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3.相談


 昨日とほぼ同じ時刻、私はチームリーダーの研究室にいた。リーダーは昨日と同じように私を受け入れ、時間を割いてくれた。いつもながらモノが溢れ、乱雑に置かれ、ひと言でいえば散らかった部屋だが、今はむしろそこが妙に落ち着いた。

 彼女が何か言う前に、私は口を開いた。


「ナナのことです」

「どうぞ」

「――ひとつお聞きしてもいいですか?」


 私はリーダーの顔を見つめ、恐る恐る訊ねた。促されるままに、その質問を口にする。


「リーダーは今までに、精霊たちの保護活動にあたって、辛いと思ったことはありますか?」

「それは……いっぱいありますよ」


 率直に、彼女は答えた。


「精霊保護は時に殺伐としているものです。運命の歯車が少し噛み合わなかっただけで、辛い現実と向き合う羽目になることだっていっぱいあります。大切に育てた精霊を事故や病気で失うときの辛さは、どんなに経験を重ねても慣れるものではありません。それに、精霊を送り出す時だって得られる感情は嬉しさだけではないわけですから」

「リーダーは、ナナを手放すのも寂しいと感じますか?」

「ええ、当然です」


 短く正直なその答えに、私は少しだけ戸惑いを覚えた。


 私よりも長くこの世界に身を投じ、精霊の保護活動に関わってきたチームリーダーの印象は、学生の頃からずっとぶれなかった。ナナのチームリーダーになる以前から、彼女はいつも一定の距離を保ちながら精霊たちと関わり、いつも温かく、そして力強く、関わった精霊たちをそれぞれの未来に送り届けていた。


 彼女の姿は私にとって目指すべき姿でもあり、精霊の保護に関わる研究者としてあるべき姿であった。それは、共に学んだ同期たち共通の認識だったのだ。恐らく同期の彼だって、今もそうであるだろう。そんなリーダーが、こんなことを言うとは。


「精霊保護は出会いと別れの繰り返しです。不幸な精霊の数は昔よりも減ったかもしれません。しかし、まだまだ私たちの役目は終わらない。きっと私が生きている間は、無くなったりはしないでしょう。途方もない、終わりの見えない活動の中で、関わる精霊の数も数えきれない。それでも、ひとりひとりとの思い出は、時間の差はあったとしても決して軽いものではありません」


 恥ずかしげもなく彼女は言った。


「私は時々、関わった精霊を手放すことが怖いのです。手放した先でどのくらい生きてくれるのか、託した里親はきちんと最後まで愛情を注いでくれるのか。不安に思えばキリがありませんから。けれど、私はここに所属したことを後悔したことはありません。精霊をあるべき場所に戻すこの仕事に誇りをもっています」


 顔を上げて彼女の顔を見つめれば、いつもの微笑みがそこにあった。


「ナナと深く関わり、そして森に戻すために計画を進めていることも、私にとっては同じことです」


 堂々とした主張が私の心に刻み込まれる。


 穏やかに、それでいて適切な距離を保って、彼女はいつも精霊と接している。学生時代からそうだったのか、はたまた経験を重ねるうちにそうなったのか、それは分からない。ただ、いつもにこにこしているその表情の下で秘めている思いは、私が印象付けていたよりもずっと熱く情緒的なのかもしれないと、そう感じた。


 そのギャップをどう分解するべきか。すぐには分からず、私はしばし、たじろいでいた。

 顔を伏せ、私はナナの姿を思い浮かべる。私にとって精霊保護とはどんなものだっただろう。その上でナナとの思い出はどんなものだっただろう。


 リーダーと比べて、私にはまだまだ経験が足りない。ここに所属してから経った時間はとても長かったかもしれないが、関わってきた精霊たちの数はまだまだリーダーには及ばない。ナナ以上に長く関わり、そして別れを経験した精霊なんて、私にはまだいないのだ。


「私は――」


 そう言って手のひらで顔を覆い、深く息を吐いてから続けた。


「私の不安は、単純にナナへの心配だけではないのでしょうか」

「それは、私には分かりません。昨日も言ったように、もしかしたらあなたの勘の中に私には見えない問題が隠れていることだってあるかもしれませんから。……けれど、少なくとも今の私には、こう思えたのです。あなたは私に似ている」


 迷いなくリーダーはそう答えた。


「少し前の私によく似ている。私もかつてそうやって悩み、この仕事を続けるかどうか悩んだことがありました。その時の私によく似ている、と」


 誰もが通る道、ということだろうか。それは希望のようにも感じられたし、絶望のようにも感じられた。私がただ単に無能というわけではないという希望、そして、この先もきっと幾度となく同じ思いをすることになるだろうという絶望。大袈裟かもしれないが、いまそこで生きている精霊を愛すれば愛する程、このことが途轍もなく大きなことに思えた。


 やがて私の思考が至った場所は、一つの疑問だった。

 私は、どうしたいのだろう。


「まだ時間はあります」


 リーダーは言った。


「答えらしきものが見つかったとしても、ぎりぎりまで考えるのを止めないでください。その行為が何かを生み出すこともあります。ナナとの別れまでも、別れの後も、精霊と向き合うあなたの答えを、余裕があればぜひ探し続けてください」


 とても穏やかな口調だった。


 研究室の乱雑さが――副所長から時折お小言をいただいているらしきこの部屋が、今の私には心地良い。けれど、長居は無用だ。

 私は静かに頭を下げ、立ち上がった。


「お時間割いていただき、ありがとうございました」


 椅子を引く音が耳に残る。研究室を出てみれば、外はまだ明るかった。授業が終わり、寮の門限まで遊ぶ精霊の子たちの歓声が何処からともなく聞こえてくる。廊下は薄暗く、窓の外は異様なまでに眩しかった。


 こうしている間にも、時間は過ぎていく。ナナ。このままではすぐに彼女と別れる日がやってくるだろう。

 私はどうしたい? どうありたい? この心の引っ掛かりは。その正体は、いったい何なのだろうか。

 考えながら、悩みながら、私は暗い廊下を歩んでいった。



 ――ハカセ、どうしたんですか? なんだかとっても顔色が悪いみたい。


 誰もいない中庭で、私はひとり座っていた。

 明るくて人がたくさんいる時間とは違い、精霊たちの門限が過ぎればそこで響くのは虫の音や夜鳥の声ばかり。無邪気な精霊たちの笑い声や明るい人間たちの喧騒も、ざわざわとした少し不気味な雑音へと変わる。


 けれど、これはこれで好きだった。星の見える空の下で夜風に当たるのもいい。真っすぐ家に帰るよりも、この方が癒される時もある。少なくとも今日はそういう日だった。外灯だけが照らしている傍で、いつもは飲まない珈琲をコップに入れて、ただよう香りをただ嗅いでいた。ずっとそうしていたかった。


 ――さては寝不足ですね。駄目ですよ、あたし達みたいに規則正しい生活をしないと。


 頭の中で響くのは、今日聞いたナナの声。


 リーダーの研究室から戻ってきた私を彼女は待ち構えていた。同期の彼と共同で使っている部屋で、愛らしく椅子に座っていたのだ。いつものように、彼女は私との雑談を望んでいて、同室にいた彼と笑って話をしていた。いつもと同じように。私は呆れながらそれを受け入れ、いつもと同じように彼女との雑談を楽しんだのだ。

 でも、もうすぐこの日常は終わる。もう間もなくのことだ。


「……ナナ」


 珈琲の香りに縋りながら、私はただ思い出していた。


 ずっとナナを森に返すのは怖かった。リーダーがその時を正式に決める前から、私はずっとナナが森へ帰る日を恐れていた。果たしてそれは、ナナが幼いせいだっただろうか。そうだと私は信じていた。私の勘が、まだその時でないと告げているのだと、そういう事にしたかった。――でも。


 目を閉じると、ナナの感触を思い出してしまう。青虫と呼ばれる蛹化前の時代から変わらない匂いを鼻が覚えている。我が子がいたらこんな感じなのだろうか。抱き着いてきたときのナナの手触りと、無邪気な声が体に沁みついていた。


 私は、怖いのだろうか。


「少しご一緒してよろしいですか?」


 突然話しかけられて、我に返った。気づけば、中庭にもうひとりの人物が加わっていた。正面の壁際でにこにこして立っていた。いつの間にそこにいたのだろう。外灯に照らされるその姿に、私は慌てて立ち上がった。


「所長」


 すると所長もまた慌てたように手をあげた。


「ああ、どうぞ座っていて。私はすぐに帰らなくてはいけないのでね」


 そう言って水筒を出して飲み始めた。

 スープの香りがする。カボチャだろうか。とにかく、ただの飲み物ではない。昼食の残りなのかもしれない。


「うちのカミさんがね、ちゃんと水筒の中身を飲み干してからじゃないとお家に入れてあげませんって言うものでね。私の希望でスープを作ってもらって、水筒に入れてもらっているものだから逆らえなくてねえ」


 笑いながら所長はそう言った。空を見上げ、スープを飲んで、一人息を吐く。


「君はまだ帰らないの? 誰かと夕食の約束でもしているのかな?」

「いえ……私は……ただちょっと、帰る前にここの空気を吸いたくなって」


 言葉を濁しながら、私は珈琲の味に逃げた。いつもは白湯だから、味が濃く感じる。けれど、たまには苦味もいい。目だけではなく心も覚めそうだった。


「昼間とは全然雰囲気が違うよねえ」


 所長は空を見上げたまま、ふとそんな事を言った。


「ここは昔から精霊たち――とりわけ元気な胡蝶たちの遊び場だったんだよ。私がここで学んでいたときからずっと。建物は変わったし、ここに植えられる植物も代が変わったものがいる。もちろん、遊んでいる胡蝶たちもね。けれど、無邪気な彼女らの声の響きはさほど変わらない。そんな昼の光景を何度も見るせいなのか、誰もいない夜の景色の寂しさが年々増していくように感じてね」


 一人笑ってから、所長はスープを口にする。冷たい夜風と彼の姿は、昼間にここで遊びまわっている精霊たちとは対照的だった。


「精霊がここを巣立っていくたびに、私は思い出すんです。初めて深く関わって、ここから精霊の世界へ送り出した月花げっか――素朴な美しさを秘めていた花の精霊の子はあれからどうしているだろうかと」


 笑っているが、そこには恋しさが含まれているように感じられた。


 ここに所属した者は、長くいればいるだけ出会いと別れを経験する。それは、学生として精霊たちに向き合っていた頃にさんざん聞かされた常識でもある。精霊の研究と保護に携わる者として、愛情ではどうにもならない問題に向き合う日が来るでしょう、と。


 頭では分かっているつもりだった。当たり前のことだと思っていたし、覚悟も出来ているつもりだった。しかし、今、所長のその言葉は、私の胸に深く突き刺さるものがあった。


「そういえば、あなたも近々、長く深く関わった保護精霊と初めてお別れするのでしたね。ずいぶん好かれていると聞いていますよ」


 穏やかにそう言われ、私は俯いて答えた。


「ナナは……蛹化と羽化を見届けた初めての胡蝶でした。チームリーダーでないはずなのに、何故か妙に懐かれてしまって」

「きっとあなたに惹かれるものを感じたのでしょうね。しかし、懐かれた分、別れは寂しいもの。それが初めての別れとなれば尚更のこと。ここに所属した職員たちは皆それぞれ悲しんだものでした」


 そう言って、所長は私をじっと見つめてきた。


「他の人たちに比べると、あなたは随分と物静かだね。悲しそうなのに、あまりそれを表に出していない。相当我慢強いんだね」

「そんなことはありません」

「いやいや、そんな事はあるよ」


 そう言って、所長は明るく笑った。先ほどの寂しそうな笑みとは違う。温かな雰囲気の彼もまた精霊たちに懐かれやすい。

 こんな彼も、初めての精霊との別れを経験したわけだ。その上でずっと、この場所で精霊と関わり続けている。いったいどんな気持ちだろう。


「所長は……初めて送り出したその月花の事を今でも恋しく思いますか?」

「若かったあの時の気持ちを、思い出すことはあるよ」

「寂しかった、ですか?」


 所長は静かに頷いて、笑みをそっとひっこめた。


「けれどね、私はその後、さまざまなケースに関わって、色んな精霊たちのその後を見つめることとなった。無事に森に返せた子もいれば、返せないままここに居続ける子や、里親に託した子もいる。中には、森に返す前に病気や事故で死んでしまった子もいたね。とくに記憶から消えないのが、“あの事件だよ」

「それって、昔ここで胡蝶の子が盗まれたという?」


 所長は頷く代わりに空を見上げた。


「ミイちゃんって呼ばれていたっけね」


 それは、私や同期の彼が学生としてここに来るよりも前の話だ。施設の警備と精霊たちの門限が厳しくなった理由のひとつ。まさか保護施設に堂々と忍び込んで胡蝶を盗んでいく者がいるなんて誰が思うだろう。その時の子がどうしているかは分からないままだ。生きているのかいないのか、それすれも分からないまま十年以上経ってしまっている。


「ミイちゃんは近々森に帰る予定だったんだよ」


 所長はかすれた声で言った。


「私はチームメンバーではなかったから、さほど関わっていなかったけれどね、メンバー外の職員にも積極的に話しかけるような人懐っこい子だった。チームリーダーやチームメンバーからは当然愛されて、受け取った愛は必ず返すような優しい子だったね」


 そう語る彼の言葉が私の脳内でいなくなった胡蝶の子のイメージを生み出していく。ただの事件として知っていたその出来事が、確かにここにいた子に降りかかった現実の悲劇となっていった。ナナのように、その子はここで愛されていたのだ。


「ミイちゃんが盗まれた日、チームリーダー以上に悲しんでいたのは、蛹化と羽化を見守った元学生のチームメンバーだった。彼女の姿を観た時に、私は強く感じたんだ。私は恵まれていた。初めて関わった月花の子を森に返すにあたって、希望と未来を信じたうえで、円満に別れを惜しむことが出来たからね。それが出来るだけで、もう恐ろしいくらいに恵まれているのだとその時に強く思い知ったんだよ」


 無事に育つだけでも奇跡。それは忘れがちな自然の摂理だった。施設にいる限り、残酷な食物連鎖からは解放されるが、事故も病気もなく明日も無事に生きられるとは限らない。この施設の中で早世した精霊の話もまたよく聞いたものだった。


 しかし、私にはまだその有難みを噛みしめるだけの経験がないようだ。恵まれていると分かろうとしても、ナナと別れることの恐ろしさは消え失せない。明るい未来と希望を信じて別れを惜しむことが今の私に出来るとは思えなかった。


「あの時のリーダーもいまや副所長。元学生だったあの子は、今度はチームリーダーとして再び胡蝶を森に返そうと頑張っているわけだね。君たちと一緒に」

「え?」


 私は思わず顔を上げた。


「リーダーが最初に関わっていた子が、その盗まれた胡蝶だったんですか?」


 初めて聞いた話だったのだ。きょとんとしていると、所長もまた私を見つめてきょとんとした。


「あら、もしかして今の話、知らなかったの? 勝手に喋っちゃったのかな。私が喋っちゃったことは内緒にしていてくれる?」

「……はい」


 おずおずと頷くと、所長は苦笑いをした。


「ありがとう。リーダーのあの子は笑って許してくれるかもしれないけれどね、副所長が怖いんだ。よく叱られちゃうの」


 その光景が目に浮かぶようだった。だが、いつものような呆れとは違う。


 副所長、それにリーダー。二人とも私や所長とは違う別れを経験し、喪失感を覚えたわけだ。副所長がどうしていつもピリピリしているのか。リーダーがどうして達観したような態度をとるのか、少しだけ分かったような気がする。


「リーダーはその時、ちょうど私と同じような立場だったんですね」

「うん。それに、ミイちゃんは一番彼女に懐いていてね。ナナちゃんが君を慕っているところとよく似ているねえってリーダーや副所長とお話したこともあったね。ミイちゃんの事があって以降も、胡蝶の子を保護して森に返したことはあったけど、その中でもナナちゃんは一番ミイちゃんに似ている。ナナちゃんはミイちゃんではないけれど、今度こそ無事にという思いがどうしても浮かんでしまってね」


 お茶を濁すように笑ってから、所長はふと腕時計に目をやった。


「おっと、こんな時間か。スープも飲み干したことだし、私はそろそろ帰らないと。君も、あまり遅くならないようにね」

「はい、所長。お気をつけて」

「うん、また明日ね。君こそ、お気をつけて」


 ゆっくりと帰っていく所長の背中を見送りながら、私は珈琲の香りを求めてコップに口をつけた。気づけば中身はもうない。けれど、まだもうちょっとだけ一人でここにいたい気分だった。


 ――別れを惜しむことが出来るだけで恵まれている。


 盗まれたというミイという胡蝶の話と、リーダーや副所長の姿が頭の中で同時に浮かんで、最後にナナの姿へと着地した。


 ここにいる人々が、それぞれどんな思いで精霊たちと関わっているのか。これまで、どんな思いで精霊たちとの交流を深めていったのか。


 ぼんやりと想像しながら、星空の輝きをしばらく目に焼き付けた。いつもと変わらず、きらきらと星は瞬いている。あと少し。あと少しで、その日はやってくる。それまでに私はどうしたいか。どうすれば、このモヤモヤを抑えられるのか。

 恵まれていると感じるだけでは何かが足りない。では、どうすればいいのか。私はしばし考えて、ふとある事に気づいた。


 ――ナナは。


 寮の方角へと目をやり、私はその気づきを胸に留めた。


 ――ナナ自身は、どう思っているのだろうか。

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