港町の白い影 3
町と町を結ぶ、のどかな街道を走る馬車の中。
シェリーを膝に乗せて不安げに眉を寄せたシモンは、向かい合わせに座るジョージに話しかける。
「すみません、僕に会いたいという方はどなたでしょうか? その方の要件などはわかりますか? 僕でお役に立てることなんて、掃除や畑仕事の労働くらいしかないのですが……」
「ご冗談を。いや、実は会って欲しいというのは私の従兄弟なのですよ。この間、母の霊が彷徨っていた時に彼もその場に居合わせていたのです。貴方の話をしたら是非にと」
「はぁ……」
「従兄弟には結婚を前提とした恋人がいるのですがね。その恋人の母親が半年ほど前に亡くなってから、彼女の様子がおかしいそうなのです。急に結婚を渋るようになり、酷く落ち込んで、理由も言わずにただ泣くのだとか。従兄弟もほとほと困り果ててしまって……」
「……お母様が亡くなられたのなら、気落ちされても無理はないのでは……?」
「それがですね」
眉をひそめて、急に難しい顔をしたジョージは溜め息をついた。身を乗り出してシモンの方へと顔を寄せると、恐ろしい秘密を打ち明けるように声を潜める。
「恋人の許へ、亡くなった彼女の母親の死霊が通っているのかもしれないなどと言うのですよ。私は彼女に別の恋人ができて、結婚を渋っているのではないかと思ったのですが……。従兄弟は私と違って、屋敷を彷徨う私の母の霊がはっきりと見えたそうなので……」
困っているのです、とジョージが言った。
「えっ……」
絶句し、シモンは凍りついた。
どっちへ転んでも無理だ。
生者の許へと通い詰める念の強い死霊なんて、手に負えない。
彼女に別の恋人ができたなんていう大人の話を、十四年しか生きていない、まだ恋を知らない自分に仲裁できるはずもない。
「従兄弟も、話を聞いてくれる牧師さまを探していたそうなのです」
「あの、僕は牧師さまでは……」
「ええ。ですが、そういったことにお詳しいのでしょう? 従兄弟をどうか、よろしくお願いします」
話してほっとしたのか、和やかににっこりと笑うジョージ。
――とんでもないことになった。
頭から冷水を浴びせられたように、シモンの顔からさぁっと血の気が引く。
(そんなに詳しくないしっ! むっ、無理ぃぃぃぃっ!!)
胸の内で絶叫する。
だが、シモンを見つめるジョージの目は真剣で、従兄弟を慮るものだったから、シモンはそれ以上何も言えずに黙って俯く。
(どうしよう)
「……帰りたい」
ガタンッと小石を踏んだのか馬車が跳ね、シモンの本心からの小さな呟き声はジョージに届かず、物音に掻き消された。
馬車は、小さな村を横目に通り過ぎる。
村が後方に見えなくなり、しばらくすると、風に乗ってほのかに磯の香りが届く。
馬車の窓の外には、深みのある青の水が遠くまで広がって見える。――海だ。
所々白波が立ち、高く昇った陽光を受けて水面がきらきらと輝く。道と海の間にはごつごつとした岩場とわずかな砂浜。
岩の上にはぽつぽつと海鳥が止まり、日向ぼっこをしている。
住んでいる町では見ない海辺の景色に、シモンは座る場所をずらして、窓に張り付いて外を眺める。膝で丸くなり休んでいたシェリーもシモンの視線を追い、座席から伸びあがって窓の外を眺めた。
岩場の陰。視線の先にいた『何か』とシモンの目が、ばっちりと合った。
はっとして驚いた『何か』が、さっと身を捩らせて海に滑り込み、わずかな飛沫を宙に跳ね上げた。
「……今」
「……」
目を瞬かせ、シモンは同じ窓から外を見ていたシェリーに、尋ねる眼差しを向ける。
銀色の妖精猫はシモンの呟く声には答えず、わかっていると言いたげに見つめ返した。
「どうかされましたか? アザラシでもいましたか?」
「いえ……」
にこやかに窓の外を一瞥したジョージは愉しそうに目を細め、余所者のシモンに、土地ならではの話を始めた。
「昔からこの辺りには、人魚がいるなんてまことしやかに言われているのですよ。海に落ちて人魚に魅入られた男は、海の底に連れて行かれるとか。そんな迷信までありましてね。……大方、漁に出てアザラシや大きな魚の類を人魚と勘違いした男の話を、誰かが面白おかしく尾ひれを付けて広めたものだと思いますが」
海沿いの道を進む馬車は、やがて港町の中へと入った。
町の中は潮の香りに満ちていて、住んでいる町とはまた違った活気に溢れている。
馬車は町の奥へと進み、小高い丘へと登っていき豪奢な門をくぐった。
広い道の左右両脇には、思わず息を呑むほどに広大な庭。
美しく整えられた生垣を眺めながら、庭の中央に伸びた道をまっすぐに走った。
ようやく馬車が停まり、シェリーを胸に抱えて降りたシモンは、目の前にある屋敷の大きさに驚いて、口をぽかんと開ける。
(城、ですか……?)
「お帰りなさいませ、旦那様」
初老の紳士がジョージの前に立ち、姿勢よくお辞儀をして、ジョージから鞄を受け取る。その後ろには、ピシッと姿勢を正した数人の女中が控えている。
気後れして足が竦みそうになったシモンは、おずおずと隣に立つジョージに尋ねた。
「あの、ジョージさん、こちらは……」
「私の屋敷です。滞在している従兄弟に知らせながら、少し話をしてまいります。客間を用意させるので、シモンさんはそちらでおくつろぎください」
「はい」
いろいろと状況についていけないシモンは、時間をもらえると聞いてほっとする。
「お茶をご一緒できなくて申し訳ない。では、のちほど」
にっこりと微笑んだジョージの後ろで、初老の紳士が使用人たちに一言、指示を与える。
ジョージのそばに初老の紳士が立つと、シモンの隣に品の良い女中が一歩進み出て頭を垂れた。
「シモン様は、どうぞこちらへ」
女中に案内されようとするシモンの背後で、使用人たちが静かに持ち場へと散っていった。
通された客間は、大広間を通り抜けた奥の部屋だった。
見栄えのいい小さな暖炉には、来客がある事を知っていたかのように火が入れられて暖かい。
暖炉のすぐ側には座り心地の良さそうな、ゆったりとした大きなソファ。ひと目で高価な物だと知れる造りのソファテーブルが並ぶ。
部屋の白い壁には、夕日の赤に染まる海や船を描いた多彩な絵画が壁に掛かり、凝った造りの猫足のサイドボードの中にはお洒落な調度品が飾られている。
広い部屋は大きな窓がいくつもあり、光を取り入れるように薄く繊細なレースのカーテンが下げられている。
窓の隣にある大きなテラスの前に立つと、豪奢でありながら優しい雰囲気を纏う薔薇や、秋咲きの清楚な花の咲き乱れる美しい庭が広がっている。
部屋の奥にはもう一室備えられ、数台のベッドやドレッサーの備えられた寝室に、水回りの設備までそろっている。
大人数人が悠々と過ごせるゲストルーム。
(……家?)
ぽつんと広い部屋に立ち尽くすシモンの後ろで、女中はカチャカチャと微かな音を立ててお茶の準備を始めた。
品の良いワゴンにアフタヌーンティーの準備がされ、サンドイッチやスコーン、それに添えるクロテッドクリームにジャム。クッキーやタルト、ケーキなどが見目美しく並べられている。
それに貝のように薄い造りの、向こう側が透けて見えそうな華奢なカップとソーサーに、華やかな絵の施されたティーポット。
ティーポットにお湯が注がれると、テーブルの周囲には茶葉の上品で豊かな香りが、ふわりと漂う。
場違いな、身の置き場に困る雰囲気。
「怖っ……」
思わずシモンは胸に抱いていたシェリーの首筋に顔を埋め呟く。シモンの腕の中でシェリーが身じろぎし、囁く声に棘を含ませる。
「女中を下がらせて、私を降ろしなさいよ」
シェリーの首筋に顔を埋めたままシモンは小さく頷く。顔を上げて女中を振り返り、礼を述べた。
「あの、ありがとうございました。あとは自分でやりますから……」
「左様でございますか。何か不都合がありましたら、お申し付けください」
女中は腹部の前で両手を重ね合わせ、きっちりとお辞儀をする。扉に向けてワゴンを押し始めると、その底から黒い影がちょろりと這い出し、彼女に纏わりついて一緒に部屋から出て行った。
ぱたんと扉が閉まり、女中の足音が遠ざかっていくと、シェリーはシモンの腕の中からするりと抜け出した。




