冬の始まり 1
秋の陽射しがやわらかに降り注いでいても、風は冷たく、肌寒さを感じる昼下がり。
昼食の片づけを終えたシモンは、温かなハーブティーを乗せたトレイを片手に、セオバルドの部屋の前に立った。
とんとん、と扉を軽くノックして声を掛ける。
「先生、お茶を持ってきました」
「……どうぞ」
シモンは、ゆっくりと扉を開けた。
セオバルドの部屋は掃除をしなくていいと言われているので、こうしてお茶を運ぶ時くらいにしか、立ち入ることはない。
一歩足を踏み入れると、古びた本の匂いと共に、何種類もの香木や香草、爽やかなスパイスの香りが、ふわりと鼻孔に届く。
いつもよりも、多彩な香りがした。
強い香りが入り混じるのを感じたシモンは、物珍しさから、こっそりと視線を巡らせる。
きれいに片付いていて、埃一つ落ちていない部屋。
服や鞄をしまう収納の他には、簡素な造りの机と小さな本棚がある。本棚には、薄い本から厚い本まできっちりと隙間なく収まっている。
飾りなどはもちろん、余計な物は何一つなく、まるで仮住まいのようだった。
唯一。
ベッドメイクされた壁際のベッドの隅に、銀色の妖精猫が丸くなってシーツに皺を作っている。
薄く目を開きシモンの姿を捉えたシェリーは、すらりと長い尾を一度、ぱたんと振った。
シモンは、部屋の奥にある一枚の扉に目を留めた。
そういえば、この扉の先の部屋には、まだ入ったことがない。
……漂う香りは、隣の部屋から漏れ出たものなのだろうか。
独特の香りに満ちたセオバルドの部屋は、教会のどこの部屋とも違う、未知の空間に思えた。
しん、と静まり返る部屋の中、シモンはセオバルドの許へとトレイを運ぶ。
椅子に腰かけるセオバルドは、机に置かれた厚く大きな本に目を落としていた。
読み物に集中しているらしく、シモンが隣に立っても、何の反応も示さない。
ぱら……。
セオバルドが本の頁を捲り、乾いた紙の音がした。
シモンは、セオバルドの読書の邪魔にならないよう、机の端にカップを置きながら、彼の読んでいる本をちらりと覗き見る。
机に開かれた大きな本には、手書きの細かな文字がびっしりと並ぶ。
――写本だ。
あまり隣から覗き見るのも不躾な気がして、シモンは写本からセオバルドの横顔へと視線を移す。
黙々と目で文字を追うセオバルドに、おずおずと声を掛ける。
「先生? 町へ買い物に行ってきます。何か必要な物はありますか?」
ややあって。
「ああ、それなら……」
写本から目を上げたセオバルドが、机の隅に置かれているメモに手を伸ばし、その一枚にさらさらとペンを走らせる。
「ここに書いてあるものを、買って来て欲しい。それと、今日は買い物を終えたらまっすぐに帰ってくるように」
「……はい」
メモ用紙を受け取ったシモンは、セオバルドの涼やかな青い瞳と目を合わせて、小首を傾げる。
今までに、シモンは買い物の帰りにどこかへ寄り道をすることはなかったし、セオバルドにそんなことを言われたのも、初めてのことだった。
「帰ったら講義の中で説明するから、出かけておいで」
「はい」
セオバルドは再び本に目を落として、読書に没頭した。
視線を感じて首を巡らせると、セオバルドのベッドに丸くなるシェリーと目が合う。
「……シェリーもたまには町へ一緒に行ってみる?」
「いやよ。冷たい風にさらされて、身体を壊したくないもの。今日で夏も終わり。夜には冬の妖精が目覚めて冬が始まるから、風はますます冷たくなるわ」
「冬の妖精?」
「杖を振るって、木の葉を落として回るのよ」
ふわぁ、と大きな欠伸をしたシェリーは、シーツに額を擦り付けて、気持ち良さそうに微睡みはじめた。
町の大通り、石畳の上には暖色に色付いた葉が、あちらこちらに落ちていて、時折風に舞う。
木々を華やかに彩る赤や橙の葉も、そろそろ散り始めるだろう。
冷たい風に首を竦め、コートの襟をかき合わせたシモンは、秋色に染まる街路樹や店先をきょろきょろと眺めながら歩く。
この町にやって来て、初めての秋。
店先に並ぶ今の季節ならではの果物や装飾品に、わくわくとするシモンが頬を緩めた。
「林檎酒……。クローブ……」
渡されたメモに記されたものを順に探しながら、ついでにパンや林檎、南瓜、ナッツなども物色する。
特に、収穫の時期を迎えた林檎はあちこちの店で山積みになっている。目の前で林檎を皮ごと絞ってジュースにしている店も少なくない。
どこからか漂ってくるシナモンとバターの香りに心を鷲掴みにされ、シモンは視線を彷徨わせる。
「あ……!」
まだ湯気の立つ、焼き立てのアップルパイだ。
隣で荒熱のとれたアップルパイを店主がさくっと切り分けると、パイにたっぷりと詰められた林檎とカスタードクリームがとろりと零れて、思わず目が釘付けになった。
あちらの店、こちらの店……と、買い物をするシモンの両手は、あっという間に一杯になった。
買い物袋を抱えて、そろそろ帰ろうかと店から出るシモンの視線が、すれ違う初老の男性の手許の籠に吸い寄せられる。
丁寧に編まれた小さな籠には、ふっくらとして大粒の栗がごろごろと入っていた。
「わぁ、艶々して綺麗な栗ですね!」
美味しそうな栗に、シモンは満面の笑みを浮かべる。
ぴたり、と足を止めた男性は、目を細めてシモンの顔をじぃっと見つめる。
上品なコートを羽織り、よく磨かれた艶のある靴を履く身なりの整った男性だった。
「やぁ、重そうだね。大丈夫かい? ……あぁ、とても。とてもいい香りがするね」
恍惚の表情を浮かべた男性が、とろりとした声音でシモンに声を掛けた。
「香り……?」
何か香りの強い物を買っただろうか……?
怪訝に小首を傾げたシモンは、胸に抱える買い物袋の中に目を落とす。
一番上に置かれているのは、林檎だ。
「……林檎の香りかな? すみません。栗は、近くのお店で買ったんですか?」
目を糸のように細めて微笑む男性は、腰を屈めてシモンの耳許に口を寄せた。
「ここだけの話だけれど、……町の近くに森があるだろう? あそこで拾ってきたんだ。今ならまだたくさんあるよ」
内緒だけれどね。と、ひそひそと囁く。
茶目っ気のある気さくな人だな、と笑みを零して、シモンは「はい」と頷いた。
その森のことなら、シモンも知っている。
教会から町へ続く道の途中に、男性が教えてくれた森へと続く脇道がある。
栗を拾いに森へ入るのなら、早い方がいいだろう。
「ありがとう、行ってみます」
頷いた男性は、大真面目な顔をシモンに近づける。
「あぁ……! 早く行った方が良い。美味しいものは、動物がみんな持って行ってしまうからね」
シモンをまっすぐに見つめて、男性は、気遣う口振りで助言をした。
そうかもしれない。
目を瞬かせたシモンは、男性に会釈をする。
ぱっと身を翻し、その場から小走りで離れた。




