寂れた教会 1
ちり、ちり……、ん。
薄闇にまどろむ静謐な景色の中、高く澄んだ鈴の音が響いた。
東の空の端から柔らかな乳白色の光が零れて、濃藍の夜に滲む。
――夜が明けようとしている。
町から少し離れた丘の上には、小さな古びた教会がぽつんとあった。
教会の住居部分の窓の一つに、ぽぅ……と灯りが点る。
「寒ぅ……」
ベッドから上体を起こした小柄な少女が、自分の身体を抱き締めてさすった。閉じてしまいそうになる瞼を指の腹でそっと擦り、ぱちぱちと淡い翠の瞳を瞬かせる。
起き上がった少女は、机上に置かれていた手燭の火屋を外し、真摯な眼差しでじっと芯を見据える。
――狙いを定める。
唇の内で短い呪文を唱え、指を擦り合わせてぱちんと鳴らし、芯に向けて火花を飛ばす。
少女の指先から飛んだ火花は、手燭の芯に当たり、炎を点した。
「よしっ、今日も成功!」
幸先良し、と頬を緩める。
寝衣を脱いだ少女は、まろやかな胸の双丘に薄布を巻きつけて、押しつぶすようにきゅっと締め付ける。
女性であることは、誰にも打ち明けていない秘密だった。
男物の服にベストを着た少女は、緩く柔らかな癖を持つ淡い亜麻色の髪に手櫛を通す。性別を隠している後ろめたさもあり、前髪は顔が隠れるように、後ろの髪と共に襟足で切りそろえてあった。
手燭を携えた少女は私室から出ると、たんたんと軽やかに階段を下りて、キッチンの扉を開ける。
暗く冷えたキッチンに入ると、まず暖炉の中の燃え切った灰を掻き出そうと覗き込むが、灰がない。
キッチンを見回すと、暖炉だけではなく水回りも床もぴかぴかになっている。
「小さい人が、手伝ってくれたのかな……?」
眠っている間に、掃除を済ませてくれていたらしい小妖精に、後で忘れずにミルクと大麦の堅パンを一切れ、暖炉の上に礼として置いておかなければ……と、少女は微笑む。
暖炉に薪をくべて火を入れると、少女は大きな鍋の中にたっぷりと水を喚び出し、目を皿のようにして異物が紛れ込んでいないか、注意深く覗き込む。
「……きれいだよね」
問題ないと判断し、食事の準備に取り掛かった。
少女の用意する朝食は、甘さを控えた薄いパンケーキと、小さく切った野菜を煮込んで作るスープといった、簡単なものだ。
明るくなった外の様子が、キッチンの窓から窺える。
動きの活発になった小鳥たちが声高に囀り、ぱたぱたと軽い羽音を立てて木の枝から飛び立つ。
暖炉の熱と、窓から入り込む陽射しでキッチンが暖まり、鍋の中でスープの煮える音が、ことことと小さな歌のように聞こえ始めた。
手許からパンケーキの焼ける香りがふわりと漂うと、少女はほっと一息を着く。
――のどかな朝だった。
かちゃり、と扉が開き、一人の青年がキッチンに入ってきた。
少女はわずかに表情を引き締めて、教会の主であり、牧師である青年を振り返る。彼の海を思わせる青い瞳と視線を合わせた。
「先生、おはようございます」
少し硬く、小さな声で簡潔に挨拶を済ませた少女は、手許のパンケーキを気にするふりをして目を逸らす。
失礼のない程度に接触は少なく、会話は最小限に、と。常日頃から心掛けている。
雇い主でもある青年に、女性であることを知られるわけにはいかない。
「おはよう、シモン」
淡々と挨拶を返す青年は、まだ目が覚めたばかりなのだろう。無表情のままラウンドテーブルの椅子に腰を掛けて、頬杖を付く。漆黒の絹糸のような髪がさらりと目許にかかり、軽く伏せられた切れ長の目に睫毛が薄く影を落とす。
青年は普段から物静かで、口数も多くない。必要以上に話し掛けられることもないので、シモンは、彼がどんな人間なのか未だによくわからない。
……よくわからないが。
寡黙な青年は整った顔立ちであるが故に、早朝から愁いを纏うように見えた。
「……今、お茶を淹れますね。ハーブティーでいいですか?」
「うん」
青年から返事をもらい、シモンは自身が調合したハーブティーを淹れ始める。
カップにハーブティーをなみなみと注ぎ、シモンはそれを運んで、青年の目の前に置いた。
まっすぐに立ち昇る熱い湯気が、清涼感のある爽やかな香りを漂わせる。
「先生? まだ熱いから気を付けてください」
青年がすぐに口を付けたり、うっかりカップを倒さないように注意を促す。
頬杖を付く青年は、カップを眺めながら「ああ」と相槌を打った。
「パンケーキと野菜スープですが、今食べられますか?」
「……お茶の後でもらうよ。君は先に食べたらいい」
「はい」
毎朝の、決まりきったやり取りだった。
やせ細っているわけではないが、すらりとした体躯の青年は、朝は特に食が細い。
けれど、必ずキッチンに顔を出し、こうして一緒に食卓を囲う。
カリカリ……と、キッチンの扉を爪でひっかく音がする。
シモンが扉を開けると、隙間からするりと一匹の猫がキッチンの中へと身体を滑り込ませる。
ちりん、ちりんと、澄んだ鈴の音を鳴らしながらシモンの足許を、ととと……、と足早に擦り抜けていくのは、淡い灰色の、光の加減では銀色にも見える不思議な毛色の猫。
「シェリー、おはよう」
シモンが声を掛けるのとほぼ同時に、猫はひらりと青年の隣の椅子の上へと飛び乗った。
はずみで猫の首に白いリボンで結わえられている銀の鈴が、ちりんと大きく鳴る。
「おはよう、シモン。……セオ。ねぇ、セオバルド、起きてる?」
まろやかに愛らしい声で囁く妖精猫に、頬杖をついて目を瞑っていた青年は、小さく頷いた。
それを横目で見ながら、シモンはシェリーに声を掛ける。
「シェリーはホットミルクでいい?」
「温め過ぎないで。猫舌なのよ」
セオバルドからシモンに視線を滑らせたシェリーは、素っ気ない口調で注意を促す。
「知ってる」
人肌に温めたミルクをシェリーに出し、パンケーキとスープをラウンドテーブルに運んだシモンも着席する。一度、祈りの形に指を組み、感謝の言葉を述べたシモンは、パンケーキを頬張って食べ始めた。
熱々のスープを頃合いまで冷まし、一滴残らず飲み干して身体が温まったシモンの頬に、ほんのりと赤みが差す。
お腹が満たされて、ほぅっと息を吐くシモンに、シェリーが目を光らせる。
「食べ終えたら、ちゃんとナプキンで口を拭って」
「うん――」
わかっている、そう言おうとしてシモンは、額に皺を寄せて嫌そうな顔をしているシェリーに気づく。自分の一挙一動を注視する、彼女の青みの深い紫の瞳の前に、思わず口をつぐむ。
余計なことを言って彼女の機嫌を損ねでもしたら、数倍の小言が返ってきそうだった。
朝から、些細なことで注意を受けることは避けたい。
シモンは素知らぬ顔をして、ナプキンで口を拭う。
早々に食事を済ませたシモンは、空になった皿を持って立ち上がり、さっと身を翻す。流し台に皿を運んで洗い、片付けた。
「先生、お茶の残りはここに。スープは鍋の中です。パンケーキは、焼いたものがお皿に置いてあるので」
「わかった」
「掃除の後に町へ買い出しに出掛けますけど、何か買って来るものはありますか?」
手に残る水気をタオルで拭き取りながら事務的に尋ねたシモンは、ちらりとセオバルドを振り返る。
「いや、……特にない」
答えを得たシモンは目を伏せることで頷き、「はい」と小声で返してからキッチンを出た。