赤髪の青年 7
驚愕に彩られたシモンの表情が、ユアンに前髪を上げられていることによって、際立つ。
シモンの脳裏に浮かぶのは、つい先程、自分に向けて動かされたユアンの口許。
――うそつき。
声を成さずして、伝えられた言葉。
もしかして、町で会った時に、何か勘付かれていたのだろうか。
息を潜め呼吸を浅くしたシモンは、次に何を言われるのかと、ぴくりとも動けずにユアンの顔を凝視する。
狩られる側から見た犬は怖いといったユアンの声が、頭に響き渡る。
まさに今、狩られる側に立った気分だった。
「どうした? ……冗談だよ。なぁ?」
シモンの反応が予想外だったのか。
目を瞬かせたユアンはシモンの前髪から手を離し、セオバルドに同意を求める。
「ああ、そんなに真に受けなくても、ユアンが言った通りになるわけじゃ……。シモン?」
取り成すように口を挟んだセオバルドは、表情を凍り付かせ微動だにしないシモンに不審の眼差しを向けた。
「……冗、談?」
自分の口から出た音を耳で拾い、シモンは混乱する頭をゆっくりと整理する。
女という言葉に意識を持っていかれたが、よく考えれば蝶の『変身』を飛躍させた話。つまり――。
たとえ話を絡めた、――冗談。
頭で薄らと理解をするも、際どいところを衝かれたシモンは、ユアンに鎌を掛けられたのではないかと疑念が消え切らない。
(え? 女だと勘付かれていたんじゃなくて……?)
警戒する気持ちが先行し、思考がついていかない。
色をなしたシモンは茫然を通り越して生気のない人形のような顔をする。
「変な奴だな」
くすりと笑ったユアンは、視線を後ろに流して身を翻す。床に置いてあった自分の荷袋のそばに屈み、手を入れてごそごそと漁る。
「たしか……。お、あった」
荷袋の中に手を突っ込んだまま手許を覗き込んだユアンは、何かをぼそぼそと呟き、顔を上げた。
「セオバルド、今度市が立つときに報せを遣るから顔を出せ。シモン、お前も」
ほら、とユアンは手の中の物をシモンに放って寄越す。
高く放られた小さなそれは、一度天井近くまで上がり、弧を描いてシモンの手許に落ちてくる。
思わず両手を差し出して受け止めると、ぽすっと布の柔らかな感触が手にあたる。両手にすっぽりと収まる『何か』を見つめたシモンは、ぎょっと目を瞠る。
「……!?」
絶句する。
(ぬい、ぐる……み……っ!?)
無感情な魚を連想させる大きな白目に黒い目玉の付いた、横に広がる平べったい楕円の顔。
頭部には、大きく尖った耳が絶妙な間隔で生え、強引に猫の印象を植え付けている。鼻はなく、口は黒い糸でぞんざいに刺繍され塗りつぶされていた。まるで、ぽっかりと黒い口内を晒しているかのようだ。
頭と胴体は糸で直接縫い付けられて首はなく、頭と胴体の境には絞められたかのようにきつい皺が寄る。
シモンの手の中で、かくんと後ろ向きに頭と胴体の繋ぎ目が折れた。……頭が大きすぎるのだ。
顔の半分以下の大きさの、いかにも簡素に作られた雫型の胴体からは、ひょろひょろと貧相な長い手足がだらしなくぶら下がっている。白地の身体に黒の染み……、もとい不規則に斑模様の付けられた牛柄の奇妙なぬいぐるみ。
それは粗雑な造りに見えて、しっかりと存在感があり、どこか妙にリアルだった。
ぎょろり……。
何の感情も灯さない虚を映す黒目が、ぞろりと動いた。
「え……?」
一瞬、シモンは思考が真っ白になる。だが。
気のせいだ、見間違いだとすぐに思い直す。
きっとよくわからない見た目のせいだと、改めて、それをしげしげと眺めて。
(お、おぞましい……!)
シモンの肌が、ぞわぁっと粟立つ。
屈んだ姿勢のまま、ユアンは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「一つ余ったやつだ。なんかお前、ぼんやりとして危なっかしいから、くれてやるよ」
「要りません」
可愛いとも趣味の良いともいえないぬいぐるみを掌に乗せたまま、シモンはユアンに冷ややかな拒絶の眼差しを送り、無機質な声で即答した。
「ひでぇな、シモン」
唐突に手許から聞こえる細く高い声。
かくん、とシモンが首を下げるとぬいぐるみの黒い目玉と視線がかち合う。
「わっ、わ……」
ぬいぐるみを放り投げそうになるのをなんとか堪え、両手でお手玉する。
「何!? 呪いの……、猫!?」
けらけらと笑うユアンが、荷を掴んで立ち上がる。シモンに近寄って、ぽんっと頭に大きく広げた手を乗せたかと思うと、小さな子供にするようにわしゃわしゃとする。
「わ……っ」
シモンの緩い癖のある亜麻色の髪が、ユアンに掻き乱されて絡み、くしゃくしゃになった。
片手で髪を押さえたシモンが、むっと不機嫌な顔をすると、ユアンは目を細めてにやりと笑う。
「馬鹿、お守りだよ。持っておけ」
「持っておけ」
ユアンに呼応するかのように、ぬいぐるみが甲高い声を発した。
「……っ!」
口から洩れそうになる悲鳴を、シモンは辛うじて呑み込む。口が動いているでもないぬいぐるみの、どこから声が出ているのかわからずに思いきり顔を引き攣らせる。
(お守り……? これが?)
ぬいぐるみを手に凍り付くシモンを見遣り、立ったままカップに残るお茶を飲み干したユアンは、満足そうな顔をした。
「シモンにも会ったし、そろそろ帰るわ。セオバルド、またな」
少ない荷をひょいと担いだユアンは、隣近所に帰るかの口調で挨拶をする。「ご馳走さん」と、シモンの隣を擦り抜けて扉へと歩みを進めた。
「ああ」
「……どうも」
短く返事をするセオバルドとシモンに背を向けたまま、ユアンは荷を掴んでいない方の手をひらひらと振った。
ユアンが扉から出て行くのを見送ったシモンは、両手にぬいぐるみを持ったまま、セオバルドに向き直った。
「ユアンさんは、牧師さまを辞めたんですよね。それなのに……」
首を傾げたシモンは、手許に残されたぬいぐるみに再び目を落とす。
「市が立つ……って市場じゃないですよね。教会で開くバザーですか? このぬいぐるみのお守り、売れるんですか?」
正直、見た目は呪いのぬいぐるみ。
姿形の愛らしさを売りにしているとは、到底思えない。
声が出たのは何か仕掛けがあるのかもしれないと思い、シモンはぬいぐるみをくるくるとひっくり返す。ぬいぐるみの頭や腹を指先でぐいぐいと押さえてみる。
けれど、指先に伝わるのは、布に詰められた柔らかな綿の感触のみ。
手許から声がしたように思えたが、ユアンが声音を変えてからかっていたのかもしれない。
町で人攫い呼ばわりをしたから――。
まさか。
「――さっきの仕返し……?」
俯いて片手で口許を覆い、小さな声で呟く。
不審そうなセオバルドが、鸚鵡返しに尋ねる。
「仕返し……?」
「いえっ、何でもないです」
慌ててシモンは発言を打ち消した。話題を変えたいこともあって、セオバルドにぬいぐるみを差し出す。
「あのっ、先生。これ……」
どうしましょう、と微苦笑する。
お守りと言われても、使い方がよくわからない。飾っておくにしても存在感があって、なんだか怖い。
差し出されたぬいぐるみをほとんど見ることなく、セオバルドは深く息を吐いて席を立った。
「折角だから持っていればいい。……まったく、誰にでもすぐに世話を焼きたがる」
「誰にでも、ですか?」
「ああ」
疲れの滲む、溜め息にも似た声音でセオバルドは相槌を打った。
歯に衣着せぬ物言いのユアンにきつい印象のあったシモンは、違和感を覚えて眉を寄せる。
(世話を焼きたがる?)
でも、確かに。
魔力が貧相だとか、ぼけっとしているなどときついことを言われはしたが、初対面でありながらユアンに町での振る舞いを忠告されたことも事実だ。
渡されたぬいぐるみが本当にお守りであるのなら、セオバルドの言う通り――。
「先生、少し出かけてきます……! あの、ユアンさんに訊いてみたいことがあって……」
「ユアンに?」
「はい」
シモンは踵を返し、驚いて目を瞠るセオバルドに背を向ける。
ユアンは今出て行ったばかり。まだ近くにいるはずだ。
ぬいぐるみを片手に持つシモンは、急いでユアンの後を追った。




