72.自分の思いをよく考えると…。
その頃、ハルは侯爵に連れられて、冥王城自慢の庭に案内されていた。
庭は広くて、過去の冥界の王を模した像が置かれている噴水をセンターに、バラや様々な花が季節順に植えられている。
その種類も和洋折衷でグラデーションが付くように世界各国の植物と冥界特有の植物がいくつも集められていて珍しい。
まるで植物園のようで、一日いても飽きないでいられそうだとハルは思った。
「お爺様…ありがとうございました。アスター様にどう答えていいのかわからなくて…連れ出してもらって良かったです。あと…このお庭も素敵ですね。お爺様のお屋敷のお庭も可愛らしいですけど。」
ハルは軽いパニック状態に陥っていたこともあり、落ち着きなく会話をした。
全てを包み込むような慈愛の眼を向けて(孫娘にのみ限定)、祖父が辛抱強く彼女のまとまりのない言葉に耳を傾けてくれるうちに、話している本人も少しづつ落ち着きを取り戻していくのがわかる。
それを確認してから祖父である侯爵が口を開いた。
「それはどうも。うちの庭は君の祖母である妻とラズベルの趣味でね…どうしても変えたくなくて、そのままのデザインを維持している。芸がないと思われるかもしれないが、私がこの冥界での役目が終わる日が来るまで、そのままにしておこうと思っているんだ。前にも言ったかな?」
祖父の瞳が少しだけ寂しそうに笑う。
「ふふ、そうでないかとずっと思っていました。初めて、侯爵邸に伺った時、お部屋の壁紙や不思議の国に迷い込んだような可愛いお庭といい、侯爵家のご令嬢や奥様が好きなのかなって…そう言えば、母も食器なんか、お爺様のおうちと似た物を揃えていましたよ?」
「ああ…そうだね、食器を集めるのもラズベルは好きだったな。きっと家のティーセットは八割、君のママの趣味だよ。今となっては、もう娘に会うことが出来ないから…もっと仲良くすれば良かったと後悔しているよ。」
「お爺様…きっと、お母さんも…お爺様のことをたくさん思っていたと筈です。いつか、仲直りをしようと思って後悔していたんでしょうね。」
「相手を失ってしまえば…後悔は際限なく溢れ出す。欲しがっていた作家の限定カップも買ってやれば良かったな…とか、ね。僕が君にこんな事を言う資格は無いが…意地なんて張って…娘を追い出してバカだった。」
ハルは自分と同じ色の瞳を覗き込む。
祖父の瞳の色が微かに悲し気に揺れていた…。
「今だから言える僕の後悔はね…ハル。別れてしまえば、自分から手を離してしまえば…どんなに後悔しても次に会える保証は無いということが、わからなかったことだよ。人でも神でも出会いは常に一期一会だ。」
「お爺様…。」
「理由は何であれ、自分の心を偽れば、いつまでもその呪縛が自分自身を苦しめることになる…あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かったってね。」
「心を偽る…?」
ハルと侯爵は見つめ合った。
「ラズベルに対して、素直に戻ってきてほしいと言えなかった…僕のつまらないプライドは、娘との時間だけでなく、孫娘である君との時間をも奪った。君が誕生する瞬間、学校に通う時、小さな君を抱く瞬間や誕生会に贈り物をすること…いくつもの紡がれた筈の思い出を全て失った。」
眼が若干、潤んでいるようではあったが、祖父は『すまない、ハル。』と言いながらも気丈にしゃべった。
私の方は、頬に伝う一筋の線をハンカチで拭う。
祖父にはその事でもう何度も謝ってもらっている…。
どうしたら、お爺様の胸の罪悪感を取り除くことが出来るのだろうか。
「ええ、でもお爺様…お陰で今、私はお爺様の有難みや、両親の有難みが身に染みているんですよ?」
ハルは頬を拭った後、そう言って微笑んで見せる。
つられて、侯爵も微笑み、更に言葉を孫娘に掛けた。
「だからね…ハル、僕はもう後悔をしたくないから、正直に言う。今までも言っていたけど、ラズベルの用に君を失いたくない…何度でも言うよ。もう離れて暮らしたくない。お爺様はね…ずっとハルの傍にいたい。」
ハルは震えた。
それは恐怖からではない。
「人間界で余程やりたい仕事があるのかい?ラズベルのように好きな男がいるのかい?それならば、諦めるよ…同じ過ちはしたくないから…。でも、そうじゃないなら、お前を手放したくない。」
一緒に暮らし始めて、情が確実にお互い移っていたせいもあるかもしれない…。
前にも似たような事を言われた…。
でも、今日の祖父の言葉は、今までと比べて、とてもはっきり自分を手放したくないと宣言したのだ。
そしてずっと強引に…以前よりも強く、自分と一緒にいたいと言ってくれている。
侯爵の今の言葉は、今までで一番、真摯で、一番、自分の心に響いて語りかけて来る。
ハルの心はぐらりと傾いた…。
「君には前に、人間界を選んでもいいと言ったが嘘だ。そうやって自分に言い聞かせただけなんだ。正直な気持ちにウソはつけない。ハル…よく考えて、自分の正直な気持ち…なぜ地上を選ぼうとしているのか?それって、何かから逃げようとしてるだけではないのか?」
祖父の言葉にハルはドキリとした。
「逃げる…?」
「ああ、前にも言った…。よく考えては、くれなかったかい?」
確かにそうだ…。
自分が地上に戻りたい理由は『逃げたい!』の一言につきる。
私はお爺様の言うように、人間界でどうしてもやりたいことがある訳ではない。
両親の希望通り現人神養成学校を出た後は、特にしたいことなんて無いのだ…ただ生きていくために仕事につこうと思っていただけで…。
地上に誰か残した訳でもなければ、意中の王子様がいるわけでもない。
シルヴァスさんの事は好きだけど、自分が彼を恋人として好きかと言われると…わからないとしか言えない。
素敵な人だからドキドキはするが、前に迫られた時は『怖い』と感じた。
でも、アスター様のことは…?
アスター様のことは『好きかも』と何度も認識している。
いや、多分…ではなく『好き』なのだ!
一度は思いに応えようかと悩んだではないか…。
私はアスター様が好きだから、彼の心が自分への純粋な愛ではないかもしれないと思うと怖いのだ。
シルヴァスさんに言われた言葉が、自分の中でアスター様への疑いと変わり、相手に確かめる事も怖くて逃げようとした…。
幾度にもわたる祖父の言葉で、ようやく目からうろこのように、自分の気持ちがハッキリと見える。
今まで、素通りした祖父の言葉がやっと孫娘に届いた瞬間だった。
『そうだ、そうだったのだ。』
最初は冥界での居場所の無さから逃げようとし、今はアスター様の愛を確かめるのが怖くて逃げようとしている…。
私が人間界で生きようと思った動機は(ショックではあるが)、ただの『逃亡』という卑怯な物でしかなかった!
自分ではしっかりと生きていると思っていたし、これからもしっかりしなければと思っていたが、私は何て臆病だったのだろうと愕然とする。
己の心をようやくクリアーに客観視することが出来るようになったハルの様子を身近で観察しながら、もう一押しと思うラナンクル侯爵は、そこで止めとばかりに再び口を開いた。
「そう言えば、そう言った点に関して見込みのある男がいるよね。アスター君なんか、僕らが気付かなかったことをよくわかっているだろう?君の手を離したら、二度と手に入らないって…だから彼は常に真っすぐで君を諦めない…どう思う?」
「え?」
「さっき、どう答えたら良いかわからないと言っていただろう?君は答え方を考えるからわからなくなる。答え方を考えるのではなく、自分の胸の中をそのまま言えば、物事はもっとシンプルだ。アスター君みたいにね…。」
「そうですね…何か、やっとお爺様の以前の言葉と今の言葉で、そういう風に思えてきました。でも、そのさっきは、パニックを起こしてしまったし…思いきれなかったというか。今は目からウロコが落ちました。」
ハルは下を向いて弱々しく言った。
侯爵は今度は『フフ』と笑ってハルの後方を少し見やって…
「そうかい…でも、大丈夫さ。君が逃げたくてもい逃げられないみたいだから…幸いにも相手は何度でも君を落としに来るみたいだし…君のためならなんでもしそうだな…フフ。ほら、もうすぐ来るよ?」
と、言い連ねる。
侯爵の視線の方向に体を捩って、ハルは振り向いた。
「僕的には結構、お勧めだな。冥王様も言ってただろ?僕がようやく実感していることを、無意識に実践している気質…貴重だよ。それにフォルテナ家は代々ラッキーなんだ。引きが強いんだよね。」
そう言う祖父の言葉を聞きながら、振り向いた先にハルが目を凝らすと、先程、逃げるように置いてけぼりにしてきた、アスターとシルヴァスがこちらに向かって走ってくる…。
ハルは目を見開いた。
「ええ⁉ここ、冥王様のお城ですよ!あんなに走って…。」
貴族的にどうなの?不作法にならないかしら⁉
『ククク』と笑うラナンクル侯爵が意味あり気にハルに言う。
「どうしても、ハルの夫になりたいのだろう?欲しいものがハッキリしていていいな…さて、君も落ち着いただろうから、アイツになんて答えるか、もうわかるんじゃないか?君がどんな答えを選択しても、僕だって諦めないからね。一応、しつこく言っておく。」
そう言うと侯爵が今まで見た事もないような、獰猛な光を目に宿したのにハルは気付いた…。
「嘘!何か、お爺様…本気で私を手放す気が無いみたいなんですけど⁈」
今まで猫を被っていただけの侯爵の本当の素顔なのだが、ハルにはそこまではわからなった…。
身内の欲目とはよく言ったものだ。
侯爵はようやく、本心と本性を出しても孫娘に怯えられない所まで、彼女の中に己が食い込んだことに満足を覚えていた。
そうこうしてる間に、美しい庭の薔薇のトンネルを抜けて、男二人がこちらを目指して走ってくる。
ハッキリ言って、ラナンクル侯爵からしたら、ムサイ・キモイ映像に他ならないが、孫娘のハルは瞳を輝かせて、その一層、デカイ・ムサイ方の男に視線をやっている。
次は…曾孫は男の子が良いな…とラナンクル侯爵は密かに思いを巡らした。
女の子だと、あんな者に娘やら孫娘をやらなければならない立場なのだ…曾孫までなんて。
とてもじゃないが、メンタル的に辛い…。
出来れば、ずっと傍に置いておきたいし、筋肉の塊みたいな野郎に孫娘がどうこうされてしまうだろう未来だって、考えるだけで吐き気がする。
当分、ラナンクル侯爵=デュラントの試練は、そんな筋肉野郎に対して、殺気を押さえておくことなのだ…。
そうでなければ、曾孫の顔を拝めないのだから仕方がない…。
複雑な胸の内、到着したアスターとハルが向かい合った瞬間、侯爵はサッと後ろを向いた。
当然、筋肉野郎に告白する孫娘の姿なぞ見たくはないからである。
自分が二人をくっつけるように努力をしたのは事実だが、それはハルを手元に置くために打ち込む楔を強める為に、(仕方なく)したことに過ぎない…気持ちの上では裏腹な行動に他ならないのだ。
男親とは、祖父とは、辛い生き物である…。
それでもその辛さも孫娘を持つことが出来たから、経験するであろう幸福な試練なのである。
ハルは自分の元に走り寄るアスターに向かって、口を開いた。
「アスター様、この指輪に対するお返事を言う前に、聞いてほしい事があるんです。」
肉体的に少々アスターよりも華奢に見えるシルヴァスが、遅れてハルの元に到着した所で、孫娘がフォルテナ伯爵に向かって話を始めた。
息を切らしているシルヴァスは、急には口を開けなかった…。
それを横目にハルは、今までの不安な気持ちをアスターに打ち明けたのだった。




