港町の白い影 9
教会のキッチンの窓が、夜の景色を切り取る。
窓に描かれた紺碧の空には、昇ったばかりの月がぽっかりと浮かんでいた。
煌々と輝く月を眺め、溜め息をひとつ洩らしたシモンは、遠くの海へと想いを馳せる。
この美しい月の下のどこかで、アイリスは仲間の人魚たちと白蝶貝の手櫛を片手に、髪を梳っているのだろうか。
――昨夜、アイリスが海に身を投げた後。
連絡もなく、戻らないヒューゴとシモンを探しに来たジョージの使用人に、ふたりは屋敷へと連れ戻されたのだ。
貝のように口を閉ざし、青褪めて自力で立つこともままならなかったヒューゴは、そのまま彼の滞在する部屋へと運ばれた。
何があったのかと、ジョージに尋ねられたシモンは。
残されたヒューゴの心情を考慮して、アイリスのことを他言しないようにとジョージに念を押してから、事情を説明した。
――アイリスが、人魚だった?
ジョージは、およそ信じられないといった声を上げながらも、海に身を投げて行方のわからないアイリスのことを知り、さっと顔色を変えた。
そして、従兄弟であるヒューゴが、海へと連れて行かれずに済んだことを手放しで喜んだ。
人魚の話を俄かに信じられない様子のジョージは、結局、痴情のもつれによる心中未遂だと思ったようだったが……。
その晩は屋敷に泊めてもらい、翌日の昼前には、シェリーとシモンを送り届ける為の馬車が用意された。
シモンがヒューゴに挨拶をしたい旨をジョージに伝えると「疲れているようだから、そっとしておいてほしい」とやんわりと断られた。
ヒューゴはまだ、誰かに会えるような状態ではないのだろう。
固辞したにもかかわらず、ジョージは沢山の食料をお土産として馬車に積んでくれた。
そのうちのひとつ、屋敷のシェフによって調理された大きな鮭とグリルされた野菜を、シモンはオーブンで軽く温めなおす。
オーブンを開けると、鮭と相性の良い香草の爽やかな香りが、ふわりとキッチンに漂う。
じっくりと低温で焼かれたのであろう、しっとりふっくらとした柔らかな鮭の身は、皿に取り分けるとほろりと崩れる。
皿に盛りつけられた野菜と鮭に、別に添えられたバターソースを回しかけてレモンを飾れば、見栄えの良いご馳走になった。
それを、シモンはテーブルへと運ぶ。
テーブルの上に、グリルされた鮭と野菜、フィッシュ・パイや、スライスされパリッと温められたバケットと数種類のチーズやナッツ。ワインや、デザートのプラムプティングを並べていく。
椅子にきちんと座っているシェリーの前には、温められた極上のミルクと、彼女のために用意された味付けのされていない、一切れの焼かれた鮭。
シモンの席の前には、新鮮な林檎ジュース。
全部、ジョージから持たされたお土産だった。
食事の支度を終えたシモンは、セオバルドと共にテーブルに着いた。
「昨日、肉を持ってやって来た婦人とシェリーの伝言を受けて、君が町の外へ連れ出されたと聞いた時には、驚いたけれど……」
くつろいで穏やかな表情のセオバルドは、テーブルの上に並べられた物にさっと目を走らせて、頬を緩める。
「食事をしながら、君が見聞きして感じたことを私に話してくれないか?」
「話……、ですか?」
声音に戸惑いを滲ませながら、シモンは呟く。
シェリーが事前に伝言をしてくれたおかげで、教会に戻った時も事情を説明するよう詰問されるようなことはなかったが、セオバルドに黙って外泊した手前、断るわけにもいかない。
「はい。でも、先生が聞いても面白い内容ではないと思うんですけど……」
つーん、と顎を上げたシェリーが、口を挟んだ。
「他人の色恋沙汰で、ころころと顔色を変えるあなたを見ているのは、面白かったわ」
「もう、面白がらないでよ」
揶揄う口調のシェリーに、表情を曇らせたシモンは溜め息をひとつ吐いた。
「結局、何もできなかったことが、申し訳なくて……」
海岸に座り込み、立ち上がることも出来なかったヒューゴの背中が瞼に浮かぶ。
「あの場であなたができる事なんて、何もなかったわ。あのふたりの問題だもの。結果がたとえ、ヒューゴが海の底に連れて行かれたのだとしても、ね」
あなたに止められないでしょう? と冷ややかな眼差しのシェリー。
「……うん」
力不足なのは間違いないが、思い起こしてもふたりの間に割り込める気がしなかったシモンは、頷く。
シェリーの言う通りなのかもしれない。
「ありがとう、シェリー」
ひとまず自分の中で区切りをつけて礼を述べたシモンに、驚いて見開かれたシェリーの紫の瞳がくるんと真ん丸になる。
「慰めたわけじゃないわ! ただの事実よ」
食事を始めながら、シモンは市場で出会ったジョージのことや馬車の窓から見えた海の景色。初めて訪れた港町のことを、セオバルドに話して聞かせた。
時折、ああだったこうだったとシェリーと口論し、お互いの主観を交えて話は進んだ。
セオバルドは、静かに耳を傾けていて――。
シモンが全てを話し終える頃、シェリーは暖炉の前の自分のクッションで丸くなって瞼を閉じた。
グラスを傾けワインを口に含んだセオバルドは、それを飲み下しながら手許のグラスに残る淡い金色の液体に視線を落とし、じっと見据える。
「……君だったら――」
「はい?」
皿の上の鮭を食べ終えたシモンが、バケットをちぎる。
ちらりとシェリーを盗み見て、眠っていることを確認すると、皿に残ったバターソースをバケットで拭い、たっぷりと絡めてから口へと放り込んだ。
「君だったら、どうする?」
セオバルドの問いに答えるために、シモンは林檎ジュースのグラスを傾け、口の中の物を嚥下する。
「僕、ですか?」
小首を捻り、天井を仰いで視線を彷徨わせる。
海へ還ることを切望するアイリスを躊躇わせていたのは、恋人のヒューゴの存在だった。
故郷の海と、陸の恋人を天秤にかけ半年悩んだ彼女は、独りで海へと還った。
もしもあの時、ヒューゴが海へ行くことを選んでいたら、アイリスは彼を連れて行ったのだろうか。
けれど。
アイリスが故郷である海を恋しく思ったように、ヒューゴも陸へ還りたいと言い出すかもしれない。
海の底で、陸に焦がれて苦しむことになるかもしれない。
シモンは、別れ際に見たアイリスの表情から、彼女の心情を慮る。
吹っ切れた顔をした彼女は、海へ行くと即答しなかったヒューゴを見限ったのだろうか。
それとも、彼を海の底へ連れて行かなくて済む理由を見つけて、ほっとしたのだろうか。
アイリスの想いはわからないけれど、自分だったら……とシモンは考えを巡らせる。
大事な人の苦しむ顔は、見たくないから。
その人のことを深く想っているのなら、尚更。
「どうしても、還りたくなったら。僕だったら……」
自ずと浮かび上がるひとつの答えに、胸が切なく締め付けられた。
ほんの少し感傷に浸り、憂いを湛えた瞳を伏せて、シモンは淡く微笑む。
「寂しくて悲しいけれど……。やっぱり、彼女のように独りで還るのかもしれません」
微かに息を呑む音がして。
目を瞠ったセオバルドが、驚きとも困惑ともつかない顔をして、凍りついたようにシモンを見つめていた。
「先生?」
「……ああ、いや。君がヒューゴだったらどうしたかと思って訊いたんだが――」
あ、と口を動かし、シモンは口許を片手で覆う。
つい同じ女性であるアイリスの目線で答えてしまったことに気づき、ひやりとする。
セオバルドの青い瞳に覗き込まれ、勘違いをした気恥ずかしさと焦りから、シモンは手許の林檎ジュースに目を落とす。
「今夜も月がとても綺麗だったから、さっきまでアイリスさんのことを考えていたんです。きっと今頃、月明りを浴びて海水に身体を浸しているんだろうなって……」
「……」
言葉を切って間を置いてもセオバルドは返事をせず、相槌すらなく。食卓はしん……と無音になる。
間が持てずに、気まずい。
「先生がヒューゴさんだったら、どうしていましたか?」
笑みを浮かべて取り繕うシモンは、話題を自分から逸らし、テーブルの中央に盛られたバケットの一欠片に手を伸ばした。
視界の端でセオバルドが表情を変えた気がして、シモンはちろりと目を上げる。
「……行くよ、どこへだって。そこがどこの異界であろうと。望まれて、一緒に連れて行ってくれるのなら」
返ってきた答えは、決まりきったものであるかのように一片の淀みのない――、シモンの感じた寂しさや悲しさを打ち消す、強い想いの込められたもの。
真摯な青い瞳に熱っぽく見つめられて、恋人に向けるヒューゴの眼差しを思い出したシモンは、どきりとする。
動揺するシモンの、バケットを取ろうと伸ばした指の背が何かを掠めた。滑らかに冷たいそれは、抵抗なくすぅっと指から遠ざかる。
「君は……」
たん……っ。
セオバルドの声を遮ったのは、薄く硬い物が打ち付けられる軽やかな高音。
グラスが倒れ、テーブルに透明な液体がさぁっと広がった。
瑞々しく甘やかな葡萄を思わせる芳香がふわりと舞い、間近で吸い込んだアルコールの香りにわずかな刺激を受けて、顔がほんのりと熱を帯びる。
「すみません! 今拭くものを持ってきますね」
慣れない話に緊張していたシモンは、言うが早いか倒れたグラスに手を伸ばして立てると、素早く椅子を引いて身を翻す。
テーブルを拭く布を桶に溜めた水に浸しながら息を吐いて、どぎまぎする胸を落ち着ける。
セオバルドは成人した男性なのだから、今までに誰かに想いを寄せたこともあるのだろう。
布を固く搾りながら、考える。
セオバルドのように、一緒に行くとヒューゴに即答されたらアイリスも嬉しかったのだろうか、と。
普段から寡黙で感情を表に出すことの少ないセオバルドだったが、会話の中で彼のまっすぐな声音に触れて、意外な一面を垣間見た気がした。
「あ……」
はっとしたシモンの口から、小さな声が零れた。
助けてもらい世話になっていながら、性別を偽っているシモンは授業や家事で必要なこと以外、セオバルドに話しかけていない。
尋ねられたことに、答えるだけだった。
こうして食卓を共にしていても、町での出来事や自分の考えをセオバルドに話すのは、初めてだったかもしれない。
恩知らず、薄情――。
そんな言葉が頭を掠め、じわり、と後ろめたさが薄雲のように胸に広がる。
少しだけなら……。日常で起きた些細な出来事をセオバルドに話すだけなら、差し支えないのでは。
テーブルへと戻ったシモンは、セオバルドと視線を交わす。
布を胸の前でぎゅっと握りしめて、沈黙が重くなる前に、緊張して話せなくなる前にシモンは声を出した。
「先生は、昨日どんなふうに過ごしていたんですか?」
軽く瞠られたセオバルドの青い双眸は、すぐに柔らかに細められた。
「鳥の囀りを――」
「鳥?」
きょとんとしてシモンは鸚鵡返しに尋ねる。くすりと笑みを零したセオバルドは、シモンの手の中からそっと布を抜き取った。
「――小鳥の届けるシェリーの伝言を聞き洩らすことのないように、窓を開けて読み物をしていた」
テーブルの上に広がったワインに目を落として、拭き取るセオバルドは。
何事も無くて良かったよと、吐息にも似た声音でさらりと言った。




