雲が広がり、はるか上空の澄んだ青を透かしている。
ほのかに湿気を含む土の香と、そして初夏の花の香を運ぶ心地の良いそよ風が、シモンの頬を撫でて、通り過ぎていく。
……ふわり。
シモンの鼻孔を掠めて、その場に引き留めるのは焼き立てのパンの香り。
窯から出されたばかりの、ほわほわのパンを思い浮かべて幸せな気分になったシモンは、パン屋へ寄ることを決めて、扉を開く――。
カラ、カランと、大通りにドアベルの音が、軽快に鳴り響いた。
「こんにち……」
店内に足を踏み入れようとして、視界が塞がっていることに気づいたシモンは、ぴたりと足を止めて顔を上げた。
今まさに、扉を開けようと手を伸ばしていた青年のヘーゼルカラーの瞳が、驚愕に大きく瞠られた。
つられて驚くシモンも、大きく目を瞠る。
「すみません……!」
慌てて謝罪し、脇に避けて青年に道を譲る。
ふ、と表情を和らげた青年が、腰を折ってシモンの顔を覗き込む。青年の弾むように癖のある髪が、ふわ、と揺れた。
「いいえ」
にっこりと微笑むと、青年の明るい栗色の髪が、彼の纏う穏やかな雰囲気を一層柔和なものにした。
――ただ。
その顔色はほんのりと青白く、目許には力がない。濃厚な疲労がこびりついて見えた。
(体調が、悪いのかな……?)
シモンは隣をすり抜けていく青年を振り返り、店を出て行く後ろ姿を、目で追った。
ぱたん、と扉が閉まりドアベルの音が静まると、店内にいた噂好きのお婆さんが、シモンに、すすす……と近寄ってくる。
にこりと穏やかに微笑むシモンは、しかし、笑みを形作る口許が引き攣らないよう細心の注意を払いながら、口を開く。
「こんにちは」
「こんにちは、シモン。牧師さまは、お元気かい?」
お婆さんは、にんまりと笑う。
「はい」
余計なことは言わずに、シモンは愛想よく答えた。
このお婆さんが喋り出すと、シモンには会話の方向転換はおろか、口を挟むこともままならない。
胸中、どぎまぎしながら構えるシモンは、ひたすら受け身の姿勢をとる。
「そうかい、そうかい」
噂好きのお婆さんは、人当たりの良い笑みを浮かべて頷く。
――町の人は。
半壊状態の礼拝堂が直るまで、教会に近づかないようにと町長から言われているらしいのだが、噂好きのお婆さんは一度、シモンの荷を届けに教会を訪れている。
そこで、元気なセオバルドと会っている。
以来。
噂好きのお婆さんは、シモンに会うと、セオバルドの体調を訊いてくるようになった。
このやり取りも、何度繰り返したかわからない。
「牧師さまは、元気なんだね」
でもねぇ……、と噂好きのお婆さんは悪戯っぽい目をして、シモンの顔を覗き込む。
「元気なのに、あまり何もしないでいると、トゥーティヴィルスに告げ口されるよ」
「トゥーティヴィルス……」
こわごわと呟いたシモンに、お婆さんは声を出してからからと笑う。
「ああ、そうさ」
ですよね……、と虚ろに笑ったシモンは視線を横に滑らせることで逸らし、項垂れる。
悪魔の遣いトゥーティヴィルスについては、噂好きのお婆さんの口から知り、すぐにシェリーに尋ねて教えてもらった。
トゥーティヴィルスの仕事は、教会の仕事がきちんとされているかを監視し、司祭や牧師を始め、その周辺の人間の怠惰を調べ上げること。
本当に怠けているのであれば、怠けている当人が悪いのだが、トゥーティヴィルスの『監視』は、あまりにも細かく粗探しに近い。
厄介なことにトゥーティヴィルスは、祝詞の言い間違いや欠伸に至るまでを事細かに記録し、それすら死後地獄に堕とすための証拠とする『密告者』なのである。
……セオバルドは今、牧師としての仕事は何もしておらず、半壊の礼拝堂を直す気配もない。
同様に、シモンも奉仕者として何もしていない。
密告者に見つかれば、ふたりして死後の地獄行きは確定だろう。
「まぁまぁ……、たまたまお婆さんが訪ねて行った日は、体調が良かったんじゃないのか? シモンだって、周りに気を遣わせまいと『元気だ』って言ってんだろ? なぁ」
パン屋の主人が取り成すように噂好きのお婆さんを宥め、シモンに笑いかける。
シモンは薄く微笑んで応え、肩身の狭い思いで瞼を伏せる。
「……えぇ、まぁ……」
セオバルドは元気だとも言えずに、曖昧に濁す。
元気だと言えば気を回してくれたパン屋の主人の手前、収まりが悪い。さりとて具合が悪いと言えば、噂好きのお婆さんに嘘を吐くこととなる。
町の人たちは、『町はずれの教会の牧師は、元気だ』と噂好きのお婆さんから聞いているようだ。
けれど、セオバルドに会ったのは、噂好きのお婆さん唯ひとりだけ。
加えて、お婆さんが噂好きなことは周知の事実である。
お婆さんの真偽のわからない噂話よりも、もうずっと町へ下りてこない牧師が病弱だという噂話の方が、わずかに信憑性が高いのかもしれない。
「大体、そのトゥーティヴィルスってのは、噂話や悪口なんかも集めて、悪魔に告げ口するんだろ? 気をつけないと、婆さんも地獄へ連れて行かれちまうよ!」
パン屋の主人は、軽く揶揄する口調で噂好きのお婆さんに注意を促すと、恰幅の良い身体を揺すって豪快に笑い飛ばす。
鋭く目を細めて、じろりと睨んで返す噂好きのお婆さんに、不穏な空気が漂うのを察したシモンは色を失う。
「あ、あの……」
場を和らげようと浮かべた笑みが強張りそうになるのを堪え、慌てて話題を変える。
「元気がない……といえば、僕と入れ違いにお店を出て行った方の顔色が、優れないようでしたが……」
大丈夫でしょうか、とシモンは扉を振り返った。
町ですれ違う程度には、見かけたことがあるかもしれない。
言葉を交わすのは初めてだった、名前も知らない町の青年。
「ケネスさんね」
頬に片手を添えて、パン屋の奥さんが心配そうに眉をひそめる。奥さんを一瞥したパン屋の主人が、話しを継いだ。
「シモンは、あまり会ったことがないだろう? 歌だったか、詩を書いているとかで……、短い時間働いて、家に籠っている時間が長い人なんだよ。ここへも滅多に来ないし、来たとしても夕方が多かったんだが……」
「ええ、そうね」
頷いたパン屋の奥さんが、ちらりとシモンに視線を投げかける。
「最近は、昼間に来ることの方が多いかしら……? さっきもね、硬貨を出したかと思ったら『昨日のパンや切れ端があったら、これで買える分を譲ってください』って。顔色もあまり良くないようだったから、つい、……ねぇ?」
やわらかに目を細めてシモンを見つめるパン屋の奥さんは、掌で口許を押さえると、笑みを含む微かな呼気を零した。
どこかで聞いた言葉に、う……っとシモンは片手で胸を押さえる。
今日はもう、昨日のパンや切れ端を譲ってもらうことはできそうにない。
譲ってもらえるパンが無いのがわかっていて強請るなど、そこまで神経が図太くないつもりだった。
シモンは、店内にある一番値の安いミニバケットを、二つ手に取る。
「これ、ください」
「はい、毎度」
シモンからミニバケットを受け取った奥さんが、くすりと笑う。
「そうそう、シモン。この間はブーケガルニをありがとう! 鶏肉と野菜のスープに爽やかな香りが相性ぴったりだったわ! シモンから貰う香草は、葉が艶々していて肉厚なのに瑞々しくって、香りもとっても良いのよねぇ。……何か特別な肥料をあげている?」
「いいえ」
笑みを浮かべて、シモンは頭を振る。
肥料はあげていないが、魔力を込めているとは、言えない。
微かに眉尻を下げたパン屋の奥さんが、シモンに顔を寄せてこそっと囁く。
「ごめんね。昨日のパンと切れ端を、さっきケネスさんに多めに譲ってしまったから……。また近いうちに来るんでしょう? その時に弾んであげるから。その代わり、お客さんから野菜を沢山分けて頂いたから、少し持って行って」
お裾分けよ、とパン屋の奥さんがこっそり片目を瞑った。
初夏になり、勢いよく育つハーブをハーブティーや、束ねてブーケガルニにして、シモンはお世話になっているパン屋の奥さんにお裾分けをしている。
売れ残ったパンや切れ端を安く分けてもらっているお礼、であって。
決して、逆……。
ハーブティーやブーケガルニの代わりに、パンを安く譲ってくれというものではない。
だがしかし。
野菜を分けてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
「ありがとうございます……!」
ぱぁっと顔を輝かせて喜ぶシモンから、パン屋の奥さんは硬貨を受け取り、主人が慣れた手つきでパンを紙に包む。
――その隙に。
隣に並んだ噂好きのお婆さんが、ずいっとシモンに顔を寄せて耳打ちする。
「あの子はね、半年くらい前から急に白い顔をするようになったんだよ」
「あの子?」
誰のことだろう?
ぱちぱちと目を瞬かせるシモンは、小首を傾げて考えを巡らせる。
白い顔……との言葉から、たった今名前を知ったばかりの青年が、脳裏を過った。
「……ケネスさん、ですか?」
うんうん、と噂好きのお婆さんは首を縦に振り、パン屋の夫婦が見ていないことを確認してシモンの肩に手を回す。ぐいっとレジカウンターに背を向けさせると、真剣な眼差しでシモンを見据えた。
「あの子には、何度もどこか悪いんじゃないかって聞いたんだけどね、どこも悪くないっていうんだよ。だからきっと、何か憑りついているんじゃないかと思うんだ。わたしゃぁ、心配で心配で……」
潜められた声は、妙に確信めいて力がこもっている。
顔つきは神妙そのものだが、胸の前できびきびと十字を切る噂好きのお婆さんの瞳は、生き生きとして見えた。
すれ違っただけだが、ケネスの周りには黒い影や靄はもちろん、小鬼の姿もなかった。
憑りつかれるとか憑りつかれないとか、そんな怖い話ではありませんようにと、シモンは祈るのにも似た気持ちで笑い飛ばそうとした。
「まさか、そんなぁ……」
不機嫌な顔をする噂好きのお婆さんが、むっと不機嫌な顔をする。
「えぇ? なぁんだい?」
すごまれて、笑いかけた中途半端な顔で、シモンは凍り付いた。




