64.意外に面倒な思い
シルヴァスとハルが二人きりでラナンクル侯爵邸内の客間で会ったという午後。
あの日を境にハルの様子がおかしくなった。
彼女が、前に奴と出かけて以来、シルヴァスを意識し始めているのは感じていた…。
わかっていたから、アスターは自分とのデートで、少しでも親友より先に彼女の心を奪ってやろうと、性急なアプローチをした。
しかし、そうしてまで自分に意識を向けさせるように持ってきたのにも関わらず、次に自分がラナンクル侯爵邸へ訪れた時、それ以上に彼女の様子が変わっていたのである。
自分に対して、どこかよそよそしいのだ…。
アスターはこのままではいけないと思い、ハルに直接、聞いてみようと腹を決めた。
そして本日、彼女が学校を終えて、戻って来る時間を見計らい、アスターも早々に仕事を切り上げてラナンクル邸にやってきたのだ。
特に冥王の呼び出しでも出ていない限り、領地での仕事は自分の調節で何とかなる…。
それよりも今はハルの心が少しでも自分から離れないように…自分に向くように、務めなければならない。
彼女が学校を卒業する期間は、あと一年も無い。
考えてみれば、もう既に学校は自由登校に切り替わっている筈だ。
彼女は真面目で毎日のように通っているようだが、内容は自立に向けて本人に必要な学びを、単位制のように取っている状態だと思う。
つまり生徒一人一人により、学習内容が異なっているのだ。
ハルが一体、どんな将来に確定するのか…はたまた、もう決めてしまったのか…今は何を中心に勉強し、情報集めをしているのかが気になる。
アスターとしては、冥界に残る道を彼女自身に選んでもらうのが望ましい。
もっと言うのならば、出来るだけ早く自分の花嫁にしたい…。
正直、就職などしてほしくはないのだ…。
それに関しては本人の同意も無いし、付き合っている段階でも無いので、本来ならそんな事をアスターが望むのは、お門違いなのだが…アスターは既に、ハルには内緒でラナンクル侯爵家と縁組の確約をしているのだ。
だから、そう言う考えが浮かぶのは仕方ないことでもある。
現人神養成学校や冥界においても、男子部と男子用の教育は女子の物とは異なっている部分があった。
正確に言うと、女子には教えない知識があるのだ。
それは女神が男神に比べて、圧倒的に少ないことに関わりがある。
例えば、法律の事…女子にとって不利な内容がいくつかある。
いくつまでに初婚をしなければならないと言った内容は男神には存在しない。
女神だけに適用される法律だ…男女比の偏りを少しでもなくす為にあるのだが、当然これは不公平だ。
それなのに、そういった事が当たり前のように適用されるのは、結局は女神より男神の方が多いし、所詮は、神々社会も数の上で男社会であることに変わりがないからである。
だがこれは、不平等な法律とはいえ、女神達に秘密にされていない物の一つだ。
実を言うと、女神に不平等な取り決めは、本人達に知られていないだけで、同様にもっとたくさん存在している…。
それは男神の教育機関でしか学習しない事であり、女性には教えてはいけない教育内容となっていた。
その一つに冥界神の執着のこともある…。
冥界の男が、本気で恋をすると、何が何でも相手を手に入れようとする気質があることを女神には教えない。
これは、現人神養成学校女子部でも、冥界の女性専用の教育機関や家庭教師でも同じなのだ。
女性にはあくまで、自然に両想いで一緒になったと思わせることが、男神達の暗黙のルールであり、水面下で本人の意思に関係なく、家同士の婚約が可能なことも女神だけが知らない冥界男達の常識である。
その場合は、保護者側の家が婚約相手以外の男神に、意識的に会わせないようにすることも認められている。
全ては、未婚の男神を少しでも減らす為の法律だ。
実際にそう言う法律が存在しているのに…女神だけは知らないのである。
また女神の教育機関では、法律の授業が存在せず、法律上の疑問は教師から直接質問をして聞くような体制が常である。
そこは教師の腕の見せ所で、教員達はそうした知られてはいけない法律をうまく煙にまいて、ウソもつかないように説明する能力が必要とされるのだ。
シルヴァスが、どこまで知っているかはわからないが、まあ勘の良い奴の事だから、既に自分が侯爵の許可を得て、ハルを自分のモノにする取り決めがなされていることに薄々気付いているかもしれない…。
気付いた上で奴は、自分の妨害をしているのかもしれんが…。
ラナンクル侯爵が正式に祖父だと認められたことで、現在のハルの保護者は法律上では既に侯爵で、その侯爵がアスターとの婚約を認める書類にサインをした段階で、ハルは実質上、本人の知らぬ間にアスターの物なのだ。
今更、横恋慕したところで、覆すのは相当な苦労や権力が必要になる。
ハルが本気でシルヴァスを選ぶなら、奴はそれなりの覚悟もあるのだろうが…まずはラナンクル侯爵の許しを得なければならないのが一番の問題だろう。
アスターにおいては、その辺は既に侯爵と利害の一致をして取り決めをかわしているので、心配はしていなかった。
あとは、ハルの心を手に入れるだけ…できることなら、無理矢理、花嫁にするのではなく、きちんと同意の上で妻になって欲しい。
そ
の為なら、どんなことでもしようと思っている。
アスターが本当に欲しいのは彼女の『愛』なのだ!
アスターは、そんな風に思考しながら、ラナンクル侯爵邸の客間へと数日前のシルヴァス同様にノックする。
家の者にフォルテナ伯爵の訪問を聞いて、先に待っていたであろうハルの声がした。
「ハイ、どうぞ。」
アスターは彼女の返事を確認すると同時に扉を開けた。
応接室は少し小さな客間である。
「やあ、ハル、顔を見に来たよ。今日は、学校ではどんなことをしに行ったんだい?うっかりしていたが、もう君は自由登校の期間なのではないか?」
アスターは流れるように入室すると、彼女の許可は待たずにソファーに腰掛けて、出会い頭の会話の取っ掛かりとして、世間話をするように学校の事を彼女に問いかけた。
元より家族としてフォルテナ伯爵家で暮らしていた事もあり、ハルはアスターの多少の不作法には何も感じない。
アスターに問われたまま、それに答えた。
「ええ、アスター様。家業を継ぐと決まっている子なんかは…緑ちゃんのように姿を現さない子もいるわ。でも委員長は、私同様に毎日、学校に来ていますね。一番多いパターンは、用のある時だけ学校に来るというのが主流みたい。」
「そうか…。やはりもう自由登校機関に移行されていたんだな。早いものだ。」
アスターは感慨深げに彼女を見やる。
ついこの間まで、子供だと思っていたのにな…。
今は少女でも立派にレディだ。
アスターは、いささかジジ臭く彼女との日々を回想していた。
目を閉じて、何か一人で考えに耽るアスターを前に、ハルは先程の彼の問いの一つでもある『今日は学校でどんなことをしたのか?』について、語り始めた。
「今日の学校での私の過ごし方ですが…大体いつもと同じで、過去の学習内容で興味ある分野を復習して、不明点やもっと知りたいことについて先生に質問したり、現人神世界の仕事の種類について調べたりしています。」
「ほう…まだ、勉強を続けているのか…偉いな、ハルは。」
「そんなことはありませんが…学校の図書室では、冥界について書かれた本も読むようにしています。卒業まで数か月しかなくて、今更ですが…私には知識が色々と足りないようなので…。」
「ふむ、冥界のことで何か深く知りたいことがあれば、私に聞けばいい。自由登校なら、何も学校に行かなくても、私が都合をつけられるぞ?」
アスターの申し出にハルは慌てて首を振った。
「いえ、アスター様にそこまでしてもらうわけにはいきません。」
「何を他人行儀な…私は前に君に自分の気持ちを伝えた筈だ。それに既に、家族同然な君の為なら、どんなことだってしてやりたいと思っているのに…遠慮なんてしないでほしい。」
これでは、前回のデートをする前に逆戻りをしたようだ…。
あの時は確かに、もっと彼女の心を自分に引き寄せていた気がしたのに、シルヴァスと何があったかは知らないが、今のハルは引き取ったばかりの頃に限りなく近い態度をしている。
アスターがそう思っていると、ハルはおずおずと口を開いた。
「けれど…アスター様、私達は実際に血縁者でもないし、私は自立しなければなりませんので…いつまでも甘えてばかりはいられません。それにやはり…私はアスター様のお気持ちに応えられません。」
彼女の言い出したことに、アスターは驚いた。
そして、まじまじと彼女の顔を見る!
「それは、どういうことだ?血は繋がってなくても私は元々、色恋抜きで君にできるだけのことをしてやりたいと思っていた。勿論、君が私を男として好いてくれれば嬉しいが、自立にこだわらず甘えてくれ。それと差し支えなければ、私の気持ちに応えられない理由を聞かせてくれ。」
足と手をそれぞれ組んで、どっしりと聞く体勢に入るアスターが座っていると重厚で大きな皮のソファーも小さく見える。
途中、ラナンクル侯爵邸の老執事がお茶を持ってきたが、アスターは『今は取り込み中だから、お茶は後で良い!』と言って、追い払ってしまった。
結果的には、人払いをしたことになる。
ハルはアスターと二人きり、向かい合って座っているが、彼の瞳は険しく、まるで何一つ、自分の考えていることを見逃さないと言わんばかりに真っすぐと射抜いて来る。
逃げられないような圧迫感と緊張感の中で、ハルは仕方なく口を開いた。
「その…私には…やはり冥界に残るのは無理かと思いまして。アスター様は、共に冥界神としての務めを果たそうと言って、私を誘ってくださいましたから。」
ひどく、しどろもどろな口調になってしまったが、ハルは何とか当たり障りのない回答を口に出す。
アスターは腕を胸の前で組んだまま、目を細めた。
『どうやら振出しに戻ったな…』と思いながら。
「ほう、つまりそれは現人神になりたい…地上が恋しいということかな?」
アスターは片方の口角を上げながら、首を傾げて見せる。
ハルは黙って頷いたが、少し間を空けてから一言、『ハイ』と返事だけした。
「そうか…わかった。それで、それとは別にして、君は私の事をどう思っている?」
「ハイ?」
アスターの思いがけない唐突な問いに、ハルは間の抜けた声を出す。
『地上で生活したいから冥界には残れない…』その答えで、アスターなら全てを理解し、納得してもらえるものと彼女は思っていたのだ。
「君の気持ちを聞いている。私は君に自分の気持ちを伝えたが、君からはまだ、気持ちを聞いていない。君は単に人間界に帰りたいから冥界にはいられないと言っただけで、私をどう思っているのか、正直に教えてほしい。」
アスターの、つまりは自分を男として見れるのか…自分を好ましく思ってくれているのか?もしくは、そう言う目では見れないのか?…という、暗黙の問いにハルは咄嗟に眼を泳がせた。
ハルの頭に浮かぶのは、アスターから受けた甘いキスとその逞しい腕の中がどんなに心地が良いかという事だったのだ…。
しかしそれを悟られれば、アスターが万が一、シルヴァスの言う通りハル自身を愛してくれていない場合、自分がとても不憫に思えてならないのだ。
シルヴァスの意地悪な言葉を聞いて、色々と考えたハルは改めて思う。
自分が単にアスターを好きだというだけの話ではなく、自分はアスターに、純粋に求められ、愛されたいのだと!
だから、それはフォルテナ伯爵家の為に嫁が欲しいだとか…ラナンクル侯爵の血を引く娘だからアプローチされるのだとか…そんな事があってはならないのだ。
私は、そんなものを抜きにして、アスター様に求めてもらいたい!
ハルの心はそう叫んだ。
同時にはっきりと、『このまま自分は、彼の想いに応えてもいいかな?』程度の問題ではなく、とっくにアスターに心からの恋しているのだとわかってしまったことで、臆病な思いが次々に生まれてくる。
そんな状態で軽く答える訳にはいかない。
一緒になった時点で、アスターの心が自分のみを情熱的に求めていたのではないとわかってしまえば、ハルの心はむしばまれていくに違いないと思えたのだ。
外側からはわからないが、自分が本当はとても独占欲が強く、深く愛されたい女なのだという事にハルは気付いていた…。
だからこそ、アスター様と自分は、離れなければならない。
彼の妻になってしまえば、自分はアスター様の心が、自分だけに激しく向かなければ満足できないのだから!
ハルは小さな声でアスターに告げた。
「アスター様、ごめんなさい。私はアスター様の事をお兄様のように思っているんです。それに、シルヴァスさんのことも…。思いには答えられません。」
ハルが重い口を開くと、アスターの顔は酷く悲しく切ないものに歪められたのである…。




