港町の白い影 4
「暑っ苦しい。毛がべたべたになりそう」
軽やかに床に着地したシェリーは、辟易として呟いた。
女中の去った扉から黒い影が戻ってこないだろうかと、目を離せずにいるシモンから数歩離れ、シェリーは大きく身体を伸ばす。
「……本当に、どこにでもいるんだね」
こんな綺麗な屋敷の中にも。
「当り前じゃない。むしろ人の多いこういうお屋敷の方が沢山いるのよ。人が集まれば軋轢が生まれやすい。どうしたって不満や陰口は付き纏うものよ」
黒い影がいて当然だと、気にせず前足を舐め、毛づくろいを始める。
くつろいだ素振りをみせるシェリーに緊張が解け、どっと疲れを感じたシモンは床にへたり込んだ。
ぐったりと肩を落とし、目を閉じる。
「一緒に来てくれてありがとう。どうしてシェリーは市場にいたの?」
「この間、市場に出かけた時に帰りが遅かったでしょう。あなたがどこで誰と遊んでいるのか、興味があったのよ」
「……遊んでないよ」
噂好きのお婆さんと、ジョージと話していただけ。
当てが外れたとばかりに渋い顔をするシェリーに、シモンは疲労の滲んだ顔で微苦笑する。
じろり、とシェリーはシモンを睨みつけた。
「あなたが、お婆さんに捕まったところから見ていたけど、本当にとろくさいのなんのって。何やっているのよ! ぐずぐずしてないで、もっとはっきり主張しなさいよ! 連れて行かれるのを見ちゃった以上放っておいて、セオに何か言われても嫌だし、つい馬車に飛び乗っちゃったわ!」
ぷりぷりと怒る元気なシェリーの言葉が耳に刺さる。
「主張しようとしたけど、無理だった」
何度も口を開いたけれど、勢いに気圧されてしまった。
噂好きのお婆さんやジョージを押しのけるだけの気概と、人生経験が足りないのだろう。
それよりも、と。シモンは溜め息をつく。
「先生に何も言わないで町を出ちゃったけど、帰ったら叱られないかな……」
噂好きのお婆さんからセオバルドに伝わる話が、どんなものになるのかわからない。憂鬱に項垂れるシモンを尻目に、ふん、とシェリーは鼻を鳴らした。
「だから! そのために付いてきたのよ。セオへの伝言は私がなんとかしてあげるわ」
「なんとかって……」
シェリーの言わんとしていることが理解できずに、シモンは怪訝に小首を傾げる。
「セオは鳥の言葉を聞き分けられるから、鳥に伝言を託すの」
平然と言ってのけるシェリーに、シモンは目を丸くする。
お茶の用意されているティーテーブルの前の椅子に腰かけたシェリーは、けろっとした顔をして催促をする。
「喉が渇いたわ。ほら、早くミルクを注いで頂戴」
「ありがとう、シェリー。本当に助かる」
セオバルドへの伝言をシェリーが受けてくれることで、一つ胸のつかえが取れたシモンは、立ち上がってミルクピッチャーを持ち上げる。
シェリーの為に用意されたのであろう小さな浅皿にミルクを注ぎ、彼女の前に出した。
シモンは、別のカップに一口分のミルクを注ぎ、ティーポットで充分に蒸らされた紅茶をカップに注いで、温かなミルクティーを作る。椅子に腰かけ、ミルクと茶葉のまろやかに混ざり合う香りに癒され、カップに口を付けると、ようやく一息ついた。
次いで、ケーキスタンドの一番下段にある、一口サイズの大きさに切り分けられた数種類のサンドイッチに手を伸ばす。
手で摘まんだサンドイッチの具を目線まで持ち上げ、シモンはそれに話しかけるように呟く。
「大人の恋愛話を聞かされても、僕には荷が重いよ……」
町へ買い物に行くと、たまに周囲の大人たちが花を咲かせている、あれ。
もしかすると恋人たちの痴話喧嘩かもしれない。
そうしたらもう、何も言えない。
ミルクを飲んでいたシェリーが顔を上げ、ゆっくりと瞬きを一つする。
「お子様シモンには、そうね」
思案顔のシモンは、視線をサンドイッチの具からシェリーの方へ滑らせる。
「本当に死霊だったら、どうしよう」
憂鬱に表情を陰らせたシモンは、やるせなく不安を零す。
「新しい恋人でなかったとしても、従兄弟に見えたのが死霊かどうかは、半々といったところね。本当に死霊が見えたのか、別のものを見間違えたのか。……あなたやセオのように魔力を備えていて何でもかんでも見えちゃうっていうのは、稀なのよ。大概は見えないのだから。さっきのジョージっていう人のお母さんの霊は、霊自身が身内にわかるように波長を合わせたのよ」
「波長? 魔力の波動みたいなもの?」
半眼になりシモンを軽く睨んだシェリーは、面倒くさそうに一呼吸置く。
「魔力の波動は明確な力。
この場合の波長は、あらゆる存在から発信されるもの、受け取って初めてその存在を認識できるもの……と、仮に例えるわ。
あなたは魔力という媒介を通して魔物や悪魔、妖精、死霊といった異界の者の波長を受け取ることが出来るから可視化して存在として認識することが出来る。認識されれば視力、聴力、皮膚による触覚や温度覚……、まぁ芋蔓式に知覚されるってわけ。でも普通の人は波長が合わない……。それを受け取ることが出来ないから存在の認識ができずに見えないの。
ジョージのお母さんの場合。つまり、死霊の方が自分を認識させようとして、相手の出す波長に自分のそれを同調させ認識させやすくしたの。ジョージをはじめとするそこにいた人間の脳が、死霊の波長を受信して気配を感じ、視力を通して存在を認識したのね。
私は妖精猫だけど、誰にでも見えるでしょ?
それは、元々この世界に存在して広く人間に認知されている猫を基盤としていて、尚且つ親猫から生まれて実体を持っているから。
魔物もね、その類。
この世界で生きている人間の悪意や負の感情を喰って実体化したら人間と波長が合いやすいの。
けれど、普段見えない精霊、それに近しいような自然物から生まれて妖精界を行き来する妖精、実体を持たない身体を離れた死霊なんかはそもそも住む世界が違って存在が遠いから、波長が合うか、向こうが合わせようとしなければ普通の人間には見えないわ。
向こうが波長を合わせたって、見えるか見えないかは受け取る側の人間の感性の問題もあるから、全く見えなかったりぼんやり見えたりと様々よ。
ただ、はっきり見える人間がそこに『いる』と示せば変換機のような役割をはたして『何か』の存在を感じる補助を担うこともあるわ。
だから、ジョージの親族の中に感受性の高い人間が居れば、その場にいる全員が何かしらの存在を感じることは出来るわね。
ジョージの話からして、その従兄弟に用もない恋人の母親の死霊が見えたとしたら、従兄弟の波長を受け止める感性がやたら高いか、死霊でなくて実体を持つ私たち妖精猫のような『何か』ってことじゃないかしら」
「それは……、生きている人間に近い『何か』かもしれないってこと?」
「さっき、ここへ来る時に岩場に見えたでしょ? あれも、そう」
「人魚?」
岩場の陰に、馬車の進路の先の方を見ていた女性がいた。
シモンとしっかり目が合ったことに驚いたのか、するりと海に飛び込んだ女性。その下半身は、銀色の鱗に覆われた魚のものだった。
シェリーは、頷いて応えた。
「シェリーは色々なことを知っているんだね」
「居るのよ。波長を上手く揺り動かして、姿を消したり現したりすることが得意な、……いつもにやにやしている妖精猫が」
へぇ、と感嘆の声を漏らすシモンから、ふいと顔を背けたシェリーが、話は以上とばかりにミルクを飲み始めた。
素っ気ない。けれど、いつもと変わらない平然としたシェリーは、むしろ頼もしい。
シモンは、手に持っていたサンドイッチをひと齧りする。
「美味しっ!」
咀嚼しながら、シモンはサンドイッチを口から離してしげしげと眺める。おもむろにパンを剥がして、中の具材を目で確認した。
「はー……、すごい」
さすが、サンドイッチの具までひと工夫凝らしてある。
感心するシモンに、シェリーが目を吊り上げた。
「はしたない真似はやめなさい!」
すっかり気持ちが落ち着いて、ほどよく腹も膨れ、紅茶もそろそろなくなるという頃。
見計らったかのように女中が現れた。
「家主より、お客様を応接室までお連れするよう申し付けられております。おくつろぎのところ恐縮ですが、ご足労願えますでしょうか」




