男装の少女 2
夕闇が町をすっぽりと包み込み、路地裏の景色は薄墨色に染まった。立ち並ぶ家や店の窓からは、暖かみのある灯りが零れはじめている。
老婆の家を出たシルヴィは周囲を警戒し、深く被った帽子のつばを指で摘まんで下げ、目許までを隠す。
逃げ出した少女を探す人攫いと、町の中で遭遇するかもしれない。
すぐにでも町を出ることを決めたシルヴィは、わずかに顔を俯けながら大通りへと出た。
大通りへと足を踏み出したシルヴィは大きく目を見開き、思わず足を止めて息を呑む。
叫び出しそうになるのをすんでのところで堪えて、口許を片手で覆う。
「な……に?」
昼間は人通りが多くて賑やかだった大通りは、日暮れと共にその景色が一変した。人通りはまばらで侘しくなり、その代わりに妙なものが行き交っている。
昼間には気づかなかったもの。
街燈が照らす、人の落とした影の中。そこに何かいるのか。影は、およそ人のものとは思えない形に伸び縮みしている。
道路の脇にある、水を流すための細く浅い側溝には黒い影のようなものがべったりとこびり付き、何本もの黒く細い手を生やしている。風に靡く草のように揺れるそれは、道行く人の足を撫でて絡みつこうとしている。
建物の間に重なる濃い影には闇色の何かが妖しく蠢き、屋根の上には小さな黒い手足を生やした異形の生き物が、ひょこひょこと飛び跳ねている。
住んでいた村では見たことのない光景だった。
立ち竦むシルヴィに、一人の大人の男性が近づいてきた。
「君、どうかしたのかい?」
柔和な声で尋ねられ、顔を上げたシルヴィが、びくりと肩を震わせる。
男性の顔には黒い靄が纏わりついてぼんやりと霞み、首から上が夜の闇にとけてしまったかのようだった。
「何でもないです……!」
慌ててその場を離れたシルヴィは、大通りを進み、町を出る幌馬車を見つけた。
後をつけ、止まった隙にそうっと荷台に身体を滑り込ませる。
春とはいえ、肌寒さを感じる夜気の中。シルヴィは自分を追う人攫いや、今見た得体の知れないものから隠れるように荷物と荷物の間に身体を潜ませる。
幌馬車の中で荷物に挟まれて暖を取り、ようやく人心地になったシルヴィは、小さな吐息と共に瞼を閉じた。
「さっきの黒いのが、ばあちゃんの言っていた悪いものかな……?」
静かに独りごちる。
シルヴィに両親と暮らした記憶はなく、それどころか両親の顔も知らない。
森に囲まれた人の少ない小さな貧しい村で、物心ついた頃からずっと年老いた祖母と二人暮らしだった。
祖母は、はきはきと物を言うが、おおらかで優しい人だった。
そんな祖母とシルヴィには、一つ秘密があった。
祖母とシルヴィには、村の人に見えていないものが見えた。
村の周りには豊かな森があった。祖母に戒められ、森に立ち入ることはなかったが、村との境から覗き見る森の中には、色々と不思議なものが見えた。
暖かな春になると、森の中には一面青い絨毯を敷いたようにブルーベルの花が咲いた。咲き乱れる春の花の花弁を集め、美しいドレスに仕立て身体に纏う小さな少女たちが、虹色の翅を閃かせ、青い花の間を可憐に舞った。
夏、緑が深くなり空気がより清涼になると、木々や草陰を小さな小人が走り回る。
秋には森の彩が変わった。木々は日に日に燃えるような赤や黄金色に染まっていった。その葉の散る頃になると、森の奥からは冬を告げる美しい歌声が聞こえ、鹿の群れが見え隠れした。
冬の雪のちらつく日には、凍りつく空気の中を、雪の結晶を纏う小さくて儚い何かが風の中を滑るように舞っていた。
そうしたものは、時折、村の中にも入り込んできた。
家の中を走り回る、小さな人。
村の人が亡くなる前に、その家の前で背を丸めて泣いている、髪の長い何か。
人が亡くなれば、亡くなった人が家の前に立つこともあった。
幼い頃から村の人には見えないものが見えるシルヴィに、祖母は、他人に言わないようにと口止めした。
「いいかい、他の人に言うのではないよ。ばあちゃんと二人の秘密だからね。それにね、そういうものにはそういうものの世界がある。ちょっと人の生活に入り込んだだけだ。この村にはありがたいことに悪いものはいないからね。そういうものとは上手に付き合っていけばいい。ただ、あっちの世界に踏み入っちゃいけない。うっかりすると帰れなくなってしまうからね」
祖母はそう言ってからからと笑い、首を傾げるシルヴィの頭を撫でた。
年老いた祖母は、後々に独りになるシルヴィのことをいつも案じてくれていた。
「生きていくために必要だと思う術はなんでも覚えて、身につけるんだよ」
そう諭され、家事や読み書き、畑仕事に簡単な家の修繕など、生活に必要なことは全て祖母が教えてくれた。
シルヴィが困らないようにと、成長することで変化する女性の身体のことを、詰め込むようにして教えてくれた。
その祖母が、先日亡くなった。
家の周りを見回しても、亡くなった祖母が立つことはなかった。
祖母は旅立っていったのだと、シルヴィは漠然とそう感じた。
祖母が亡くなると、他に身寄りもなく独りになったシルヴィに、村の人たちは大きな町へ出て働くことを勧めた。
村を出て大きな町へやってきたシルヴィは、住み込みで働ける仕事を探しているところだった。
幌馬車は馬に引かれ、早朝に町を出た。
次の町へと着くと、幌馬車の荷の間からするりと抜け出したシルヴィは、少年の姿のまま仕事を探して歩いた。
男の子の仕事でもなんでもいい。どんな仕事でも覚えるし、やってのける自信があった。
だが、村を出てから見えるようになった黒い影や靄は、仕事とは別の話。
大きな屋敷を訪ねて、住み込みの仕事がないか尋ねるも、屋敷の中に気味の悪い黒いものが見えると、怖くなって踵を返した。
結局、また町を出て歩いて。
別の村に行くのだという馬車を見つけては、荷台に乗せてもらえるように頼んで。降ろされてはまた、歩いて。
親切そうな人を見つけては食べ物を恵んでもらい、仕事を探しながら何日も移動し続けた。
小さな村や町では、仕事が思ったように見つからない。
人が多くいて、仕事が沢山ある大きな町には、あちこちに黒いものが見える。
黒いものは、昼間は人の影や物陰に潜み、隠れている。
夕暮れ時から、急に増え始める黒いものから、夜はシルヴィが身を隠す。
十日も経つと着ていた服も汚れて、髪はぼさぼさになった。
逃げて来たために、顔を隠しながらおどおどと話すシルヴィに、人々は物乞いかと冷たくなり、見向きもしなくなった。
疲れ果てて顔も上げられず、足を引き摺りながらも歩き続けたシルヴィは、ぼやける視界の中、どこかの扉に手を伸ばしたところまでしか覚えていない。
ふわり……、と。
何かを燻したような、甘く爽やかな香りに包まれた。
考えることもままならない頭が、濃厚な香りに浸されて、ぼぅっと霞む。
香りに誘われて、扉を見つけたのか。
扉に手を掛けた時に、そこから香りが漏れ出したのか。
記憶は定かではない。