港町の白い影 7
人魚であるとアイリスに告白されたヒューゴは、笑おうとした。
「君が人魚だなんて、そんなお伽噺みたいな、馬鹿なこと……」
笑おうとして、アイリスの真摯な瞳を前に笑うことができずに、曖昧に顔を歪めた。
「シモンさん……」
助けを求めるような弱々しい声音でヒューゴに呼ばれ、彼の縋るような眼差しを受けたシモンは、やるせない思いで目を伏せる。
普段から、色々なものが見えるシモンにとって、人魚は決して架空の存在などではない。
ましてや、この町に入る前に、アイリスによく似た人魚を見ているのだから。
真実を知り独り悩み続けてきたアイリスの苦しい心情を吐露されて、お伽噺だと一蹴することなど、できるはずもない。
恋人であるアイリスの言葉ですら受け入れることのできないヒューゴに、シモンが彼女のことを『人魚』だといっても、彼の心はより頑なに否定してしまうだろう。
だから。
「アイリスさんの言葉に、嘘はないと思いますよ」
シモンは、やんわりとアイリスを肯定する。
「そんな……」
愕然とするヒューゴは、アイリスの言葉を否定できる何かを探すように、落ち着きなく家の中を見回した。
「だって、あの白い影は。……そうだ、死霊に唆されたんだ。アイリスを海に引きずり込むために、死霊が……!」
「違うんです、ヒューゴさん。あの白い影は、死霊ではなくて――」
シモンは努めて淡々と、落ち着いた声でヒューゴを制する。
アイリスが人魚の取り換え子である可能性については、事前に港でシェリーから告げられていた。
――いいこと? シモン。
「あくまで可能性の一つよ。アイリスの亡くなった母親が普通の人間だったのなら、人魚による取り換え子かもしれないわ。取り換え子は、妖精が何らかの理由で木偶や死に際の年を取った妖精、もしくは自分の子を、人間の赤子とすり替えてしまうことを指すのだけど」
「人魚も妖精と同じように?」
「あなたも見たでしょう? 人魚の女性はとても美しいの。それにここは港町でしょう? 海に出た町の男性が人魚を見初める。逆だってあり得るわ。この町に伝わる話もそう。人魚の女性と人間の男性が恋に落ちるのは、昔からよくある話なのよ。つまり、人間の容姿が好みの人魚が一定数いるってこと」
「それは、人間の子供が欲しかったってこと……?」
「……憶測よ? ただ、人間の子供が欲しかったのか。アイリスと取り換えられた赤子が好みの男の子だったのか、……アイリスが幼い頃に亡くなったらしい父親と恋仲で、その子供が欲しくなったのか」
「え?」
だから、町へ来る途中に岩場の陰から町を窺い見ていた、アイリスと瓜二つの人魚は――。
「アイリスさん。ヒューゴさんの見た白い影は、アイリスさんの本当の母親、もしくは貴女に近い血族の人魚だったのではないですか?」
白い影の正体を知っているのは、アイリスだけ。
シモンは、答えをアイリスに委ねる。
沈鬱な顔をしたアイリスは、棚に飾られている、貝殻と曇り硝子の入った瓶に歩み寄る。
瓶をずらして、後ろに隠すように置かれていた薄い物を手に取った。
「それは?」
「母が亡くなった後、彼女の部屋から出てきた物です」
アイリスの手の中にあったのは、虹色の光沢を帯びる、掌に収まる大きさの白蝶貝の手櫛。
「母が亡くなってしばらくしてから、私とよく似た女の人が夜中に現れたんです。……もうずっと前のこと。海岸の岩場で籠に入れられていた人間の赤子がいて、その子の母親が目を離した隙に、まだ赤子だった私と取り換えたのだと」
アイリスは手櫛を両手で包み込み、そっと胸に抱いた。
「その女性が、私の本当の母親だそうです。彼女はこの手櫛と全く同じものを持っていました。そして『もう、海に戻っていらっしゃい。海へ飛び込めば足は尾に変わるから』って……」
人魚の母親は、アイリスを海へ誘うために、足繁く彼女の許へと通ったのだ。
さっと顔色を変えたヒューゴは、悲鳴のような声を上げた。
「今更そんな勝手な……! これまでだって普通に暮らしてこられたんだ。このまま、ずっとここで一緒に暮らしていけばいいだろう!?」
ふたりの間に立つシモンは、声を掛けることもままならず、固唾を呑んで見守る。
ヒューゴの言う通り、人魚の母親は勝手なのかもしれない。
けれどそれは、人間の理屈。
人魚に、人の常識を当てはめることはできない。
何よりも、アイリス自身が強く海に惹かれてしまっているのだ。
……これまでと同じように。海に還りたいという気持ちを押し殺して町で暮らせというのは、アイリスに対して酷に思えた。
「ヒューゴ」
アイリスが、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
感情が溢れ出すのを堪えるように、きゅっと口を引き結んだアイリスは、白蝶貝の手櫛を持っていない、空いている手をヒューゴに差し出した。
アイリスの繊手をヒューゴが掴むと、彼女はするりと指を絡ませて手を繋ぎ、彼に身体を寄せる。
身を寄せられることで安堵したのか。繋いでいない方の腕をアイリスの背に回して、ヒューゴは険しくさせていた表情を緩めた。
「貴方にひとつだけ訊きたいことがあるの。一緒に外へ出てもらえないかしら?」
ヒューゴの顔を見上げたアイリスは、ゆっくりと彼から身体を離して、繋いだ手を引く。
振り返るアイリスと、シモンの視線が合った。
物哀しい黒い瞳から迷いは消えて、代わりに、風の凪いだ夜の海のような限りのない静けさを湛えている。
……黒い瞳は、シモンについてくるよう誘いかける。
窓辺から離れたシモンの肩に、シェリーがとんっと飛び乗った。




