赤髪の青年 8
天を覆う厚い雲が、冬の日暮れを一層早めていた。
空は夕暮れの朱を飛び越えて、うっすらと夜の色彩に染まる。夜霧は冷たい闇に溶け込んで、しっとりと肌に纏わりつく。
教会と町を繋ぐ細い道の先に、白い靄に包まれて遠ざかってゆく小さな朱い炎がぽつりとあった。
柔らかな灯りを受けて浮かび上がる人影は、赤髪の青年。
道を駆けるシモンが、まっすぐに通る声で青年の名を呼んだ。
「ユアンさんっ!」
振り返るユアンの動きに合わせて、ゆらり、と。ユアンに付き従い宙に浮かぶ明るい炎が、一筋の尾を引いて止まる。
シモンが追い付くのを待つわずかな間、炎先がちろちろと天に靡く。
不思議そうな顔をしたユアンが、シモンに声を投げた。
「なんだ? どうした?」
「ユアンさんに、訊きたいことがあって……」
走ったことでとくとくと跳ねる鼓動を落ち着けるために、シモンは大きく息をして呼吸を整える。
言葉を区切ったわずかな時間の隙間に、くだけた口調でユアンが言った。
「ユアンでいいよ。堅苦しい」
ユアンは、セオバルドとテーブルを囲んでいた時と同じ、さっぱりと明るい表情。
追い返そうとする素振りもなく、嫌悪の言葉を浴びせられるのでもない。ほ……、と安堵したシモンの肩から力が抜けた。
シモンは、ユアンときちんと話をするために、まず自身の非を詫びる。
「町なかで、悪魔と間違えて……、人攫いだって大声を出して、すみません」
ユアンのぱっちりとした目許がより大きく見開かれて、明るい琥珀色の瞳がまん丸くなった。
担いでいた荷を背負い直し、ばつが悪そうに少し視線を泳がせたユアンは指先でぽりぽりと頬を掻く。
「いーよ。あん時は俺も頭に血が上って、大人気なかったかな。こっちも悪かった。……で? 訊きたいことって?」
腰に片手を当てて、小首を傾げる。シモンの顔を覗き込むユアンは、口をつぐんで聞く姿勢をとった。
尋ねることにほんの少し躊躇いを覚えるシモンは、思い詰めた顔できゅっと唇を噛む。
「参考に、させてもらいたいんです……」
ユアンに尋ねたところで、正解はないのかもしれない。
自分で考えなければいけないのかもしれない。
けれど。
町でシモンの振る舞いを咎めたユアンは、少なくとも違う方法を知っているはず。
経験のないシモンは、他者の経験でもいい。少しの情報と気付きが欲しい。
「ユアンさんなら。黒い影や靄に町の人が転ばされそうになったら、どうしましたか?」
「は?」
きょとんとしたユアンは、尋ねられたことを咀嚼するように目を瞬かせる。次いで、屈託のない笑みを浮かべた。
「そんな顔をして追いかけて来るから何事かと思った。律儀だなぁ、シモン」
「そんな顔って……」
真面目に尋ねたシモンが眉をひそめると、一応笑っては悪いと思ったのか、ユアンは口許を片手で隠す。シモンにじっと見つめられて、口許の手を顎に。そのまま少し考える素振りで黙る。
「俺なら、ねぇ……。ま、場合によるけど『何もしない』、だ」
「……そう、ですか」
ユアンも、セオバルドと同じ答え。
やっぱり、見ない振りをしなければ――。
関わろうとしてはいけないのだろうかと、シモンは俯きがちに目を伏せた。
「小さい頃からずっと見てきたけど。大概の人間は、足にアレが数本絡まったって転びやしない。もちろん、絶対に転ばないとも言い切れないが」
シモンがゆっくりと顔を上げると、しっかりと目が合うのを待ってからユアンは口を開く。
「だから、俺は気になった人がいたら話しかけるかな。……荷物沢山持ってる人とか、お腹に子供のいる女性、足許の覚束ない老人とか」
ユアンの話に興味を惹かれて、シモンの視線は彼の瞳に釘付けになる。
視界にいる全ての人でなく、ユアンが人を選んだことが不思議だった。
「小さな子供は……? 気にならないんですか?」
「うんと小さな子供には、大抵そばに付き添う大人がいる。大人がそばにいない大きさの子供は転んでもすぐに起き上がれる。……ついでに、若いやつは足がもつれても滅多に転ばない」
転んだら「大丈夫か」って声くらいかけるけどな、とユアンは付け加えた。
なるほど、とシモンは頷く。
「気になった人たちには、なんて話しかけるんですか?」
「ん? なんだっていいさ。荷物を持った奴なら、手伝えばいい。知り合いなら『最近はどうだ?』とか、天気の話だっていい。ふらっと立ち寄った町の知らない人間だったら道を尋ねるとか、美味い食べ物屋を訊いたっていいさ。アレが手を伸ばすタイミングが歩調とずれれば充分だ。万が一転びそうになっても、そばにいれば手を差し出すこともできる、だろ? ……手を伸ばして届く範囲でできるだけの、自己満足だけどな」
「……」
足を絡められそうになった人に声をかけるという点では、ユアンとシモンの行動はほとんど変わらない。
しかし、何かが違う。
「それから、シモン。黒い影や靄を見過ぎだ」
「――あ」
シモンは、はっとなる。
町でシモンが常に目で追っていたのは『人』ではなく、黒い影や靄。転びさえしなければいいと、シモンは『人』に嘘を吐いた。
一方で、ユアンが見ようとしているのは『人』だ。
行動の基準としたもの――。見ているものが、ユアンと違っている。
黒い影や靄を見て行動していたシモンと、『人』を見てそばに寄り添う考えのユアンとでは、似ているようで全く違う。
町で暮らしていくのに、関わるべき『人』ではなく黒い影や靄を見続けていれば、少しずつ周りとずれが生じるのかもしれない。
それがやがて、『人』の心を遠ざけてしまうほど大きくなったら……。
昼間、シェリーやユアンから貰った言葉が、シモンの中で緩やかに噛み合う。
「……ユアンさん、ありがとうございます」
「ユアンでいいって。なんか参考になったか?」
「はい。少しだけ、わかったような気がします」
シモンが頷いて答えると、「そっか」とユアンは頬を緩めて視線を落とす。シモンが片手に握りしめていたお守りのぬいぐるみに目を留めて、「ん?」と唸る。
「なんで持って来たんだ? それ、もう返品不可だぞ」
「へ? ……あ、これは――」
返そうと思ったわけではないと言おうとして、シモンはぬいぐるみを見下ろす。
慌ててユアンを追いかけてきたので、うっかり持ってきてしまっただけ。……だが。
ユアンの言い回しが気になったシモンは、小首を傾げる。
「もう? 返品、不可?」
どういうことだろう。
怪訝な顔で見上げるシモンの額を、ユアンが人差し指で、つん、と軽く突いた。
「もしも捨てても、ちゃーんとお前のところに戻ってくるからな」
笑みを含んだ声音で言い、琥珀色の瞳に悪戯っぽい光を湛えるユアンに、突かれた額を片手で押さえたシモンは大きく目を瞠る。
「え……、えぇ!? やっぱり呪いの猫!?」
「呪いの猫って……。どんなお守りだよ! 滅茶苦茶だなー!」
さぁっと青褪めるシモンに、ぷっと吹き出したユアンは、からからと声を上げて笑う。
そしてシモンの背後、教会にちらりと目を配り、声を落として囁く。
「お、セオバルドだ。……町でのことは知られたくないんだろ? あいつがここに来るとややこしくなるから、もう戻れ。じゃあな、シモン」
言い終えるか終えないかのうちに、挨拶がてら軽く片手を上げたユアンは、シモンに背を向けて歩き出した。




