シモンの一日 1
風が凪いで――。
木々の梢も揺れ動くことのない、静謐な夜の景色がキッチンの窓の外に張り付いていた。
いつもよりも梟の声が近く、大きくこだまする静かな夜だった。
自室で読み物をしているセオバルドに温かなハーブティーを届けたシモンは、キッチンを磨き終えてようやく人心地がついた。
テーブルに着いて、余り物の冷たくなったハーブティーを飲みながら眠気を感じたシモンは、とろんとした眼で壁に掛かる時計を見つめる。
「今日は、いろいろあったなー……」
小鬼を掴む日が来るなんて夢にも思わなかった。
シモンの一日は、家事から始まり家事で終わる。
家事の合間を縫って、セオバルドと時間を合わせて彼から勉学を教わり、魔力や魔力を使った不思議の術について習い、実践もする。
無理なくやり切れるだけの、予習や復習のための課題も与えられる。
――セオバルドの授業は、多岐にわたる。
身近なものでは天候や星の詠み方。鳥の囀りから、その意味の解き方。
古代言語の習得に、それの記された写本から古の時より伝わる暦や祭事、様々な呪いについて読み解く。
神聖なものと崇められ、呪いにも利用される樹木。薬として使える草木の名前に種類、それらの効能や危険性を学ぶ。
術を使う際に用いられる、力場を安定させるための粉の材料と調合を教わり、世界に存在し満ちている不可視の力や人の有する魔力について説かれる。
自身の魔力の性質や特性を探り、他者の魔力やその波動を探る術を知る。
魔力を基に、構成される式であり術。術を使うことによって生じる責任等、様々な事柄を基礎から段階的に学んでいく。
時には魔力や術への理解を深めるために、道具に術を刻み込み、それを発動させることで動かす不可思議な模型なども制作する。
ジョセフが脱兎のごとく逃げ帰った後、シモンはキッチンでセオバルドの講義を受けた。
セオバルドが見せたのは、蝋燭に点るほどの小さな炎。
ふわりと宙に浮かぶ鬼火のような炎に、セオバルドは細かく挽いた粉や薬品を指で摘まみ、ほんの少し落とす。
じじ……、と焼け焦げる微かな音と共に、ゆらりと煤が立ち昇る。同時に炎が色彩を変える。
炎が、紫や緑、黄色、黄緑と彩りを変化させる度に、落とされた粉が何であるか答えを求められた。
セオバルドは次に、宙に浮かぶ炎に手を触れないまま、硝子の瓶に移す。
空の容器の中央に浮かぶ炎は、セオバルドが手を翳すと、赤から黄色、白、青へとゆっくりと色彩を変化させてゆく。
セオバルドはシモンに、硝子瓶の中に炎を点して、一定時間指定した色を維持するよう指示した。
けれど。
シモンが瓶の中に炎を浮かべようとすると、炎は眩い光の珠となり、膨れ上がる。内側からの熱と圧に、硝子の瓶には瞬時に細かなヒビが網目のように走った。――刹那。
硝子瓶は、内側から弾けて粉微塵となった。
そうなることを予期していたのか。セオバルドが瓶の外側に結界を張ってくれていたので、破片が飛び散ることもなかったのだが……。
きれいな飲み水を招くことや、炎を喚び出して灯りを点すことと違って、それが日常で何の役に立つのだろうと首を傾げるシモンに、セオバルドは魔力をコントロールすることの大切さを説いた。
一日を振り返ったシモンは、ふわぁ……と欠伸をする。
失敗しても間違えても、セオバルドは終始穏やかで、怒られたり叱られたりすることはない。
だが、講義や実技の授業は常に見られているため、とても緊張する。
「……疲れた」
声に出すと疲労が重く背中に圧し掛かかり、瞼を開けているのが億劫になる。
ふ、と視界が暗くなり、首から力が抜けて頭が傾いでゆく。
静まり返ったキッチンで、かさ……、と微かに乾いた音がした。
焦点を暖炉に合わせると、燃え尽きた薪が灰になっているのが見えた。
(もう、寝よう……)
明日の朝も早い。
私室に戻ろうと立ち上がったシモンに、可憐に澄んだ声がかけられた。
「シモン。身体が冷えてしまったから、ホットミルクを入れて頂戴。夜はブランデーを一、二滴、風味付けに入れてね」
少女姿のシェリーが、琥珀色の液体の入った瓶を持って、キッチンへと入ってきた。
機嫌良く酒瓶を差し出すシェリーに、シモンは困惑気味に眉を寄せる。
「それ、先生の物じゃないの?」
「違うわ! 前の人間が置いて行った荷の中にあったの。私が見つけたの!」
自分の物だと主張するシェリーは、胸を張り、自慢げに微笑む。
高飛車な態度ですら愛らしく見えて、シモンは自然と顔を綻ばせる。
笑みを返され、了承と捉えたらしいシェリーは、ブランデーの瓶をシモンに手渡す。椅子を引いて、長い銀糸の髪を払い、腰掛けた。
「いいの? ミルクにお酒なんて入れて……」
そもそも妖精猫なのに、と言いかけて、シモンは慌てて言葉を呑み込む。
少女を模る時のシェリーが、人間として扱われることを望んでいるのだということも、この半年で学んだことの一つだった。
不用意な一言で、機嫌を損ねてもつまらない。
「少し冷えてきたから、薪を足すよ」
シモンは話を逸らし、まだしばらくキッチンに居そうなシェリーのために、暖炉に数本の薪をくべた。
小鍋にミルクを注いで温め始めたシモンの背を、シェリーは、じとっと睨みつける。
「あら、シモンはお酒が苦手なの? あなたってば見た目通り、本当にお子様ね……!」
自分は違うのだと暗に仄めかし、シェリーは澄ました顔をする。
逸らしたつもりの話を戻され、シモンは小さく溜め息を漏らした。
「まぁ、……そうかもね」
生返事を返したシモンは、琥珀色の液体の入った小さな酒瓶を目の上に掲げて、くるくると回す。深い蜂蜜色にも見える琥珀の液体は、傾けられることで濃淡を微妙に変化させる。
薄硝子を透かした部屋の灯りが液体に巻き込まれて、琥珀の一部を黄金色に染めかえる。
瓶の内側で波打つ琥珀の中を、細かな気泡がきらきらと躍る。
その優しい煌めきを、シモンは、ぼんやりと眺めた。
「じゃあ、シェリーはいくつなの?」
ミルクを温め過ぎないよう小鍋に視線を落としたシモンは、さほど興味はなかったが、話の流れでシェリーに年齢を尋ねた。
シェリーのマグに温めたミルクを注いで、ブランデーを二滴垂らす。次いでシモンは、小鍋に残った一口のミルクを、自分のマグに注いだ。
歳を尋ねられたシェリーは目を細め、嘲るように薄く笑みを浮かべた。
「大人の女性に歳を訊くなんて、失礼ね。流石お子様だわ! 幼稚なシモン。少なくとも人間の成人の歳なんて、とっくに越えているんだから……!」
シェリーのマグから、ほんのりとアルコールの香りが漂い、シモンの鼻孔に届く。
まともに会話をする気のない、明らかに小馬鹿にした態度をとるシェリーに、シモンの心がわずかにささくれ立つ。
「だったら、もっと大人の女性を模ればいいのに……。シェリーはいつも突っかかってくるよね。僕が何か気に障ること、した?」
眠気も相俟って顔は無表情に。答える声音はいつもよりも若干低く、ぶっきらぼうになった。
マグを両手に持って近づいてくるシモンと目を合わせたシェリーは、眉を吊り上げ、怒りをあらわにした。
「余計なお世話よ!! あなたなんか……、あなたなんてっ! ふらっとやって来て、大してセオの役に立たないくせに、そばに居付いて。本当に図々しいんだから! セオに落胆されて捨てられちゃえばいいんだわ」
辛辣に詰られるも、小鬼を捕まえる時に二つ結界を張ることができずに革手袋を頼ったシモンは、ぐうの音も出ない。
反論できずに視線を落とし、一呼吸置いたシモンは。
「ごめん。……ミルク、ちょうど人肌だよ」
ブランデーを落としたミルクをシェリーの前に差し出し、自分も椅子に腰かけた。




