港町の白い影 6
ヒューゴに連れられて訪れた港には、沢山の漁船が繋ぎ止められていた。
「あの魚市場です」
漁港の目と鼻の先にある漁市場、アイリスはそこで幼い頃から働いているのだとヒューゴは言った。
大勢の人たちが作業している中で、遠目にも拘らず、目を惹く一人の女性がいた。
長く艶のある、ごく淡い赤を帯びた金の髪を、作業の邪魔にならないよう紐でまとめ、括っている若い女性。彼女を見つめるヒューゴの眼差しから、その女性が彼の恋人だと容易に想像がついた。
「アイリス」
包み込むような優しい声音でヒューゴが呼ぶと、彼女は顔を上げた。
陽光を湛えることで強調される深い黒の瞳は、さながら艶めく黒曜石のよう。思わず触れたくなる小さな薄紅の唇は儚い桜貝を思わせる。
長い袖の捲られた衣服から覗くたおやかな細腕と白い肌は、日焼けとは無縁とばかりに輝いて見える。まだ愛らしい少女の面影を残す、清楚な女性。
(あ……、れ?)
初対面であるはずなのに。
シモンはアイリスの特徴的な髪色と整った容姿に見覚えがあり、小首を傾げる。
それも、つい先程。
「……あ!」
小さな声が零れ、慌てて片手で口許を押さえた。
シェリーを肩にのせるシモンを不思議そうに眺めるアイリスのそばへ、事情を説明するためにヒューゴが駆け寄る。
その隙に、シモンはシェリーに小声で話し掛けた。
「ねぇ、シェリー! 彼女……」
一瞬だったけれど、でもまさか。
自分の見間違いなのか、それとも正しいのか。シモンは肩の上のシェリーの反応を窺い見る。
注意深くアイリスを見据えていたシェリーが、シモンと目を合わせた。
「そっくりね。この町へ来る途中の岩場にいた人魚に。それがわかれば、ある程度絞れるわ。いいこと? シモン――」
アイリスの家は漁師の家が連なる一画の、海に一番近い場所にあった。
町なかや市場の賑やかだった雰囲気は一変して、人通りも少なく聞こえるのは打ち寄せる波の音だけ。
母一人子一人で住んでいたというアイリスの家は決して大きくはないが、余計な物はなく、すっきりと広く見えた。
これといって目立つ装飾品はなかったが、窓辺や、ちょっとしたスペースには大きな貝殻がさりげなく置かれ、棚には大きめの硝子瓶が飾られている。
硝子瓶の中には綺麗な小さな貝殻が、海岸に流れ着いたのであろう平らな曇り硝子と一緒に閉じ込められていた。
海に近い家ならではの装飾品に、シモンが見入る。
「わぁ……、綺麗ですね」
白や桃色がかった貝殻と、角が取れて丸くなった半透明の色硝子は、瓶に詰め込まれた涼やかな砂糖菓子のように可愛らしい。
瓶に顔を寄せて貝殻を眺めるシモンに、アイリスは、はにかむように微笑んだ。
「家のすぐ前に海岸があるでしょう? 小さな頃からよく母と一緒に散歩をしながら、綺麗な貝や硝子を拾い集めていたんです。持ち帰った物は、そんなふうに瓶の中に入れて飾って。ほとんど人に配ってしまったのですが、そこにある物は、亡くなった母と集めた最後のものだから、残してあるんです」
「お母様と、仲が良くていらしたのですね」
「ええ、とても。……とても優しい母でした」
寂しげだが、柔らかに優しい顔をしたアイリスは、亡くなった母親を偲ぶかのように遠い目をして、窓の外を見遣る。
――開け放された窓からは、波の打ち寄せる海岸が見える。
岩場の合間に見えるわずかな砂浜と、水平線に隔てられた空と海が望める窓は、まるで壁に描かれた一枚の絵のようだった。
陽が傾き始め、空が淡い赤と金色に染まり、海の水面がきらきらと光を受けて散らす。
波間に覗く海は濃い青から、深い黒に彩りを変える。
部屋の中は、徐々に薄暗くなる。
窓に近寄るシモンの頬を、しっとりと冷たい海の潮風が、やわらかに撫でていく。
心地よさそうに風を受けていたシェリーが、シモンの肩から窓枠に飛び移った。
窓際に立つシモンは、部屋の奥にいるアイリスとヒューゴを振り返る。
暗がりにいても。
アイリスの透けるように白い肌は、ほのかな光を湛えるかのように輝いて、夜の色に染まることなく目を引いた。
心配とも不安ともいえる表情を浮かべたシモンは、アイリスに気遣う眼差しを向けた。
言葉を掛けるのを、ほんの少し躊躇う。
「アイリスさん、ヒューゴさんから聞いたかと思いますが、僕がここにいるのは……、その」
言い出し辛く、シモンは言葉を区切ってアイリスの反応を窺う。
憂愁に陰る瞳に、やんわりと睫毛を被せたアイリスは、俯きがちに薄く口を開いた。
「ええ。……貴方を連れて来たのは他でもないヒューゴですから。私が、彼にそうさせてしまったのでしょう」
シモンを受け入れる姿勢を示し、小さな溜め息をつくことで間を置いたアイリスは、恐る恐る尋ねる。
「そういったことに、お詳しいのだと聞きました。……貴方は、『わかって』いらっしゃるんですか?」
シモンが何を『わかって』いるのか。
明確にするのを怖がっているようで、それでも知りたい気持ちからか。アイリスの問いは要領を得ないものになった。
窓辺のシェリーと一度目を合わせたシモンは、小さく頷く。
「おおよそは」
「どうして……?」
困惑するアイリスに、シモンはできるだけ穏やかに話して聞かせる。
「貴女に関係するかもしれない『誰か』に会った。……いえ、見かけたんです。その方がヒューゴさんのいう白い人影じゃないかと思って」
「……そう、ですか」
アイリスの口から零れたのは、落胆とも諦めともとれる、静かに沈んだ声。
シモンから逃げるように視線を逸らしたアイリスは、思い悩む顔を伏せて、ぎゅっと手を拳に握った。
ヒューゴが、固く握られていたアイリスの両手を掬って包み込む。
「やっぱり……! ここへ出入りしているあの白い人影が――、死霊のようなものが君を悩ませているんだろう? それさえ出なくなれば、君はまた、前のように元気に……」
暗い面差しで黙り込んだアイリスに、明るく声を張ったヒューゴはそうであると決めつける口調で畳みかける。
悲しげな瞳でヒューゴを見つめるアイリスは、首を横に振ることで彼の言葉を否定し、遮る。
アイリスのその仕草にヒューゴは顔をしかめ、わずかな苛立ちと悲嘆の表情をのぞかせた。
「どうして……?」
海風にのせて囁かれる、シモンの澄んだ透る声。
静まり返った部屋で、寄せては返す波の如く、シモンは問いを重ねた。
「どうして貴女は、そんなにも辛そうにしているのですか?」
ヒューゴに両手を預けたまま、アイリスがほんの少しシモンの方へと身体を向ける。
思い詰める黒い瞳が揺れて。心許ない顔をするアイリスは、迷子の子供のような顔をしていた。
だから。
シモンは、ほのかに微笑んでみせる。
「大丈夫。ただ僕は、貴女の話を聞くだけですから」
「私、は」
「……はい」
躊躇いの滲むアイリスの声に相槌を打つと、彼女は迷い込んだ迷路の中から出口を探し求めるように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私は幼い頃から、ずっと海ばかりを見ていたの。……なぜか海が懐かしく、恋しいとさえ思えたから」
「ええ」
理解を示し、シモンは優しい相槌を打つ。
「亡くなった母は、私を連れて毎日のように海岸に散歩に出掛けたの。だけど、決して海へ入らないようにと私の手をきつく握って離さなかった。そして、海ばかり見ている私を母は悲しそうな目で見るの。だから、母を悲しませたくなくて、いつしか私は足許だけを見て、砂浜の貝殻を集めるようになっていたの……」
「アイリス?」
眉をひそめて訝るヒューゴの手の中から、アイリスは自身の両手をするりと抜く。
「母の海を見つめる瞳は、いつだって怖いくらいに真剣だったから。どうして海へ入っていけないのかも訊けずに、ずっと海に憧れる気持ちをひた隠しにしてきた。でも――」
衣服から伸びた自身の両腕を見遣り、自由になった両手で白い肌を覆い隠す。
「知ってしまったから……。海に焦がれてやまない理由を。どうして肌が渇きを覚え、ひりつくように痛むのか知ったから」
抱え込んでいた想いを吐き出す、悲痛なアイリスの言葉を受け止めて、シモンは頷く。
「……はい」
「知って、ここにいるのが……」
迷いも躊躇いも押し殺すかのように、アイリスは瞼を閉じて唇をきゅっと噛み締める。
小さく息を呑み込んで、止める。
咽から、湿り気を帯びた声を絞りだした。
「つらいから」
身を切るにも似た声音でアイリスに告げられ、痛みを覚える胸に片手を添えたシモンは一度、視線を落として嘆息する。
アイリスの感じる辛さは、彼女が彼女である所以なのだろう。
つらいと言葉にして黙りこくる。自身の言葉に捉われて、想いの中に留まるアイリスの一歩を誘うために、シモンは尋ねかける。
「つらいのを押して悩み続けるのは、……どうして?」
「――それは、全てを知った私が海への憧れが抑えきれずに、還りたいと願ってしまうから。でも、そうしたらヒューゴとは一緒にいられないから」
「一緒にいられないって、どうして……。海へ還るって、アイリス、どういう……こと?」
アイリスの言葉を理解できずに、茫然とするヒューゴは彼女に説明を求める。
力ないヒューゴの声は、薄暗い部屋の中にほどけて消えて、しばし誰も声を発しない静かな時間が流れた。
それは、長いようで短い、重くて息苦しい時間。
けれど、心の準備をするための必要不可欠な時間。
アイリスの細い声が空気を震わせて、静寂を破った。
「私が赤子の頃、亡くなった母の子供と取り換え子された人魚だから」




