47.侯爵は距離を詰める
侯爵の涙ながらの説得は、ハルの心を大いに動かし、そして感動させていた…。
しかし、それでもハルは初対面で侯爵が放った衝撃の言葉を水に流すことが出来なかった。
それ程までに、侯爵の初対面の登場は、彼女に深いトラウマを残す衝撃だったのだ…。
結局、彼女は正式に侯爵家の孫娘となることについて、首を縦に振らなかった。
だが侯爵の方も、それは想定内。
それでダメなら、次の案を実行するのみだ。
実のところ侯爵は、最初から彼女を正式に引き取ることが成功するとは思っていなかった。
元々、『すぐにラナンクル邸に引き取ることは無理でも…少しずつ彼女を我が家に慣らして、足止めをして行く所から始めよう。』と考えていたのだ。
正式に孫娘として戻ってきて欲しいと言うのは、万が一ハルリンドが首を縦に振ってくれれば、ラッキーだと思い、言ってみただけなのである。
物事はそんなに単純ではないし、本来侯爵も長期の持久戦を得意とするタイプだ。
もっとも、妻の死で精神状態が尋常でなかったこともあり、頭に血が上っていた為、ラズベルの時は失敗したが…。
ハルについては、まだ自分が平常心である自覚もあるし、色々と状況も違っている。
最悪の場合はフォルテナ伯爵が冥界に攫うと言っているのだ。
それだけでも、ラズベルの時より心強い。
そう考えるとラズベルに懸想していたあのタナティスとかいう子爵家の長男は、フォルテナ伯爵に比べて、随分、小さい男である。
好きな女性が人間界に逃げたというのに、居場所まで知っていて、覗くだけとか…だらしのない屑だ。
冥界神としての能力の欠如がうかがい知れる…。
そう思いながら、ラナンクル侯爵はハルへの誘い文句を変えて、もう一度、彼女に訴えかけた。
「それでは、仕方ないな…君に孫娘として正式に家に戻ってもらうことは諦めるとしよう。ラズベルの望みでもあると思ったのに残念だ。」
ハルは申し訳なさそうに、侯爵を覗き見たが、彼女が『やはり』と口を開くことは無かった。
侯爵は少し期待したが、すぐに次の言葉を続け始めた。
こちらが本来、持ちかける筈だったことなのだ。
「実を言うと、この期に及んで本当に言い辛いのだが…君にお願いがあるんだ。聞いてくれるかい?」
「私に『お願い』ですか?」
ハルはきょとんとして、首を傾げた。
「ああ。僕は長年、引き籠っていてだろう?まだ、体力や神力が万全ではないんだ…。だが、これからはしっかりとラナンクル領を治めたいと思っている。」
「そうですか。それは、侯爵家の使用人や領地の皆さんも喜ばれますね!」
「ならば余計に、冥王に領土を返却したくはない。だが、今の僕一人では、浄化魔法陣を発動させるのが辛いんだ。そこで君に…。」
「ハイ…?」
ハルは今度は反対方向に、首を傾げて見せる。
「君に、ラナンクル領の浄化を手伝ってもらえたら助かる。定期的にうちの領土に訪れてはくれまいか?ラズベルだって、その為に君に色々、教えていた筈だ。」
「えっ…いや、私がですか⁈えっと、そんな…。」
「娘はラナンクル侯爵家のことをいつも考えてくれていたからな。君の父親ことも、今はなぜ認めてやれなかったのかと後悔しているんだ。そうすれば、君の成長を見ることも出来たのに!」
「侯爵様…。」
「頼む…僕だけでは無理だ。他の身内に頼もうにも、君の使う能力は直系の者にしか受け継がれない。君が現人神として地上に戻った後も、統括センターを通じて、仕事として正式に依頼してもいい…。」
侯爵は、そう言いながら、プロポーズでもする時のように、床に片膝をつき、ハルの顔を上目遣いで弱々しく見上げた。
ハルは一人で領地を治める侯爵が、可哀想に思えてきて、快く頷くことにした。
「わかりました。私でお手伝いできることなら、是非やらせてもらいます。必要な時には呼んで下さい。冥界にいる間ですと、学校の兼ね合いを見ながらになりますが…いいですか?」
「本当かい⁉嬉しいよ!それなら大丈夫、君の学校の予定を聞いて、統括センターを通してアルバイトとしてくるといい…僕が手を回すよ!」
それを聞いて、ハルはやや恐縮した。
「いえ、アルバイトとしてではなく…私は別に、お金を払っていただかなくても…。」
ハルはそう言って、侯爵の申し出を断ろうと思った。元より母の意向ならば、お金をもらって行うことではないと思ったからだ。
しかし、そこはラナンクル侯爵に押し切られる形になった。
「いやいや、それでは困る!わざわざ君に来てもらうのだ。アルバイト代くらい払うのが筋だろう?そうすれば君は他のアルバイトまでしないで済むと思うし…たくさん手助けしてもらえれば、僕も助かる…多分、数十年は体が本調子じゃないからね。」
侯爵の主張に、
『数十年も回復にかかるのか⁉』
と、ハルは驚いて目を見開く。
横で、アスターが呆れ顔をハルから背けながら『よく言うな』と心の中で悪態をついた。
数十年どころか、ハルがいなくても侯爵ならすぐに、昔通り機能できるであろう…その気にさえなれば。
それに『たくさん手助け』だと?
多分アルバイトの体を取り、ハルを逃がさないつもりだろう…強引な爺様だ。
これは、こちらの約束も反故にされないように気を付けねばな…。
自分の役目が済んだら、ラナンクル侯爵は『やはり孫娘に結婚はまだ早い』などと、平気で言い出しそうだと、アスターは警戒の目で侯爵を見た。
けれど、アスターの思いとは裏腹に、ハルは侯爵に素直に従い続けている。
いつまでも肩を落としながら、か弱い老人のように話し、下手に出るラナンクル侯爵の姿を完全に信じているのだろう…。
「わかりましたわ。侯爵様の良いようにします。でもそんなに、たくさんのアルバイト料は、払ってもらわないでも結構ですから…。」
侯爵との会話の中でハルは、あくまでお金をもらうことが不本意であることを強調した。
「ああ、君こそ気にするな。あまり気にされると、孫娘にお小遣いをやりたいのに、いらないと言われてショックを受けるお爺ちゃんと同じくらい…ショックだ。」
少しユーモラスにわざとらしく肩をすくめてラナンクル侯爵が困った顔をして、ハルを見ると彼女も『まあ!』と大袈裟に驚いたふりをして、クスクスと笑った。
初めて身近でハルの笑う姿を見ることのできた侯爵は、たちまち眼を大きくして、頬を薄っすらピンク色に染めた。
カワイイ!僕の孫娘…ディアナに笑顔がそっくりで、可愛すぎる!!
(侯爵・心の声)
アスターは『孫に萌える爺様』の姿を横目で確認すると、気持ち悪いな…と心の中で呟いて、同時に『ケッ!』と思っていた。
ハルの笑顔に調子づいたラナンクル侯爵は、大きな図体で小動物のように可愛く、眼をウルウルさせながら、もう一つの『お願い』を彼女に提示した。
「それと、個人的に私は君にお願いがあるんだが…叶えてはくれるだろうか?」
「ハイ、何でしょう?」
笑ったせいか、ハルの雰囲気が少し柔らかくなったように感じられる。
この調子だと言うように、ラナンクル侯爵は言葉を重ねた。
「老人のささやかな願いだと思い聞いてほしい。是非、私のことを…その『侯爵』ではなくて、『お爺様』と呼んではくれないだろうか?」
「えっ?」
「正式にラナンクル侯爵家に戻らなくても、私は君の祖父だと認めてもらいたいんだ。それに、伯爵は君の事をハルと呼んでいるようだが、その…私もできれば…君をそう呼びたい。」
本当にささやかな侯爵のお願いは意外だったので、ハルは少し固まったが、次の瞬間、顔を赤くして満面の笑顔を作ると、彼女は応じた。
「私が侯爵様を『お爺様』と呼んでいいのですか?勿論…すごく嬉しいです。だって、私はずっと、自分が一人だと思っていたんですもの。お爺様ができるなんて、思いも寄りませんでしたから…。」
「それは、本当かい?」
「ハルというのは人間界の名前で、冥界ではアスター様に正式名をハルリンドとつけて貰いました。どちらでも…好きに呼んでもらえればと思います。」
「それでは、僕もアスター君と同じように、ハルと呼ぶよ。君の両親が付けてくれた名前は、そちらなのだろう?ハルリンドは冥界で君を他人に紹介する時に使おう。」
侯爵にアスター君と呼ばれたアステリオス本人は、事の成り行きを見守りながら、皮膚に鳥肌を作って聞いていた。
『急にハルの前で、馴れ馴れしく、呼び始めたな…爺め。』
アスターは腹の中で再び悪態をつく。
ハルは一層、笑顔を侯爵に向けて、照れたように…
「嬉しいです、お爺様!」
と、元気よく侯爵を呼んだ。
すると、みるみる侯爵の眼が輝いて、破顔する。
「ハル!ありがとう。」
そして、どさくさに紛れてハルの体に侯爵は抱きついたのだった。
アスターは苦い顔をしたが、身内との感動シーンを邪魔することはできず、仕方なく明後日の方向を見ながら容認した。
ハルに『お爺様』と呼ばれたラナンクル侯爵は…。
『カワイイ!僕の孫娘って超カワイイ!!最高!もう目に入れても痛くない…。』
と、既にメロメロになっていた。
妻子を失った冥界ジイジは、人間の爺よりも深刻だ…。
ここにきて、ハルにとって、アスターによく似た冥界神が、もう一人、存在することになった。
これぞ、上級冥界貴族男のサガとも言えるのだが…。
そして、たっぷりハルの体を抱きしめた侯爵は、思い出したように自分のポケットに手を突っ込んで、小さな小箱を取り出した。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう!僕のハル…これはプレゼントだよ。」
アスターは『誰が僕のハルだ!』と身内の男にさえ嫉妬して、心の中で突っ込んでいたが、侯爵がそう言って、取り出した箱には、美しい青紫色の大きな宝石のついた指輪が入っていた。
ハルはしげしげとそれを眺め、侯爵に何かを言おうとしたが、その前に侯爵の方が先に口を開いた。
「黙って受け取ってくれないか?これは僕が初めて妻に贈った指輪なんだ。彼女といつも一緒にいたいという思いを込めて、僕の瞳の色の石を入れて作ったんだが、妻が他界した後はラズベルが身に付けていた。」
「お婆様と…お母様が?」
「ラズベルは、冥界を出て行く際に、全て置いて行ってしまったが…それまでは、身に付けてくれていた。今度は君にもらってほしい。」
「お爺様…。」
こんな高価な物は…と、断ろうと思ったハルだったが、祖母も母も身に付けた物だと聞き、ハルは何も言えなくなった。
なぜなら、ハルは母の形見を何も持っていなかったからだ。
侯爵はそんなハルの表情をつぶさに観察しながら言葉を続けた。
「石は大きいが、日常の生活に極力、邪魔にならないデザインにしてある。あまり出っ張らず埋め込んであるだろう?台座も装飾を控え、シンプルで引っ掛からないようにしてある。」
ハルは、箱の中の指輪をまじまじと見詰めた。
プラチナであろう金属には少し捻ったような角度のついたアンティーク調だが、リング全体が太めで石は出っ張っていないので、侯爵の説明通り、スッキリとしているように感じられた。
だが、その石は極上の物であると、一目でわかるほど美しく輝いている。
そして何よりも、石の高価さや指輪のデザインではなく、祖母や母が身に付けていたと聞くと…ハルは無性にその指輪を自分も身に付けたいと思ってしまうのだ…。
「本当ですね。でも、シンプルですが、計算されたデザインが美しいです。」
「是非、将来、君に恋人が現れるまでは、左手の薬指にしておいてくれないか?仮に結婚相手が決まっても、できれば右手にしてもらいたいと思っているのだが…ね。」
なぜ今、将来、現れるか現れないかわからないような、結婚相手の話が出てくるのかは謎だったが、結局、『母の形見』という誘惑に負けて、侯爵の温かい気持ちを受け取ることにしたハルは、黙って頷き、お礼の言葉を述べた。
やはり、母の物を一つくらい持っていたかった…。
「ありがとうございます、お爺様。こんな大事な物を頂いてしまって…本当は遠慮すべきなんでしょうけど、私は母の形見を持っていないので嬉しいです。是非、受け取らせて下さい。」
ハルの言葉を聞いて、胸をいっぱいにした侯爵が再び彼女に抱きついた…。
そんな二人の姿を見ながらいい加減にしろと、面白くないアスターは思う。
何が形見だ!!
わざわざ、指輪を選んでくるあたりが憎たらしい!
親の形見とか言われると、ハルの指からあの指輪を外させることが、一苦労ではないか!
冥界神であるならば、妻には自分の選んだものを頭のてっぺんから、足のつま先まで身に付けさせたいと思うのが普通である。
自分だって恐らく、そうな癖に…わかっていてわざわざアクセサリーを持ってきたのだろう⁈と、アスターはラナンクル侯爵に殺意を覚えた。
大体、左手の薬指に身内からの指輪を付けるのはおかしい…ハルが世間知らずなのを良い事に完全に男除けである。
侯爵はハルを抱きしめながら、彼女の頭越しにアスターの方をチラリと見て、ニヤリと微笑んだ。
どうやら、侯爵殿は巣穴から出て来て、全面復活らしいな…と、アスターも侯爵の笑顔に黒い笑顔を返す。
そうして、二人が睨み(?)あっている時だった。
部屋の扉が勢いをつけて、ノックも無しに突然、開いたのだ!
「バンッ!!」
と…。
ドアを開け放った犯人を一同、驚きを持って見詰めた。
飛び込んできたのは、先程、タナティスを引き連れて行ったシルヴァスだったのだ。
シルヴァスは顔に青筋を浮かべて、憤慨しながら言い放つ!
「僕に罪人、押し付けておいて、一体どんだけ待たせるつもりさ⁉どこにいるのか聞いても、執事は教えてくれないし…ハルもアスターも来客中だって?少しくらい顔を出して僕に『ちょっと待ってね』くらいの声を掛けてもいいよね⁈」
ハルが先程、窓から見たのはやはりシルヴァスだったらしい。
あれから、別室でずっと待たされていたのだろう。
彼だって忙しいのは、知っている。
多分これから、カヤノちゃんの所にも寄るつもりなのだろう…立腹するシルヴァスにハルは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。




