幕間 ~当惑~
純粋な黒であった夜空が、水底のような深い碧に、彩りを変えていく。
星明かりは霞んで薄くなり、氷砂糖を思わせる白い月が、碧い空に懸かっている。
空の碧を映し、地に生える新緑の若草までもが、濃い緑がかる深い青に染め上げられた。
仄暗い紫みを含む青い丘では、あちらこちらで輪になり、歌い踊っていた妖精たちが姿を消して、そこに間違いなく彼らが存在していたことを示すように、土から顔を出した茸が、ぽこぽこと輪を描いて生える。
不思議の力に満たされ、妖精たちで賑わっていた夜は西の空に追いやられ、東の地の際からは新しい季節を伴い、朝が訪れようとしていた。
妖精たちが姿を消して、花摘みの人々も町へ帰っていった。
――そんな、夜と朝の狭間。
静かになった丘の上に独り。
濃藍の外套を纏う銀糸の髪の少女が、夜露に濡れた花を一輪、摘んだ。
少女は、黒いワンピースの裾を片手で摘まんで合わせ、袋のようにして、摘んだ花を溜めていく。
少し、難しい顔をして。
少女を模る妖精猫は、口を引き結び、胸の内で文句を呟く。
(何で、……私がこんなことを)
足許で可憐に咲く、淡い黄色のプリムローズの花茎をそっと根元から手折り、もう片方の手で摘まんだスカートへと落とした。
手折られたプリムローズの薄い花弁は、しっとりと夜露に濡れている。
花に触れることで濡れた右手を軽く振り、疎ましげに目を細めるとシェリーは指先を軽く睨んだ。妖精猫の時のように舐めるわけにもいかず、ますます渋い顔をする。
……手が濡れるのは、嫌なのだ。
だから、手が濡れるのにも拘わらず、花を摘む理由を――。
自分を納得させるために考えを巡らせるシェリーは、唇を小さく動かして密やかに唱えた。
これは、シモンの集めた花をすべて使わせてしまった代償なのだ、と。
(私は、あの子に貸しを作るのが、嫌なだけ)
ただ、それだけ。
黒いスカートが、花草の纏う夜露を吸い取り、しっとりと濡れてわずかに重くなる。
立ち上がったシェリーは、スカートの裾を両手で摘まんで広げて、感情の凪いだ静かな瞳で見下ろした。
水を吸ったスカートの黒が、より深い漆黒となった。
……ひかえめな色彩の春の花たちは、優しく華やかに彩る――。
漆黒に囚われた、シェリーの視界を。
朝の訪れと共に刻々と色づいていく、鮮やかな世界に置き去りにされた、一片の夜を思わせるスカートを……。
それをぼんやりと眺めるシェリーは、わずかな間、思考を空にした。
「…………」
花は、これだけあれば充分に足りるだろう。
すべきことを終えて、立ち尽くしたシェリーは、無表情のまま深く考え込む。
単身で、家畜小屋にシェリーを助けに来たシモンのことを。
シェリーを探すシモンの声音には、心から案じる響きがあった。
小妖精に背中を抓られ動けないのだと知った時、シモンの気遣う声に嘘や偽りはなかった。
背中に当てられたシモンの手はやわらかく、慈しむように優しかった。
シモンの膝の上はあたたかく、居心地が良かった。
その時のことを思い出し、安らいだ気持ちになったシェリーは、自身の心情に当惑する。
出会った当初、シェリーがシモンに抱いていた感情は、嫌悪に近いものだった。
セオバルドが目をかけていることが気に入らなくて、シモンが教会へ来た当初から素っ気なく接した。
それからも冷たい態度を取り続け、揶揄ったり皮肉ることもあったが、シモンはへこたれなかった。
腹いせに、シェリーの嫌がることをするでもない。
あるがままを受け入れて新しい環境に順応したシモンは、予想外にシェリーを慕い、まっすぐな好意を向けてくるようになった。
好意しか向けてこない相手を邪険にしても、本人が気づかなければ、それも無駄な努力というものだから。気づいてみれば、シェリーの中に在ったシモンに対する刺々しい感情も、毒気を抜かれて和らぎつつあった。
シモンと過ごした時間を振り返ったシェリーは、花に目を落としたまま、小さな溜め息を吐く。
セオバルドのことを切り離して考えると、シモン個人に対するシェリーの感情は、長く一緒に過ごすことで徐々に変化していた。
(私は今、……別に、あの子のことが嫌いじゃない)
これまでの自分の言動と感情を整理して、シェリーはシモンに対する心証を改める。
それなのに、どうしてだろう。
シモンのことを、どことなく受け入れることができない。
ふとした時に、距離を置きたくなる。
つい先程も、シモンの言葉に嫌なものを覚えて、一緒に花を摘みに行くことを止めたのだった。
――同じくらいの歳の友達もいなかったから……。
それは、耳に入れたくない言葉だった。
顔を上げて、鮮やかな青を重ねた深い碧の空を仰いだシェリーは、遠く虚を見つめる。
たった今、整理したばかりの自分に対するシモンの態度や言動が絡み、古い記憶と交わる。
忘れていたわけではない。
胸の奥に、大事にしまい込んでいた言葉だった。
シェリーは視線を流し、左手首に結わえられている白いリボンと、銀の鈴を見遣る。
「……あの子と貴女は、まったく違う。だけど、少しだけ似ているんだわ」
(だから……)
変わらないものは、たった一つ。
……銀の鈴の、澄んだ音色だけ。
色褪せて断片的となった記憶は、思い出す度に曖昧となり、欠けていく。
儚い飛沫のように脆く、触れることはもちろん、懐かしむことすらままならない記憶。
シェリーは、心の奥底に繋ぎ留めてある大事な思い出を掻き回されて、シモンに上書きされることが、嫌なのだ。




