26.伯爵の決断
ベルセの招待でトゥオネル子爵邸を訪れたハルとアスター。
その帰り道、自分が後見を引き受けたハルリンドへの恋心を自覚したアスターだったが…。
屋敷についてからは、さあ、大変!
自覚後、みるみる蒼白になったアスターを心配するハルに『馬車に酔っただけだから少し休む』と言い残し、アスターは帰宅早々、自室へと引き上げた。
「お帰りなさいませ、アスター様。ご気分が優れないのですか?馬車に酔われるなんて珍しいですね。あの、やんちゃ坊主の頃から馬を乗り回して大暴れされていたあなたが…。」
蒼い顔で口元を抑える主人を目の前にして、後から追って来た執事のホルドが不審そうな表情で桶を手にして『こちらへどうぞ』とアスターの顔の前に持って来る。
「いらん!これは何だ?私は吐かぬわ!!顔の前からこれをどけろ!酔っては、い・な・い!」
アスターはホルドが差し出した桶を払いのけた。
「は?では、なぜそんな青い顔をされておいでで?それにお帰り早々、ハル様にご自分が酔ったと仰っておられたではないですか?」
引き続き不可解な面持ちで執事がアスターに問う。
「ば、馬鹿、それは口実だ。俺が酔う訳ないだろう?自慢じゃないが体だけは頑丈にできている!三半規管だって例外ではない!」
「では、どうして酔ったなどと偽られたのですか?しかもそんなに動揺されて…。久しぶりに一人称も『俺』になっていますよ。」
アスターとは逆に冷静な執事が淡々と話を進めていく。
「聞いてくれ、ホルド!」
「はい。」
「俺は!!」
「はい?」
「俺は…ハルリンドが『好き』なんだ!!」
「はい。」
「・・・・・。」
執事の素っ気ない返答に毒気を抜かれたように興奮して話していたアスターが静まる。
そして、気を取り直してアスターはもう一度執事にゆゆしき事態を知らせようと試みた。
「だからだな、ホルド。私は…ハルを好きになってしまったんだ。」
「そうでしょうね?」
何を今更というように執事は答えた。
「え⁈いや、だから…ホルド、私が好きなのは普通の『好き』ではなくてだな…女性として、私は彼女が好きなんだ!!恋情だ恋情!わかるか?『アイ・ニード・ユー&アイ・ラブ・ユ』ーの『好き』だ!」
「ええ、わかりますよ?」
「おい。だったら、なぜそんなにお前は落ち着いているんだ?」
「え?だって、ハル様は素敵なレディになられましたからね。」
だから勿論、ホルドはステラ同様にとっくにアスターがハルに心奪われているのを知っていた。
いや、使用人達から見れば、ハル・ウォッチを趣味にしてることからしてそうではないかと余程、トロくなければ気付く。
『知らぬは本人ばかりなり…』だ。
ただこちらもステラ同様、今更、どう騒いでも事態は変わらないと考えていた。
ハルを引き取る際に交わした契約は、その日のうちしか変更が適用されないのだ。
そうコロコロと内容変更が出来たら、契約にならないから当然だが、契約違反に対する罰則もかなり重い。
契約を破った場合、フォルテナ伯爵だったら、恐らく、爵位剥奪と領地没収になるだろう。
まあ、さすがにお家取り壊しにはならないだろうから、現在、出て行かれた弟君が戻られて名目だけでも『伯爵』になられれば、ホルドをはじめとする使用人達の待遇に変わりはあまり無さそうだ。
しかし、我々とて、アスター様に出て行かれるのは辛い。
ホルドやステラにしたら、小さい頃から面倒を看てきた主人であり、当主として育てた方なのだ。
弟君が嫌いだとかそういうことは全くないが、可愛がって育て、一人前の当主にし、事実、大変立派な『主』に成長されたアスター様が色恋沙汰で路頭に迷うなど、あってはならないことだと思うのだ。
だから、気付いてはいたが、ホルドは見て見ぬふりをしていた。
このままハルが、お嫁に行ってしまっても、アスターが気付かないなら放っておこうとしていた。
ハルに幸せになって欲しい気持ちはホルドだって持っている。
アスターには、少し可哀想だが、失恋した位で死ぬことは無い…その痛手で婚期は少々遅れるかもしれないが、それは己の招いたことなのだから仕方がない。
この事は話し合ったわけではないが、古い使用人達の間では暗黙の了解だ。
だが、それはアスターが自分の気持ちに気付かない場合である…。
悲しいかな、主人は今頃になって自分の恋心を自覚してしまった。
そうなれば、今までのように見て見ぬふりができないような現状だ。
ホルドはハルを好ましく思っていて、既に情も移っているが、ステラに比べれば同じ男同士であることから、ずっとアスターの立場で物事を考える。
アスターの幸せとこの主人がどうしたいかという事を第一に行動するのがホルドなのだ。
動揺するアスターに溜息をつきながら、執事は仕方ないという気持ちの滲んだ声をかけた。
「それで、アスター坊ちゃんはどうされたいんで?」
ホルドが久しぶりに呼んだ呼び名を耳にして、アスターは彼の顔をジッと見つめた。
その表情は、そう呼ばれていた頃のように途方に暮れた子供のような頼りないものである。
『自分は一体、どうすれば良いのか?』と、そう執事に問いかけているような顔を目の当たりにしてホルドは苦笑いを浮かべた。
全くもう、どうしてこうも、うちの坊ちゃんは優秀な癖に、色恋ごとには頼りないのか…。
執事はアスターがどうすれば一番良いのかを考え、頭を働かせたが、答えは結局、本人にしか出せないという当然の結論以外に至らなかった。
結局はアスターのしたいようにしてやろうと思ったのだ。
恋愛感情は割り切れるモノではない。
自覚が無ければ、まだ良かったが…。
「タイムリミット、ギリギリで自覚する当たり、勘が良いと言うかなんと言うか…色々な意味で流石ですね。」
ホルドはそう言いながら覚悟を決めた。
アスターの性格や行動パターンは自分が一番よく知っている…。
仮に契約違反を犯して伯爵家にいられなくなったとしても、ハル同様、アスターは現人神養成学校の卒業生だ。
生粋の冥界神とは違い、現世で暮らして『現人神』として仕事を請け負うこともできる。
冥界の学園ではなく、アスターはそちらの学校を選択し、冥界貴族として足りない授業分はハルにしていたように家庭教師で補っていた。
ハルリンドの後見人として、そういった境遇の共通点も冥界の法律や現人神のセンターから『適任』と認められる大きな理由でもあったのだ。
そんな風にホルドが、頭を働かせて色々な思いを抱いていると、アスターが予想通りに口を開いた。
「ホルド…私は、どうすればいいのだ。このままではハルリンドを失ってしまう!」
蒼い顔をして、切実に思いを訴えてくる主に、執事は同じように淡々と言葉を返す。
「仕方ないですよ。ハル様の心をつかまねばどうにもなりませんし…もう、あまりお時間がありません。契約上の問題を考えますと、ここはあなたが諦めて今まで通り、兄のように彼女を伯爵家から送り出して差し上げるのが一番かと思われますが?」
執事はとりあえず一般的にステラが考えるような『一番の選択』を申し出てみた。
「そうか…、そうだな。まずは、ハルの心をつかまねばならないな!」
だが、アスターが独り言をブツブツ言い出したのを聞いて、執事は目を宙に泳がせた。
おーい、坊ちゃまぁ、私の話聞いてましたか?
会話の後半が大事な所だったんですけど…私言いましたよね?
ハル様を『諦めて伯爵家から送り出せ!』と…。
「いえ、アスター様…今更、ハル様の心をつかまれても手遅れというか、その、ここは潔く身を引いてですね…。」
主人は自分の感情の正体を知り、驚きのあまり冷静では無いのかもしれないと、ホルドはもう一度、言い直すことを試みた。
「馬鹿を言うな!フォルテナ家の当主は代々、どんなに不利な戦局にでも諦めず、戦い抜いて勝利を収めてきた。私も例外ではない!!」
「あ、いや、そりゃそうですがね…坊ちゃん。それとこれとは事態が違うといいますか…。坊ちゃんのしようとしていることは、家の為でも冥界の為でも、冥王の為でもございません。」
「どう違う?」
「だって、あなた個人の為でしょ?そのために、坊ちゃんは契約を破り、フォルテナ伯爵家の汚点を作りかねない危ない橋を渡ろうとされています。歴代当主の戦いと色恋沙汰では違う!」
毅然と意見するホルドを前に、沈黙して少々考えるアスターだったが、彼はまたすぐに思い直す。
「そうかもしれんが、私は契約違反はしない!ハルが他の男が好きなら潔く身を引く。フォルテナ伯爵家の汚点にはならないだろ?だが、何もせず指をくわえて好きだと認識した女を他の男に取られるのは嫌だ!」
「アスター様…。」
「できる限り邪魔して、可能性があるならそれにかけたい。勝機が少なくても諦めないのは歴代当主と同じだろ?」
「・・・・・。」
「どうせ失恋してしまうと諦めるより、もしかしたら手に入れられるかもしれないと考えて努力した方が結果が同じになっても後悔は残らない。それに可能性は0ではない。運よく転べば諦めないで良かったと思う筈だ。」
アスターの気持ちを聞いて、ホルドは『ああやはり…』と思った。
やはり、この方も先代当主の息子なのだ…この親にしてこの子あり。
一応、常識を言って止めてはみたものの、こうなるとは考えていたのだ…執事は主の性格をよく理解していたのだから。
それでも、一応は言っておかねばならなかった。
「そうですか…、アスター様がそこまでおっしゃるならば、このホルド、出来る限りの協力をさせて頂かなければなりませんね。おや?もう、ご気分が優れないのは治られたのですか?」
「そうだな…先程は自分の思いも寄らない感情に驚愕して慌てふためいただけだ。お前にこうして、宣言したおかげで落ち着いた。心が決まればもう動揺したりしないさ。やることは決まっているからな…ベストを尽くす。」
何と切りかえの早い事か!
我が主人ながら、その単細胞っぷり…いえ、前向きな姿勢に感動すら覚えます。
ビバ!ポジティブ・シンキング。。。(ホルド・心の声)
「では、まず、後見人としての権利を剥奪された後の、冥界と現人神の行政から制限がかかった2から3年間についての対策を練りましょうか?それまでの間は…。」
「ハルが18歳になるまで、我が屋敷にいる間は押しまくってやろう。今までのように、もう兄だなんて思わせない…立場上、情事に至らない線までしか押せないが…私の本気を見せてやる。」
そういうと、アスターは冥界神らしい黒い笑みを浮かべた。
そのドス黒いオーラには、普段の強面朴念仁とも、人間界で見せた爽やか青年とも違う彼の本性が垣間見えていた。
普段は隠している本性…。
それは往々にして、神様達が外に出さないものである。
大体、神様だって、仏様だって、悪魔だって、その姿をすぐに表したりしないモノだ。
基本的に他のモノに姿を変えて登場することがほとんどである。
悪魔だと思っていたら仏が姿を変えて人間を試したり、神が人間に姿を変えて人を救ったり、悪魔が天使のフリをして人間を堕落させたり…。
我々は人間と違って、その本性を常に隠す。
ハル様もクールな見た目とは裏腹に実に慈悲深い女神である。
アスター様から伺っていた、変身されたお姿が本性だとされると、あのしっとりした大人しいハル様の一面は激しい戦闘をも厭わず、傷つき、彷徨う死霊を慰め、鎮めるというものなのだろう。
そして外側に限らず、我々の内面も同じように、恋情が絡むと神々は(特にその傾向は男神に強く現れるが)本性が現れやすく、普段温和な神が嫉妬深かったり、淡白な気性だと思われていた者が情熱的であったり、サッパリした仕事ぶりな者が執念深く相手を追い詰めたりするのだ。
慈悲深い神が実は性癖的にS気質が多いと言うのは、そういう事が関係しているのかもしれない…。
「ああ、アスター様…。ついにハル様をロックオンしてしまいましたね。」
複雑な感情が吹き荒れるホルドは、全面協力を誓うアスターの為に、成人後のハルを送り出した後、他の男神が近づかないようにするために、アスターの仕業でなく他の者の仕業にして撃退する方法を考えていた。
アスターの代わりに誰かにその役を代行してもらっても構わないが、主人の差し金だと行政機関にバレないようなフォルテナ伯爵家とは関わりのない者を探さねばならない。
そんなことができるだろうか。
神々の監査は思いの他、厳しい。
しかし万が一、火の粉がアスターに降りかかろうものならば、自分が主人を思って勝手にやったことだと主張する覚悟でいる。
こうして、アスターとホルドによる『ハルリンドの心を獲得する計画』は実行されようとしていた…。
「ホルド。」
「いかがされました?アスター様。」
「さっきは黙っていたが…な。」
「はい?」
「坊ちゃん呼びは止めろ!」




