4.卒業
◇
人間と精霊は違う。それは、保護された精霊たちが真っ先に学ぶことになる現実だった。
人間は人間の世界で、精霊は精霊の世界で生きる事こそが本来の姿であるが、かつて精霊の中に人間と共に暮らすことを選んだものが現れ、人間もまた共に暮らす精霊を求めた。二つの世界は女神の見守りの中で交差し、やがては暴走し、月の大地の精霊の世界は女神の尊厳ごと壊れかけてしまった。
時代が変わりつつある現代において、自然で生きていくべき精霊は出来る限り精霊の世界へ帰ってもらわねばならない。大義の中で、そのようにしてもらうために、私たちは保護精霊を幼い頃から教育した。
けれど、その狙いはうまく定まっているのだろうか。今のところ、人間の世界で生きることを求めて森に戻りたがらなかった精霊や、こちらに戻ってきてしまった精霊の話は聞いたことがない。しかし、本当に彼らは帰りたいのか。自然の中で生きていくのは苦痛ではないのか。怖くはないのか。
ナナもまた自分が森へ返されることを聞かされている。受け入れていると教育係は言っていたが、本当にそうなのだろうか。森に返るということがどういう事なのかを分かっているのか。辛くはないのか。様々なことが私は気になっていた。
聞いて確認したところでどうなるだろう。私には権限がない。ナナが本当は嫌がっていると主張したところで、計画をストップできるとは限らない。しかし、もしかしたら、という場合もある。ナナが受け入れられるまで待とうということになるかもしれない。
――ひょっとすると、戻さないという可能性も。
ふとそんなことを想像していることに気づいて、私はいったん考えるのをやめた。とにかく、私はナナの想いが知りたくて、いつもとは違う行動に出た。
「ちょっといいか、ナナ」
中庭で小さな花が咲いているのを見つめていたナナに自分から話しかけに行ったのだ。
驚いたようにナナは私を見つめてきた。その表情を目にして、私は気づいた。そういえば、彼女が羽化して以来、私はいつも話しかけられるのをずっと待っていた。精霊とは距離感を保つようにと指示されていたこともあったが、それだけではない。私はきっと無意識に、ナナと関わることを恐れていたのだろう。
「ハカセ、どうしたんですか?」
「聞きたいことがあるんだ」
「珍しいですね、ハカセがあたしに質問なんて」
「いいか?」
「どうぞ」
にっこりと笑う彼女を前に、少しだけ躊躇いが生まれる。しかし、勇気を出して、私はその質問を口にした。
「ナナ、君はこの場所が好き?」
「はい」
少しだけ不思議そうな表情で答え、そしてすぐに満面の笑みを浮かべた。
「大好きです。とっても」
「私と一緒に話せるのは楽しい?」
「もちろん! ハカセと毎日会えてあたしは幸せです」
素直な言葉でそう言われ、私の方がくすぐったさを感じてしまう。嘘偽りの感じられないその言葉はあまりにも甘く、そして、今は苦しかった。私は自分の心を握り潰すような思いで、その先の質問も口にした。
「“卒業”するのは、寂しい?」
「……はい、寂しいです」
表情を変え、ナナは私を見上げてきた。
「寂しいに決まっています」
そっと私の手を握り締め、こちらを見つめてくる彼女の表情は、いつもの明るい笑みとは違う、もっと甘えの気持ちが宿ったような、蛹化前によく見せてくれたような青虫らしいものに変わっていた。
「もうすぐあたしは、ハカセと会えなくなって、こうして触れ合うことも、お話をすることも出来なくなる。おはよう、そして、さようなら。そんな挨拶も出来なくなってしまうんだよね。それがとても、寂しいです。どうして、どうして、あたしは人間じゃないんだろう。どうして、野生の胡蝶なのだろうって思ったこともあります。あったんです。でも、ハカセ、あたしはね、あたしを森にきちんと返すことが、ハカセたちの評価に繋がるってことも、ちゃんと分かっているんです」
大きな瞳でじっと見つめてくるその顔は、目を見張るほど美しく、そして大人びていた。ナナは、こんなに大人だっただろうか。いや、そんなはずはない。私の知っているナナは、もっと幼くて、無邪気で、森に返していいのか不安になるほど頼りなかった。そうだったはずなのに。
ぎゅっと私の手を握り締めて、ナナは強く主張する。
「あたし、ハカセのことが大好きです。直向きにあたし達に向き合ってくれるあなたに、ずっとずっと憧れてきました。きっとこれが恋なんだわ。そう思ったことだってあったほどです。おかしいかもしれないけれど。あたしは胡蝶だし、ハカセは人間だし、女性同士だし。でもね、ハカセ、あたし本当に好きなんです。大好きで、大好きで、離れたくなくて……でも、それじゃ駄目なんだって分かっているの」
大きな目が潤み、涙が零れていく。あまり見ることのないナナの涙に、私はただ狼狽えることしか出来なかった。
「ハカセ、あたし、ハカセには本物の博士になって欲しかったの。あたしがここにいる間は間に合わなくても、いつか本物の博士として、人間と胡蝶の架け橋になってもらいたいの。その為にあたしに出来ることは何だろうって考えたときに、答えはすぐに見つかったんです。やっぱりあたしは森に帰らなきゃいけないんだって」
その決意は私が圧倒されるほどに固く、想像すらしていなかったほどにはっきりとしたものだった。子猫がすり寄るように、ナナは私の胸に縋りついてくる。その動作だけはいつものナナと変わらなかった。
「卒業したら、あたしは森に戻って仲間たちにハカセたちの事を伝えます。ここで学んだ人間の世界のことや人間たちの姿の事を色々伝えれば、きっと悪い人間たちに捕まっちゃう子たちも減るし、もしかしたらハカセたちの研究に協力する機会が出来るかもしれないでしょう?」
「ナナ……」
その名を呟く私の声が震えていた。
「ねえ、ハカセ、昔はあたし達、もっとしっかりしていたんですよね。人間に守られたり、搾取されたりするような弱い存在じゃなかった。胡蝶も月の女神さまのお膝下で自分たちの国を築いて、月の国の人間たちと交流していた時代もあったかもしれないって、センセイがいつか言っていました。その時代がまた来るのはずっとずっと先かもしれない。ひとりひとりが何もしないままだと永遠に来ないかもしれない。だから、あたしはあたしなりにしっかりしなきゃいけないの」
「ナナ、君はいつの間に――」
いつの間に、こんなに成長していたのだろう。明るく笑って、無邪気にお話をして、それだけだと思っていた。それだけだと。笑顔の下でこんなにも色々なことを考えていたなんて、どうして私は気づかなかったのだろう。私は、どうしてナナをもっと幼い存在だと思い込んでいたのだろう。
「ハカセみたいな人が増えたら、きっとあたしの望む時代も早く来るかも。でも、そのためには、ハカセが認められないといけないの。ね、そうでしょう? ハカセはここで、あたしは森で、人間と胡蝶がお互いを正しく知れるようにならないと。だから……だから、あたし、森に帰りたい。ここを卒業するのはとても寂しいけれど、森で待っている仲間たちに会いたいの。会って、ハカセたちのお話を広めたいの」
涙と共にナナはその想いを流し出す。ずっと傍に居ながら私が微塵も気づかなかった感情。気づこうともしなかった意志を、静かに受け取ってそのまま放心していた。
私は何を期待していたのだろう。ナナに質問したとき、どんな答え、どんな反応を期待していたのだろうか。その答えに近いものを思い知らされ、気づけば私の頬に涙が伝っていた。
今こそ、認めなくては。
私は、この私の不安は、恐れは、寂しさによるものだった。いつの間にかナナに独占欲を抱き、愛着を抱き、別れることへの辛さを募らせ、あろうことかそれに違う理由を見出そうとしていたのだ。
別れたくないのは、まだ別れてはいけない理由があるからだと、そう信じたがっていた。その場しのぎの理由を探し、苦痛を伴う現実から今だけは目を逸らせる方法はないかと必死に探そうとしていた。
そこに冷静な分析などなかった。私は最初から、この子と結んだ絆によって生まれた感情に支配されていたのだ。
気づいてしまえば、認めてしまえば、後は簡単だった。ナナの前であるにも関わらず、私は子どものように泣いてしまっていた。感情が溢れだして、止まらない。まさに湧き水のようだった。
「ハカセ、大丈夫ですよ」
明るい口調でナナは私に囁いてきた。
「いまはお別れして寂しくても、きっとまたいつか会えます。会えるような世界を一緒に守っていきましょうよ。あたしと、あなたで」
「うん……そうしよう……そうしよう」
ナナの決意は揺らぎなく、その目には希望が宿っている。初めてはっきりとこちらに向けられる真っすぐな愛を受け止め、何度も頷くことしか私にはできなかった。
これではっきりとした。私のしたいこと。私のやるべきこと。どうありたいのか。どうあるべきなのか。自分で自分の背中をずっと押せなかった私の手を、ナナは引っ張ってくれたのだ。私が思っている以上に、ナナは賢く、大人だった。それが分かっただけでも、私の決意は定まっていく。
もう迷うことはない。後は覚悟を決めるだけだ。他ならぬ、ナナの望みとあれば。
◇
一日一日を噛みしめるように過ごし、それぞれを惜しみながら過ごしているうちに、その日はとうとうやってきてしまった。
ナナの想いを確かめられてからこっち、私は後悔のないように過ごせるよう努めてきた。リーダーの助言のように、考える事だけはやめずにいたが、結局、ナナを森に返すことへの異議を正式に申し立てることなくその日を迎えることとなった。
だが、いざその時が迫って来てみれば、やはり私は不安を感じた。時間を巻き戻せたらどんなにいいかと願い、そしてそれではいけないと何度も思い直した。ナナもまたその表情に不安のようなものが浮かんでいた。だが、彼女は一切、その感情を言葉にすることはなかった。
ナナを連れてチームメンバー全員で精霊の森へと向かう間、私は感情を抑えるので精一杯だった。胡蝶の故郷は森のあちらこちらにあるというが、ナナを託すと決めている場所は月の女神が囲われる城のすぐ近くだった。施設からはやや遠く、そうそう気軽に行ける場所でもない。ましてや、今後、誰かの保護に携わるとなれば、ナナの様子を見に行くことは困難になるだろう。意識すればするほどそれは寂しく、心苦しい事実だった。
しかし、ナナは絶望していない。希望を胸に抱き、人間の世界で育った大人の胡蝶として新しい暮らしをすることに対して前向きに構えている。そんな彼女の決意を称えるならば、いつまでも暗い顔をしてはいられなかった。
それに、ナナはやはり野生の胡蝶だった。メンバーと共に精霊の森へと入ると、その表情からは不安の色がすっかりと消えていった。森の空気を全身で吸い込み、目に映るさまざまな緑の色合いや、時折、虫などに混ざって飛んでいる小さな精霊たちを見つけては、嬉しそうな表情を見せていた。
柔らかな大地が、澄んだ空気が、生き物の香りが、ナナの帰りを歓迎している。目を輝かせながら本来の故郷を見渡すナナは、施設の中では見たこともないほど輝きを取り戻していた。これが、野生の胡蝶の本来の姿なのだろう。
そうして歩く事しばらく、歴代の保護胡蝶と人間とが別れを告げたその場所に、私たちはたどり着いた。このすぐ近くに、胡蝶の故郷と呼ばれるひっそりとした世界が存在するらしい。そこでナナは野生の胡蝶の暮らしを学んでいくわけだ。
私たちがたどり着くと、木陰からそっと胡蝶らしき精霊たちがこちらの様子を窺っているのが見えた。ナナのことは伝えてあると聞いている。迎えに来たのだろう。ナナも彼らの存在に気づき、そちらをじっと見つめていた。
「さあ、ナナ」
リーダーが彼女に声をかける。
「今日からここがあなたの世界ですよ。あなたのいるべき場所は、小さな虫かごではありません。もっと広く、もっと美しく、可能性が無限大に広がるこの月の女神の大地の全てが、あなたのいるべき場所なのです。飛び立ちなさい、何処までも」
ナナが私たちを振り返る。メンバーの一人ひとりを頭に刻み込むように見つめ、そして、私にそっと近づいてきた。名残を惜しむように身を寄せ、私もまたそれに寄り添い、しばらく温もりを感じていた。昨日までの日々はもう戻って来ない。それでも、私は後悔してはいなかった。
「ハカセ」
ナナは小さな声で私に言った。
「今までたくさん、ありがとう。いつか本当の博士になってくださいね」
私を見上げ、にこりと笑うその目元に涙が浮かんでいた。
「愛しています、これからもずっと」
それが最後だった。
ナナは私の手をすり抜けると、私の返答も待たずにそのまま森へと駆け出していった。胡蝶たちが隠れながら待っているその場所へとまっすぐ走りだし、茂みへと飛び込んでいった。迎えに来た胡蝶たちも姿を現し、ナナを取り囲む。皆、美しく、神秘的な大人の胡蝶だった。
「ナナ……!」
その光景は溜息が出るほど美しく、そして切なかった。振り返ることもなく、私の呼びかけに応じることもなく、ナナは森の奥へと消えていく。胡蝶たちは新しい仲間を歓迎し、人間の子どものように無邪気な声を上げて一緒に歩いていく。その姿を私たちは静かに見送った。
行ってしまう。私のナナが。未熟だとずっと思っていたナナが、私の手を離れて本来あるべき場所へと戻っていく。
それはどうしようもなく辛い事であり、同時に望ましい事だった。
私とナナの住む世界は今日から変わる。それでも、これまでの絆が変わることはないだろう。絆は時に心を縛り上げる鎖となるだろう。この先も無性に寂しくなることだってあるだろう。しかし、そんな時、私はきっと思い出すだろう。ナナと過ごした日々を。ナナの残してくれた愛の言葉を。この記憶、この想いはきっと、いつか本物の博士になった後も精霊たちと関わり続けていくための糧となるはずだ。
施設に戻った後も、私は茫然とそんなことを考え続けていた。いつも過ごす中庭に行き、耳を傾ける。はしゃいでいる精霊たちの声の中にナナの声はもう含まれていない。そんなことを思いながら、いつもの白湯を口にしていた。
「お疲れ。顔色はいいようだね」
いつもの珈琲の香りをさせながら、同期の彼も私の隣に座る。
「綺麗だったよね、ナナ。森に帰る胡蝶が綺麗なのは知っていたけれど、ナナはとりわけ綺麗だった気がするよ」
そう言って珈琲を口にする彼を、私は少し揶揄った。
「親ばかってやつかな」
すると、彼は笑みを浮かべた。
「それはお互い様だろう。どうせあんたの方が、ナナを贔屓目に見ていただろうし」
「まあ、そうかもね。あの場にいた胡蝶の中で、ナナが飛びぬけて可愛く見えたから」
思い出すだけで震えそうになる。
森に帰っていく彼女たちの姿はあまりに美しく、そして寂しいものだった。鮮やかな緑とほのかに輝く小さな精霊たちもまたナナの帰りを歓迎しているかのようで、彼女を蛹化前から大事に育ててきたチームメンバーとして、誇らしく思うべきことだった。
後悔はしていない。けれど寂しかった。
「ナナもあの場所でいつか卵を産むのかな。長生きしてくれるといいな」
隣に座った彼が、ちらりと私を見つめてくる。
「あとはナナ自身の力と、月の女神さまのご加護を信じるしかないな」
彼はそう言った。
「何にせよ、オレたちに出来ることはやったんだ。これで終わったんだよ」
中庭の空を見上げ、彼は呟く。その横顔を見ていると、ナナの笑みを思い出した。彼女の希望、彼女の想い。それを確認したあの日の事を思い出した。
私は息を吐き、そして言った。
「いや、始まったんだ」
ナナとふたりで抱いた夢。別れに希望を持たせるならば、私の向くべき未来の方角は決まっている。
「大人になったナナと向き合うのはこれからだ。彼女はもうここにはいないけれど、あの森で暮している。あの場所から私たちを見守ってくれるだろう。だから、私にとってはこれからなんだ。これからが勝負なんだ」
ハカセと呼んでくれたナナとの別れ。いつか本当の博士として胡蝶を始めとしたさまざまな精霊たちと関わっていく。そこで生まれる出会いと別れはきっと一つ一つが重たく、ときには身を引き裂かれるほど辛いものになるだろう。
それでも私はこの世界での歩みを止めたりはしない。
「そっか」
彼はほっとしたように息を吐いた。
「確かにそうだね。これからが大事だ。あんたも、オレも」
二人は空間を共有しつつも、思いはきっと全く違う。それでも向いている方角さえ一緒ならばそれで良い。所長も、副所長も、リーダーも、深く関わった精霊との別れの痛みを胸にしている。私もまた痛みを胸にしながらここに所属し続けるだろう。
けれど希望は忘れない。ナナというひとりの小さな胡蝶が語った夢の未来を私は忘れない。繰り返しになろうと、私は精霊と関わることをやめたりはしない。それが、私を愛してくれたナナへの答えとなると信じて。
ナナ。新しい世界へ飛び立った君。私に大きな愛をくれた君。私も君を愛している。愛し続ける。離れて暮らしても、この愛は消えないだろう。再び会えることがなかったとしても、私は君の想いを胸にいつか本物の博士になって、君の仲間たちと関わり続けよう。
木漏れ日の下で、私は彼と静寂を味わった。未来への覚悟と勇気を胸にしながら、今だけは別れより生まれる切なさを受け止める。学生時代のときのように二人並んで空を見上げ、関わった精霊たちの面影を雲の形に浮かばせる。何処となくその中に胡蝶の姿に似た雲を見つけ、私はぼんやりとそれを眺めた。
柔らかく、美しいまま、段々と消えてゆくその雲は、ここで共に過ごした愛しいナナのようだった。