寂れた教会 5
礼拝堂の扉はわずかに開いていて、耳をそばだてると話し声がする。
シモンは扉をほんの少し引き、隙間から中の様子をこっそりと窺う。
礼拝堂の祭壇の前、セオバルドと客らしい男性が二人で話をしている。
杖を片手に椅子に腰かけるふっくらとした中年の男性は、片足を怪我しているらしく、ズボンの裾から足先まで白い包帯がぐるぐると巻かれているのが見える。
見覚えのない男性は、やはり、町の人ではなさそうだ。
「あの……、先生?」
おずおずと呼びかけると、声に気づいたセオバルドが、シモンと目を合わせた。
セオバルドの視線を追った男性が、礼拝堂を覗くシモンを胡散臭そうにじろりと睨んだ。
「おい。あのガキは、何だ?」
「彼は、私の助手を務めるシモンです」
いつもよりもわずかに高く透る、セオバルドの声。
涼やかに微笑んで、男性に物腰柔らかに対応したセオバルドは、シモンを呼び寄せる。
「……シモン、こちらに来てご挨拶をなさい」
「はい」
「シモン、こちらはジョセフさんだ」
セオバルドは隣に立ったシモンに、男性を紹介した。
一礼をして挨拶するシモンに、ちっ……、とジョセフは忌々しげに舌打ちをする。
「紹介者に、化け物にも対応できる牧師がいると聞いてきたんだが……、大丈夫なのか!? 教会もこんなにぼろぼろで、若造とガキしかいないじゃないか!」
苛立ちを隠さないジョセフは椅子に座ったまま、セオバルドに乱暴な口調でがなり立てる。
動じることなく、穏やかな表情を崩さずにジョセフを見つめていたセオバルドが、ほんの一瞬ジョセフの背後に視線を向けた。
だが、すぐに何事もなかったかのように視線を戻す。
「大丈夫です。貴方に纏わりついているものを、祓って差し上げることもできます」
セオバルドが一瞥をくれたジョセフの背後。
小さな影のようなものが、さっとシモンの視界を横切って走り去った。
小動物を思わせる素早さで、身廊の柱の裏に身を潜めたそれを視線で追い、シモンはじっと目を凝らす。
ジョセフは不審そうにシモンの視線を追い、そこになにもないことを確認すると自分の周囲を見回す。
「なんだ?」
三人以外に誰もいない礼拝堂の、何もない所をじっと見続けるシモンを、ジョセフは顔をしかめて気味が悪そうに見つめた。
「おい、ガキ! お前……!」
「彼は、まだ見習いですが、それに対応できる人間ですから」
ジョセフの言葉をやんわりと遮ったセオバルドは、ポケットから紙切れとペンを取り出して、さらさらと何かを書き記した。
その紙をジョセフに、はらりと見せる。
シモンも、セオバルドの隣からそっと覗き込んでみる。
(……数字?)
紙に記されていたのは、数字。だが、それが何を意味するのか見当がつかないシモンは、きょとんとした顔でそれを眺める。
ジョセフも、怪訝に眉をひそめて難しい顔をした。
「……これは、何の数字だ?」
「ジョセフさんに取り憑いているのは、人ならざるもの。それを貴方から引き離すためにお支払いいただく対価です」
「対価!? これが対価だと!? これがか!?」
弾かれたように顔を上げたジョセフが、セオバルドを凄い形相で睨みつけた。
シモンは紙から目が離せない。
数字を目で数えて、一度数え間違えて。目を皿のように開いて、声に出さずに唇だけを動かしながら、もう一度数える。
動揺が抑えられない。
(……た、高い!?)
今までの生活に縁のなかった金額に、慄く。
激しい驚きが顔に出てしまわないように極力心の内に押し留めるシモンは、どきどきと早鐘を打つ胸を押さえながら、紙とジョセフからそっと視線を外す。
こんな大金が行き来する世界は、自分とは無関係。
自分は前日のパンを安く譲ってもらえることが至福の世界の住人なのだと、自らに言い聞かせることで、シモンは心の平静を保つ。
「……だからあいつは、金をかき集めて持って行けと言ったのか!」
この場に居ない、おそらくセオバルドを紹介した人間を匂わせる口調で、ジョセフが苦々しく吐き捨てた。
杖を握る手に力が籠り、ジョセフの手が青白くなる。
「いくらなんでも、高すぎるだろう!」
感情を昂らせたジョセフが、大声を張り上げた。
足を怪我しているのにもかかわらず、今にも掴みかかりそうなジョセフの迫力に気圧され、シモンは身を固くする。
表情一つ変えないセオバルドは、怯むことなく落ち着いた素振りで答える。
「いえ、特別高額というわけではありません。それに私にも生活がありますから……。ここも荒れ果ててしまって直さないとならないわけですし」
しれっとした顔で、あちこち壊れている礼拝堂をぐるりと見回す。
「いるのかいないのかわからないものに、こんな大金を払えるかっ!」
ジョセフに怒鳴られようとも、セオバルドは意に介さない。彼はまるで、そういった反応が返ってくることを知っていたかのようだった。
「対価を払えないとおっしゃるのなら、私はそれで構いませんが……」
セオバルドは、ジョセフに考える時間を与えるように一度言葉を区切る。
そして、おもむろに口を開いた。
「……当方としても、それを祓う為に少なからず身を危険に晒すわけですから。そうですか、それは残念です。足を怪我されているところ、遠くからわざわざお越しいただいたのに申し訳ない。では、取り憑かれたまま、お帰りになるということで」
まったく残念そうに聞こえない声音で話を締めくくると、セオバルドは一切の表情を消してジョセフから視線を逸らす。
あっけなく突き放されたジョセフは、目を見開いて呆然とした。
「いいじゃない、払えば。どうせ周りの人間から法外にせしめた金でしょう?」
唐突に、礼拝堂の入口付近から、凛とした少女の声が割って入った。
何時からそこにいたのか。礼拝堂の扉に一番近い会衆席に腰を下ろした銀髪の少女が、ジョセフを冷ややかに見つめている。
ジョセフはシェリーを鋭くひと睨みし、ぎりっと奥歯を噛み締めると、椅子から腰を浮かしてセオバルドに詰め寄った。
「……取り憑かれたままだと、私はどうなるんだ?」
「いるのかいないのか、わからないのですよね?」
対価を払うことを渋ったジョセフに、もはや興味はないのか。セオバルドは素知らぬ顔をして、とぼけてはぐらかす。
普段、口数が少なく淡々としてはいるが、シモンに対するセオバルドの態度はとても穏やかだ。
ジョセフに対して冷淡に接するセオバルドに、知らなかった彼の一面を見た気がして、シモンは背筋をひやりとさせる。
「いたらの話をしているんだ!」
「さぁ……? 何度も店が荒らされたのも、ご家族に逃げられたのも事故に遭われたのも、火事に見舞われたのも、人ならざるものに取り憑かれてしまったせいかもしれませんし……」
セオバルドは上を見上げ、礼拝堂の天井よりもずっと遠くて高い――、天を仰ぐ。
「そろそろ天に召されるかもしれませんね」
「……冗談だよな?」
「冗談に見えましたか?」
セオバルドは至って真面目な顔で、不思議そうに聞き返した。
それまで平静を装っていたシモンは、ぽかんと口を開けて思わずセオバルドの顔を見つめる。
冗談も何も。
仮にも牧師が礼拝堂の祭壇の前に居るのだから。
(それは言っちゃいけないやつです~っ!)
居心地の悪さに身を竦ませる。
文句を言いたそうに顔を歪めたジョセフは、浮かしていた腰をどかっと椅子に降ろし、セオバルドを見上げて、ぐっと言葉を呑み込む。
目線はセオバルドに合わせたまま、やがてぐったりと脱力したように肩を落とす。
そして大きく溜め息をついた。
「払うよ……、払ってやる!」
自暴自棄になったともいえる投げやりなジョセフの言葉に、セオバルドは微かに口角を上げる。
「ご理解をいただき、ありがとうございます。支払いは現金、前払いでお願いします。それと……」
セオバルドはジョセフに、ここで見聞きしたことの詳細と対価の内容について、他者に漏らさないよう約束して欲しいと告げた。
「……約束?」
「ええ。もしも、約束を破られるようなことがあれば、当方ではもう二度と貴方の依頼を受けることは致しません。たとえ、何があっても……」
セオバルドは柔和な声で念を押して、薄く微笑する。
けれど。
声音とは裏腹に、彼の青い瞳は冷徹に、ひたとジョセフを見据えていた。