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62.お出かけはアスターと。

 前日、シルヴァスと出かけて、すっかりポーッとなっていたハルは、今日も午後からアスターと出かける約束をしていた。


昨日は、たまたま学校が無かったのだが、今日は現世時間で14時頃まで授業がある…。

だから、午後からしか出かけられないのだ。



ハルは、アスターと約束がある為、サッサと帰りの支度をすると、学友に別れを告げクラスを出る。



 ハルが帰りのHR終了の合図と共に、教室から一目散に出て行ってしまった後、クラスの担任であるアレステル・オグマは溜息をついて、(そば)にいた委員長に話しかけた。



「ハルリンドは今日、なんとなく変じゃなかったか?」



委員長は首を傾げて、ハルの出て行ったドアの方向をまだ見詰めながら、口だけ動かして答えた。



「ええ、先生。とっても変でしたわ…。一日中、ボーッとして溜息をついてばかりでしたもの。それに、たまに赤くなったと思ったら、そわそわしたりして…正直、おかしかったです。」


「…そうか。」



それだけ言うと、オグマは独り言を(つぶや)きながら職員室に戻って行った。



「全く…仕方ないな。せっかく卒業まで、あと少しってとこまで、育て上げた生徒なのによー!」



それから廊下でチラリと後ろを振り向き、いるかいないかわからない…実は存在していた謎の副担任に向けて、声を掛ける。



「おーい、いるんだろう?ついて来てるよな…今日は仕事上がったら、現世で酒飲みに行くぞ!そういう気分だ…お前だってそうだろ?」


「ハイ…お供します。」



弱々しい声を出して、副担任が答えた。

存在感が無さすぎて、いる事を忘れがちだが、彼はいつもちゃんとクラスに存在している。

オグマは独り言を良く言っているように見られているが、副担任に向けて言っていることも多々あるのだ。

それなのに、なぜか(はた)から見ると、一人でしゃべっているように見られている。



「誰の人選だか知らんが、面倒くさい者を全て俺に押し付けてる奴が、上司の中にいるよなぁ…絶対…。」



Rクラス担任のアレステル・オグマは、現人神教師とはいえ、所詮は雇われの身…。

納得できない勤め人の憂さ晴らしも兼ねて、とりあえず飲みたいと思うのである。


二人はそのまま、職員室に入って行った…。



その後、二人から事情を聞いたらしい学園長のガブリエル・リリューも、なぜかその飲み会メンバーに入っていたらしい…と、卒業式の後、ハルは聞かされることになるのであった。

はたして、オグマは、酒の席でエンジョイできたのだろうか…。


 ガブリエル・リリューは酔うとかなり面倒くさいのだと…学年主任なのに、なぜかいつも学園長の傍で仕事をさせられているカートリルは、後に証言している。




 『急いで帰ろう』と、学校から冥界に(つな)がるドアを開けた瞬間、ハルが中に飛び込むと、ラナンクル侯爵邸に戻った筈が、目の前にアスターがいた!



「やあ、お帰り!待っていたぞ…さあ、荷物を置いて、すぐに行こう。時間が無くなる。」



アスターの一言にハルは目を丸くした。



「ええっ⁉アスター様!!ずっと、ここにいたんですか?ここで待っていらしたんですか?」


「ああ、そうだ…待ちくたびれた!早く行こう。」


「やっ!ちょっ!ちょっと待って下さい。せめて、服を着替えさせてください!ちなみに、どちらに行く予定ですか?」



ハルはあわてて、アスターに首を振って聞く。

アスターは落ち着いていたが、少々、待たされることに不服な表情でハルの荷物を手に奪って答える。

 


「昨日は、シルヴァスと人間界に行ったのだろう?ならば私は君と冥界でデートをしようと思う。君の思い出が…冥界の思い出が、少しづつでも、良いものに変わって欲しいから…。」



不意に切なげな眼をしたアスターを見ながら、ハルは言った。



「アスター様、とりあえず私は冥界でおかしくないドレスに着替えて参ります。」



ハルは学校に、制服風のワンピースを着て、通っているのだ…。


今すぐこの屋敷を出て行きたいアスターは、渋々、頷いた。



「わかった…待ってる。」




 ハルが急いで、服を着替えてくると、待ち受けていたアスターに腕をガシリと捕まれて、そのまま屋敷を出る…。



「まずは、()()に乗って、お茶をしに行こう。帰って来てから、まだハルは一休みしてないだろう?」



ええ、アスター様に一休みする前に、こうして捕まって屋敷の外に連れ出されてしまいましたからね…。

そう腹の中で思いながら、アスターが『()()に乗って』と言った先に眼をやり、ハルは目を(みは)る。

目の前には、冥界の軍馬代わりに使われているという羽のついた恐竜がいた。



「ええと…このプテラノドンみたいな…この(恐竜)に乗って行くということですか?」



思わず、ハルはアスターに問いかける。



「ああ、小回りが利くので、馬車より自在に色々な所に行けて早いんだ!今日は半日しかないから、便利だろう?それにハルはこういった馬には乗っていないから、新鮮で良いかなと思ったのだが…気に入らなかったか?」


「い、いえ、驚いたのです…その、こういった生き物を見たのは、初めてだったので。でも、その『馬』っていうのは?」


「ああ、こちらではこういった類の物も大きく分けて『馬』と呼んでいるんだ。馬と同じように使っているからな。こいつは飛ぶだけでなく、走るのも早いんだ。」


「そ、そうなんですか。」



冥界は随分と、生き物のくくりが、ざっくばらんなんだな…と思いながら、ハルはその()の方をチラリと見た。

『馬』なる小龍ともいうべき、恐竜の足を見ると、その形は少しダチョウに似ている…なるほど、長い脚で早そうだ…と思う。

ハルがそのまま、ジッと見ていると、アスターが少し笑って、声を掛けてきた。



「そんなにジッと見ないでやってくれ。コイツは結構、照れ屋なんだ。名前はビースタというんだが…ビースタ、こちらのレディは私の養い後にして愛しい女性(ひと)…ハルだ。今日は一緒に乗るが、安全運転で頼むぞ!」



最初はハルに話しかけていたアスターだが、途中からビースタという『馬』に向かって、彼女の紹介を始めたのを見て、思わずハルは笑った。

そして、自分もアスターに(なら)い、ビースタに声を掛ける。



「ビースタ、初めて会うけど…ハルリンドよ…親しい人には、ハルって言われてるの。宜しくね。」



ハルが声を掛けると、まるでビースタはわかっているというかのように、『キイィィィ』という高い声を上げて鳴いた。



「まあ、ビースタ!あなたって言葉がわかるの?凄いわ!」



ハルが驚いて誉めると、ビースタは少し得意顔をした気がする。

その様子を面白そうに見ていたアスターが、今度はハルに手を出して言った。



「そう、コイツは言葉を理解するから、下手なことは言わない方がいいぞ、ハル。さて、紹介も終わったことだし、そろそろコイツに乗らないか?甘い物のうまい店があるから行こう。」



ハルは出された手を無意識に取って頷く。



「はい、アスター様。今日は宜しくお願いします。」



 ハルをビースタに乗せると、 アスターは自分も後から飛び乗って、ハルの後ろから彼女を抱きしめるような形で手綱を取った。


何だか、その感触が少し恥ずかしい。


ハルは頬のほてりを悟られぬよう、視線をビースタの頭に向けて押し黙る。


そんな彼女の様子に、特に気にも留めず、アスターは助走をつけてビースタを走らせると、そのまま空を飛ばせた。

ふわりという浮遊感がした後、少しずつ地上から離れていく景色を目の当たりにして、慌ててハルは、ビースタの首にしがみついた。


アスターは笑い声をあげて、



「ハル、私が押さえているから、そんなにビースタにしがみつかなくて平気だぞ?何だか面白くないな…出来れば私の腕にくっついてほしいのだが…。」



と、片目を瞑りながら、ハルに抗議する。


その主人の声を聞いたビースタが、後ろを振り向いて、一瞬だけ、なぜか得意げにニヤリとしたような気がした。



「あ、今、お前は主人を馬鹿にしてほくそ笑んだな?全く、憎らしい馬だ!後で覚えてろよ⁈」



アスターはビースタを脅すように軽く睨んだ。


しかしビースタは『キイィッ』と馬鹿にしたような声を上げて応じる。


急な浮上と空の上で、怖いと思ったハルだったが、二人のやり取りを聞いていて、思わず笑ってしまった。



「イヤだわ…アスター様もビースタもいいコンビね!」


「まあな…。」



アスターが答えると、そのまま空の上を少し飛んで、お目当てのお店の近くに向かう。

あっという間に目的地に着くと、アスターはビースタを店に寄せて、着陸した。

一応店にある杭にビースタを繋ぐと、『形式だけだけど一応な』と私に向かって一言、説明した。


確かにつながれてはいるけど、この程度の拘束ではビースタが本気になれば、すぐに引きちぎることが出来るだろうと思われる。



「ビースタは賢いのね!」



ハルが感嘆したように言うと、ビースタはまた『キイィッ』と嬉しそうに声をあげるのだった。


 

 店内に入ると、店主はアスター様を視とめ、すぐに近寄ってきて、確認するように声を掛ける。



「いらっしゃいませ!フォルテナ伯爵、今日もお忍びですか?」



ハルは思う。


ん?()()()お忍び…???



「ああ、そうだ。」


(かしこ)まりました…こちらへどうぞ。」



店主はそう言うと、ハルとアスターをお客がいるフロアではなく、別室に案内した。



「伯爵、今日は、お一人ではないんですね。素敵なレディをお連れだ…。」



完全個室のその部屋に入り、私達が席に着くと店主がそう聞いてきた。



「そうさ。ここのうまい冥界イチジクのパウンドケーキとタワーパフェと…いつものパンケーキを彼女に紹介したくてな…というか一緒に食べたくてな。彼女はハルリンド、私の養い子で同時に最愛の女性だ。」



アスターの紹介に、ハルは目をみるみる見開いた。



『さ、最愛の人⁉』心の中でアウターの言葉を繰り返し、顔を赤く染める。

その初々しい反応に店主は『おや』と、一言(つぶや)いて微笑んだ。



「可愛らしい方ですね!伯爵様も隅に置けないな…こんなレディを隠していたなんて…どおりで浮いた話の一つも聞かない筈だ。養い子とおっしゃったが、そんな方に手を出したのですか?悪い大人ですね。」



少しだけ目を細めて、店主がアスターを見やる。



「フン、何とでも言え!それに、()()手は出していない。」



()()



店主は、やや呆れたような視線を継続させて小さく叫ぶ。



「おお、嫌だ!!伯爵様は、手を出す気が満々でございますね!お嬢さん、気を付けなさいよ?朴念仁と噂の伯爵も冥界男ですからね。」


「何を言うんだ、店主!ハル、余計なことに耳を貸すなよ?おい、私は紳士だ…変なことを彼女に言うな!それと人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られるからな!…外に丁度、馬がいるぞ。」


「ご冗談を!伯爵、あんなのに蹴られたら、人間界の者なら即死ですよ?あれは『馬』何てモンじゃないでしょうが!!」



え?馬じゃないの⁈



ハルは驚いてアスターの顔を見る。

するとその様子を見た店主が言った。



「おや、お嬢さん、あれが馬だと説明を受けましたね?」


「ハ、ハイ…。」


「確かに、貴族の方は馬と呼んでいる方もおりますが、誰でもあんなのに乗っているわけではありません!あれは…正直、龍の(たぐい)で、あんなものに蹴られたら冥界人でも死にます…人で言うのならば肉体でなく魂の死です!」



店主の言葉にアスターは顔を顰めると、彼を追い払うように口を挟む。



「大袈裟なんだよ!お前は…。もういい、サッサと注文を取ってくれ。」



店主にオーダーするべく、アスターがメニューを手に取って、ハルに声を掛けた。



「ハル、この店は冥界で一年中()れるナシ(無し)の実やリンゴのデザートに定評がある。さっき言ったイチジク系もいいけどな…。今の時期なら、冥界栗もあるかな?」


「えっ⁉冥界ではナシやリンゴが一年中、採れるのですか?」



ハルは少し驚いた声を出してアスターに尋ねた。



「ああ、基本的に冥界では、人の造る物はその想念の力で、年中採取できる物が多いな。自生している冥界栗など、たまに時期がある物もあるが…とはいえ、どれも人間界の物と多少風味が違う。」


「そうなんですか。」


「うむ。ゆえに、少し調理法を変えねばならない場合が多い。」



アスターの話を聞きながら、数年前に訪れる事になった冥界について、ハルは自分があまり知識が無いことに気付かされる。


必要最低限の知識や常識はしっかり身に付けさせてもらったが、自立を意識した生活をしていたため、学校とフォルテナ邸の往復がほとんどの生活だった。


だから、特に外で遊びに行くようなことも無かったし、知る機会が少なかった。

それに関して、自分自身も何処かへ連れて行って欲しいと強請(ねだ)ることも無かったのである。

自分がそのような立場に無い事をよく承知していたこともある。


結果、冥界の庶民の生活や屋敷の敷地内の外などの知識は、ハルには乏しく、最近になって、ようやくラナンクル侯爵に、連れ歩かれ始めて知ったような所が多いのだ。



「私、ここ数年冥界で暮らしていたのに、屋敷の外は、ほとんど何も知らなかったのですね。」


「それに関しては申し訳ない…私が気の利かない男だからだな。シルヴァスなら黙っていても、君を色々、連れ出したのだろう。私は…君が我が儘を言えない日常を作り出していたんだ。」


「いえ…そんな。」


「これからは、君に冥界の事を知ってもらいたいと思う。前にも言っているが…どうか、そうさせてくれ。」



ハルは首を振りながら、アスターに向かって薄く微笑んだ。



「いいえ、自立に向けて毎日、頭がいっぱいで…冥界の事を知ろうとか知りたいとか…どこかに行きたいとか…私がそう言う気持ちにならなかっただけなんです。」


「自立か…私は、とことん君を追い詰めていたな。」


「違うんです…。その、私が…多分コンプレックスの塊で…ベルセみたいに金色な髪でもないし…。こんな暗い色の髪だし。」


「コンプレックスだなんて…おかしなことを言う。黒に見えて、よく見ると濃い紫色…。光の加減で紫に見えたり黒く映ったり…とても美しい髪だ。」



すると、アスターはハルの髪を一房、大きな自分の手で(すく)い、軽く口をつけた。

ハルはボーッとそれを眺めて、少しだけ薄っすらと頬をピンク色に染める。



「初めて見た時から、変わった色だと思っていた。確かに私は、天使のような見目も麗しいと思っていたが、君に会って全てが変わった。」


「ア、アスター様?」


「私は無意識にずっと前から…金髪よりも君の髪に惹かれている…気付くと、いつも君の姿を探してしまう。君が自信を持てぬなら、何度でも言う。君は美しい…その青紫の瞳に、出来る事なら私以外を映し出せないようにしたい…。」



いたたまれず、逃げ出したい気持ちで戸惑うハルとは裏腹に、アスターは彼女を真っすぐに見詰めた。

その視線に打ち付けられたように、魅入ってしまい、身動き取れずにいたハルは、必死に目を()らそうとした。


しかし、そんなハルの手をアスターは握ってくる。

彼の手は大きく、包み込むように彼女の手を覆ってしまい、ハルはそちらの方向に眼をやろうとすると、アスターが今度はその手を取って、自分の口元に持っていった。

手の方向に視線をやっていたハルは、必然的に二人の手の方向を眼で追ってしまい、彼の顔の方に視線が戻された。


アスターはジッと彼女の眼を、己の情熱を込めた瞳で、射抜くように見て、そのまま彼女の手に唇を落した。

堪らず、ハルは『カアァァァッ!』という音が聞こえてきそうなほど、真っ赤になる。

腕を引っ込めようとするが、さして力も入れていない筈なのに、アスターの手はビクともしなかった。



「ア、アスター様!あの、手、手を…!」


「手を離してあげて下さい、伯爵様!お嬢様がこんな所で真っ赤になっていて、可哀想じゃないですか。個室とはいえ店員の前で…アンタ今さっき、自分のこと…()()って言ってましたよね?」



見かねた店主が、アスターにストップをかけた。

そして続けて小声でブツブツと言った。

伯爵には、聞こえていないように言っているつもりだろうが、丸聞こえである。

いや、わざとそう装って聞こえるようにしているのかもしれない…。



「人前で口説いて…全く冥界男は…自分もそうだからイヤなんですが、恋をすると見境が無いから(はた)から見ていてウザイんだよな…。」



ハッ!そうだった!!

ここはお店の中だったのだ…。



そして今、まさにオーダーの真っ最中である。

今更、それに気付いたハルはその事についても、二重に顔を赤らめ始めた。



「何を言う…貴様!お前のせいでハルが余計に恥ずかしがっているではないか。この、無粋な店主め。それでも客商売か⁈」


「あー、もう…面倒くさい伯爵様!早く注文して下さいよ!今日のおススメはカオナシ山産の栗で作った、グラッセたっぷりのケーキとマロンパフェ…それにいつもの奴ですよ。」



一気にメニューを垂れ流すように、まくしたてる店主の言葉を受け、アスターは黙って首を傾げる。

どうやら、何を頼むか思案する姿勢に入ったようだ。

店主が『ほっ』と、息をつく音がしたような気がする。



「それと、お嬢様…最近、新しくメニューに加えたナシとリンゴのコンポートとババロアの二重奏も人気ですよ。」



店主はハルにも声を掛けた。

アスターに向ける視線と違って、感じの良い笑顔である…。


 結局、アスター様は店の迷惑を考えずに、数分間も思案して『いつもの』と言ってパンケーキを注文し、せっかく店主が勧めてくれたので、ハルはマロングラッセが惜しげ無く入っているというケーキを頼むことに決めた。


二人は、お茶と甘未の奏でる至福の瞬間を共有し、色々な話をしながら店を出た。


その後、ハルは再びアスターに連れられてビースタに乗り、空から冥界中の国や区画について教わりながら、様々な場所の上空を飛んだ。


そろそろ日が落ち、星が出始めた空の散歩は美しく、ハルは次第に目を輝かせる。

ビースタに乗って、黄泉の国、古き時代の冥府、幽界と呼ばれるサマーランドの全ての領域に渡り、様々な衣装や時代の人々、生活様式の多様性…映画のセットのようになっているこの冥界の全ての美しい場所も少しだけ荒れた場所も…。



「何だか、おとぎ話の世界みたいだわ…。ステラが言ってた遊園地のゾーン別のアトラクションみたいね。本当に…。」



魅入られるように下の世界を眺め、ハルはうっとりとした声でそう言った。



「おとぎ話の世界だからな…。冥界は人間一人一人が描いたおとぎ話で出来た世界なんだ。魂の生活に慣れるまで、己のレベルに合わせて暮らす為のな…。」


「まあ。わかっていても…そう言われると、何だか、とてもロマンチックですね…。」


「まあ、稀に地獄のような場所に落ちる者もいるが…それは最下層で…冥王の統べる国ではない。我々は人の魂がこちらで未練を残さぬように、このおとぎ話のストーリーを完成させて、再現させてやらねばならない。」



そう説明するアスターの顔をふいにハルは盗み見た。

しかし、アスターはハルをずっと見詰めていたらしく、二人の視線は絡み合った。

そして手綱を握った手を一つに持ち替えて、器用に片手でハルの体を抱き寄せた。



「なあ、ハル…そんな仕事をしていくのが冥界神の使命だ。代替わりはあるが、人間のそれに比べて私達の時は酷く長い…一人は寂しいものだ。君も本当は同じ使命を持っているんだよ?君の神力の半分以上は、恐らく冥界寄りなのだから…それでも地上が恋しいかい?」



アスターは熱っぽい眼でハルを見て、その手を離さない。



「シルヴァスの誘惑に、君はもっと地上に行きたくなったのだろう。でもね、ハル…私ほど君を愛する者はいないよ?私と伴に冥界を…この世界を…たくさんの魂の物語を完成させていかないか?」


「アスター様…。」



ハルは、ホウッと息を呑んで、魔法を掛けられたように、彼の名前を口にした後、それ以上の言葉を出すことが出来なかった。

続けてアスターがハルに、低い甘い声で囁きかける。



「どうか、私の傍にいて欲しい。出来るなら、今すぐ君を花嫁にしたい…。このまま(さら)ってしまいたい。」



アスターの熱い瞳に仄暗(ほのぐら)さが混じる…。

ハルは彼の瞳に釘付けになった。


本当の星では無いのだろう…空には、人の思いが作り出した冥界の星が、美しく空にこぼしたダイヤモンドの破片のように輝き出して、アスターのバックを彩っている。

幻想的な世界に、ハルは酔ったように身動きできず、ただうっとりするのみになった。


アスターは、ビースタに向かって一言声を掛ける。



「ビースタ…自動運転で頼む…。」



そう呟いたアスターの両の手が手綱を話すと、ハルの体をつかんで後ろに向かせた。

彼はそのまま彼女をビースタの背に押し倒し、唇を奪う。


浮遊する心地良さか…あっという間に輝き始めた、明るくなりすぎた地上の夜では拝めない、満天の星の魅力なのか…ハルはただ、うっとりとアスターの唇が近付いて来るのを待った。


そのまま、二人は幾度もキスを繰り返し、それ以来、おしゃべりは消えた。


ビースタが自動で冥界の空を旋回しながら、しばらくして、地上に降りるとアスターが馴染みの店に連れて行き、夕食を取り終えると、二人はラナンクル侯爵邸に戻って行った。


食事中も帰りのビーストの上も、終始、必要最低限の言葉しか交わさなかったが、ハルの心は放心状態のようにフワフワとしていた。


アスターに奪われた唇が熱い…。


ハルを侯爵の元に返し、フォルテナ伯爵邸に戻るアスターは、別れの際にハルに声を掛けた。



「ハル…忘れないでくれ。私が君を一番、愛している…。君を誰よりも必要としているのは…シルヴァスじゃない!()()。」



そして、爽やかな笑顔を作ると、彼女の手に再び唇を落して…少し痛い位に長めのキスをする。



『最後の俺呼びは反則だ』と、訳の分からない理論を頭に思い浮かべながら、ハルはアスターを見送るのだった…。



「私、おかしくなっちゃったみたい…。今日のお礼も、大して言えなかったわ。」



ハルは、一人で呟いた。



 アスターが帰った後、彼女が自分の手の甲を見ると、そこにはピンクの花びらのような、唇の後がついていた…。

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