港町の白い影 1
朝から穏やかな天気だった。
雲一つない空に陽が高く昇る頃になると、肌寒さを感じる朝晩の冷え込みも自然と和らぐ。
からっとした空気が心地良い、まさに買い物日和。
町には市が立ち、新鮮な肉や野菜が山のように積まれ所狭しと並ぶ。大きな籠や紙の袋を持った沢山の人たちが行き交い、皆店先に並べられたものを品定めしながら歩いている。
そんな人混みの中に紛れ、シモンは町の市場で買った肉を袋に入れてぶら下げて歩く。持ち金の残りを頭に入れながら、真剣な眼差しで安くて質の良い野菜を物色する。
「シモン、いたいた。ちょっと!」
大きな声で、背後から声を掛けられたシモンは、首を巡らせる。
よくパン屋で会う、噂好きのお婆さんだ。
「こんにちは!」
シモンは反射的に、満面に笑みを作る。
噂好きのお婆さんは、大きく見開いた目でひたとシモンを捉え、手招きをしながら小走りで寄って来る。
「この間、あんたがよその町の人に話していた話!」
彼女の話の内容がよく理解できずに、シモンは小首を傾げて歩み寄る。
「何でしょう?」
「ほら、死んだ人の魂が家から出られないって話だよ」
「ああ……!」
すぐに何のことかが思い出され、笑顔で声を上げる。
先週、同じように市場に来て買い物をしていた時に、通りがかった玉子屋の店先で一人の紳士が噂好きのお婆さんと話をしていたのだ。
(……ああ)
ずるずると芋蔓式に蘇る記憶を、シモンは目を落として瞼の裏に再現する。
「――本当に驚いてしまって……」
中年に差し掛かろうという見目の紳士が、玉子屋の店先で噂好きのお婆さんにそう話しているのが聞こえた。
顔見知りの噂好きのお婆さんに気づいたシモンは、会話の邪魔にならないよう、にっこりと微笑み、会釈をしながら隣を通り抜けようとした。――その時。
目をかっと見開いたお婆さんに詰め寄られ、がっしりと腕を掴まれたのだ。
「ちょうどいい! 困った話なんだよ! 一緒に聞いておくれ」
「えぇっ!?」
「……こちらの方は?」
突然話の輪に加わったシモンに、紳士は怪訝に首を傾げ、噂好きのお婆さんに尋ねる。
改めて顔を合わせると紳士の顔色は悪く、心なしか頬がこけて憔悴しているように見えた。
噂好きのお婆さんは、嬉々としてシモンを紳士に紹介した。
「この子は、ほらっ! あの、町はずれの呪われた教会の奉仕者だよ。牧師さまは寝込んでしまっているのに、この子はこの通り、ピンピンしているんだよ!」
え? とシモンは声を上げそうになり、目を丸くして慌てて否定する。
「のろ……っ? の、呪われて……!」
いません、とすべて言い終わる前に、紳士の嘆くような声に遮られる。
「ああっ! あの有名な……! まだ若いのに悪霊に呪われたせいで起き上ることさえままならないという噂の、薄命の牧師さまの所の……」
(えーっ!? そうなの?)
弾かれたようにシモンは紳士に顔を向ける。
驚いて声も出ないシモンの脳内に、弱々しくベッドに横たわるセオバルドが浮かび、激しく動揺する。だが。
紳士の顔を見ると同時に、はっと我に返る。
セオバルドは、今朝も起きて歩いて、普通にお茶を飲んでいた。
ただの噂、……デマだ。そう確信してシモンは、ほっとする。
差し障りのない穏やかな笑みを浮かべて、間違いを訂正するために口を開いた。
「先生は、げん……」
「さぁ、さっきの話をこの子にもしてやっておくれ!」
シモンを押しのけるようにして、噂好きのお婆さんが紳士の前にずいっと割り込んだ。
(えー……?)
顔に笑顔を張り付けたまま、シモンは固まる。そんなシモンを置いてきぼりに、紳士は鬱々とした口調で話し始めた。
一週間ほど前、紳士の屋敷で紳士の母親が病で亡くなった時の話を――。
その日は、すぐ隣の人の顔すらわからない程に霧が立ち込め、とても寒い日だった。
もう長くはないから、と。呼び寄せた近しい親族の者たちと、日が暮れる頃に皆で母を看取り、彼らと夜中まで暖炉の前で話し込んでいた。
会話が途切れて部屋が静まり返った時、ふと、部屋の外を歩き回る気配に気づいた。
扉の隙間から廊下を覗いてみると、ぼんやりとした白い影が廊下を行ったり来たりしている。その場に居合わせた親族の者にも見てもらったが、廊下を覗いた者は皆、亡くなった紳士の母が歩き回っているのだと口を揃えて言った。遺体を安置してあった部屋には何人か人がいたが、そこにいた者は皆、遺体は動いていなかったと証言した。
翌日の早朝に、町の教会へと知らせに行ってからは、紳士の母の霊らしいものは見ていない。
「お母様が亡くなってから、誰も家を出入りしてないのですよね」
シモンの問いに、紳士は「ええ」と答えた。
「……窓や勝手口、家の出入り口を全て閉め切っていませんでしたか?」
「ええ。霧がひどく、とても冷え込んだ夜だったので……」
「僕の住んでいた村でも一度同じようなことがあったんです。そうしたら祖母が、亡くなった人の魂が出られないから扉か窓を開けておくようにって。お母様の霊らしきものが見えたのが、その一度きりだったのなら、次に家のどこかを開けられた時に、外へ出て行かれたのだと思いますよ」
亡くなったばかりの家人は、生前と同じ感覚で扉から出て行こうとしたのだろう。
どこから出て行けばいいのかわからず、困った紳士の母の魂は家の中を彷徨う姿を見せることで親族に知らせたかったのかもしれない。今も家の中を紳士の母の死霊が彷徨っているとか、そういった心配はないのではないかとシモンは言ったのだ。
「そういう……、ものですか?」
不安げに、半信半疑といったふうに尋ね返した紳士に、シモンは特に実害がなさそうだと考えて、ふわりと微笑んでみせた。
「僕は見ていないからわかりませんが、一度きりだったのなら、多分。何か心配事があったら、そちらの教区の牧師さまに相談されたらいいと思いますよ」
見知らぬ紳士と、シモンはそんな会話をしたのだった。




