2.日常
◇
ナナの保護に関わるチームメンバーはリーダーを含めて十名。本物の博士の一人であるリーダーと精霊のための精霊医師と教師、栄養士、そしてそれぞれの助手といった人員で構成されている。一番多いのは私たちのようにリーダーの助手である研究者で、次に多いのは精霊医師を補助する精霊看護師である。
チーム全体としては女性がやや多いがその大半が精霊看護師なので、普段からナナの日常と深く関わっている面子となると研究者が主となり、男性が多くなる。女性はリーダーと私だけだ。そのせいかどうかは分からないが、ナナと個人的によく話しているチームメンバーは私であるらしい。私ほどナナの日常を知る者も、ナナの言動を覚えている者もいないらしく、リーダーさえも認めてくれるほどだった。
けれど、ナナを今後どうするかという決定に私の意見がそのまま反映される可能性は殆どなさそうだ。私以外の誰がどう見ても、ナナは森へ返すに相応しい大人の胡蝶であり、各々に不安や心配はあっても、私ほど悩んでいる者はいなかったのだ。
ナナを森へ返すのは次の満月の日の予定だ。野生の胡蝶たちが集団で暮らす胡蝶の故郷の近隣で、ナナを仲間たちに引き合わせることになっている。そこは、これまでにここで育った胡蝶たちが職員たちの手を離れていった伝統的な別れの場所でもある。正式に決まればそれとなく野生の胡蝶たちにも伝えられ、彼女らの決定次第では迎えに来てもらえる可能性も高い。
「その後のことは、胡蝶たちの判断に委ねましょう。精霊の世界における彼女らは独自の文明の中で生きる月の民です。その意思を蔑ろにしてはいけません」
リーダーの落ち着いた声が会議室に響く。私以外のメンバー全てが納得したまま、会議はまとまってしまった。
日没後、職員が帰っていき静かになっていく施設の中で、私はリーダーの研究室を訪れていた。相談があると伝えたとき、彼女はすでに分かっていたように受け入れてくれた。その反応は同期の彼にも似ている。どうやら今の私は実に想像しやすい生き物となっているらしい。まあ、それはいい。書類と書籍が乱雑に積み重なった研究室の中で、私はリーダーと向き合いながら、私は必死に最初の言葉を探していた。あまりにも時間がかかったからだろう。結局はリーダーが先に口を開いた。
「ナナのこと、ですね?」
「……はい」
「会議の間もずっと気にしていましたね」
「気づきましたか」
「ひとりだけ表情が硬かったようでしたから」
そんなに顔に出ていたとは。気恥ずかしく思いつつ、私は正直に頷いた。
「実は、ずっとナナのことで引っかかっていたのです。森に返すタイミングが早いようなそんな気がして」
私の言葉にリーダーは真顔で頷き、腕を組んだ。
「つまり、私の判断に納得がいかなかったのですね」
「それは」
はっきりと言われて一瞬たじろいだ。その通りだ。その通りだが、勇気が揺らいだ。緊張で体が熱り、汗が出てくる。そのままじっとリーダーの表情を見て、ゆっくりと心を落ち着けた。ここで自分の気持ちに嘘を吐いたところで何も進まない。相談したいと言ったのは自分の方なのだから。
「たぶん、そうなのだと思います」
白状すると、リーダーは小さく笑みをこぼした。
その笑みに含まれている感情までを、いまの私は読み取る余裕がなかった。
「あなた確か、蛹化も羽化も見届けた胡蝶を森に返すのは、今回が初めてでしたね。長い期間、日常的に関わり、懐いてくれた胡蝶が育ち、自分たちの手を離れていく。恐らくかつての私が体験したような……もしくはそれ以上の喪失を予感していることでしょう」
「喪失感、なのでしょうか」
私は頭を抱えながら、リーダーに言った。
「いえ、そうではなく疑問の方が大きい気がするんです。ナナはたしかに大人なのですが、私と話している時はかなり幼く感じます。森は危険な場所なのに、本当に生きていけるのかとても心配で……」
「野生の胡蝶たちは、今のナナよりもずっと幼く無邪気なまま、長い年月を生き延びることだってあるのですよ」
冷静なその言葉に、言い返すことが出来なかった。反論したい気持ちがあるはずなのに、うまい言葉が見つからない。ただ心のもやもやしたものが強まる一方で落ち着かない。リーダーの言うことは間違っていないはずなのに、どうして納得できないのだろう。
自分の不安の正体が掴めない。とにかく分かっていることは、このタイミングでナナを森に返すことに反対であることだけだ。黙っているしかない私を前に、リーダーは軽く溜息を吐いてから付け加えた。
「ナナの成長に疑問があるのでしたら、ぜひ、時間いっぱいナナと向き合ってみてください。そうすれば、あなたのその言葉に出来ない感情も、少しは分析できるかもしれません。あなたの勘が正しい場合も当然あります。だから、もう少し、そのもやもやしたものを分解して、私たちにも伝わるような言葉に出来た時に改めて報告していただけますか?」
とても丁寧で穏やかな口調で、リーダーはそう言った。柔らかな印象はあるが、その内部には芯の強さも感じられる。私の疑問に耳を傾けつつも、今の時点ではその方針を変えるに至らないということがはっきりと伝わってきた。それだけ、私の言葉の根拠が弱すぎるせいだろう。落胆すると同時に、少しだけ安堵があった。リーダーもしっかりとナナのことを考えている。当たり前のことのはずだが、忘れかけていることでもあった。
それだけに、こちらも気が引き締まった。はてさて、私の抱える疑問はいかほど重要なものなのか。
「――分かりました。もう少しナナと向き合ってみます」
ひとまずは引き下がり、その日の相談は終わった。
◇
リーダーの研究室を去る頃にはすっかり日も落ちて真っ暗になっていた。精霊たちも寮へと戻り、夕食後のひと時を楽しんでいるはずだ。一方の研究棟では、リーダーのように泊まり覚悟で家に帰ろうとしない職員も数名いるだろう。私に居残りする理由などないが、今日はそのうちの一人になりたいような気分ではあった。家に帰ったところで家事どころか入浴さえもままならない気がしたのだ。
静けさに包まれる廊下を歩きながら、帰るべきかどうか迷っていると、私の行く手に待ち受けている人影があった。ぼんやりと見えるその姿に何気なく視線を向け、一瞬だけ固まってしまった。この時間、この場所にいてはいけない人物がそこにいたのだ。
「ナナ!」
その名を呼ぶと、ナナはそっと人差し指を唇に当てた。
「しっ、警備員のおじさんに気づかれちゃいます。皆には内緒なので」
苦笑する彼女に近づき、私は小声で叱った。
「尚更、駄目じゃないか。夜は危険なんだぞ?」
「知っています。前にも警備員のおじさんや寮長センセイにこっぴどく叱られちゃったので。昔、夜にほっつき歩いたせいで盗まれちゃったまま帰ってこなかった子がいたんですよね?」
「知っているならどうして」
「今日が終わる前にもう一度だけ、どうしてもハカセに会いたかったんです。ほら、今日はハカセ、会議だったから」
そう言って、ナナはくすぐったそうに笑う。その様子は異様なまでに愛らしく、見惚れてしまうほどだった。疲れた心身には重たすぎる甘み。染み渡っていけばいくほど癒しは切なさに変わっていく。
それ以上はナナを直視できなかった。代わりに虚しく床を見つめ、無表情を装って私は彼女に言った。
「何度言ったら分かる。私は博士じゃない」
「あたしにとって、ハカセはハカセです。それに、いつかは本当の博士になるのでしょう?」
いつもの返答すら、今の私には眩しいものだった。
「それで?」
誤魔化しも兼ねて、私は彼女に促した。
「私に会って、どうしたかったんだ?」
「さようなら、ハカセ」
首を傾げて、ナナはそう言った。
さようなら。それは、いつもと変わらない挨拶の言葉だ。それなのに、今日は一段と胸に突き刺さる。言葉が槍にでもなったかのよう。心苦しく、平静を装うのも大変なくらいだった。
そんな事とも知らず、ナナは無邪気なまでに私に言った。
「どうしても、一日の終わりには言いたかったんです。そうしないと、あたしにとっての一日が終わらないというか」
「あまり……良くないことだよ」
顔を見ずに私はそう言った。
「私は精霊ではないし、君の家族ではない。人間相手にそういうことをしてはいけないって“校則”にあっただろう?」
未熟な精霊たちにとってここは学校だ。あらゆる校則は彼女たちにとって理不尽であり、不可解であるだろう。実際にそういう規則もある。しかし、大半は現実と繋がっている大切な決まりだった。精霊は人間と違う。そのことを理解する前に覚えてもらうために校則は欠かせなかった。
「はい、それは分かっています」
明るい口調にやや影を落として、ナナは答えた。
「だから、これは今だけ出来る校則違反なんです。いずれはあたしも、ここを“卒業”しなくてはいけないから」
顔を上げてみれば、ナナと真っすぐ目が合った。
表情は柔らかで、先程とさほど変わっていない。しかし、暗闇の中で見えるその眼差しには、いつも私が抱いている印象とは少し違う大人びたものが宿っている気がした。私はすぐにまた俯いた。言葉を必死に探し、そして、見つけ出す。
「さようならと言う前に」
溜息を一つ吐き、淀んだ気持ちを入れ替えてから、私はナナに片手を差し伸べた。
「一緒に寮長センセイに怒られに行こうか」
◇
壁に囲まれているのは同じなのに、天井がないだけでどうしてこうも違うのだろう。建物と建物の間に存在する緑豊かな中庭の空気は、今日も変わらず心地よい。木漏れ日の下で遊んでいる精霊の子たちの無邪気な姿もまた、束の間の癒しだった。
その中に、いつもならばナナの姿もあるが、今日はいない。気分が変わって室内や、もっと広い運動場で遊んでいるというわけでもない。彼女はまだ実習中であるらしい。外で狩りをする練習。わけあって野生に戻ることが出来なくなり、ここでずっと暮らしている花の精霊の協力のもと、野生の胡蝶たちが日々やらなくてはいけない食事の作法を学んでいる。
――ナナ。
心の中でその名を呟く。握り締めたコップに入った白湯の温もりを感じながら、ほんの少しの肌寒さと風の音に包まれながら、私はナナの姿を思い出していた。
どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。何故、もやもやが解消されないのだろう。様々な想いが頭の中を行き交い、目眩がしてくる。
「顔色が悪いようだな」
そう声をかけてきたのは、同期の彼だった。いつの間にか隣に座っている。その姿が目に入った時、ようやくいつもの珈琲の香りがしてきた。
「寝不足かい?」
「まあ……そんなところかな」
実際は寝ているはずだ。瞼を閉じている間の記憶は殆どない。しかし、いくら寝ても、ここのところ疲れがなかなか抜けなかった。
それもこれも起きている間ずっと、悩み続けているせいだろうか。こんなに考えようとしているのに、気持ちの整理がつくような答えが見つからないストレスなのかもしれない。ともあれ、顔色が悪いのも当然の心境だった。
「ナナのことだろ?」
彼に小声で言われ、私は答える代わりに溜息を吐いた。
どうせ答えるまでもない。
「昨日の事、さっき聞いたよ。ナナが会いに来ちゃって君が胡蝶寮まで送り届けたんだって? 可愛いもんだが、危なっかしい話だよな。胡蝶がひとりで抜け出しちゃうなんて。警備はどうなってんだって副所長もカンカンだったよ」
「珍しいね。彼女が感情的になるなんて」
「そりゃあ、そうさ。昔、盗まれてしまったという精霊も胡蝶だったというじゃないか。同じ事が繰り返されたら、施設としてもたまったもんじゃない。施設の評判は当然落ちる一方だし。そもそも、誰だって手塩にかけて育てた精霊が野生に戻す前に安否不明になるなんて望んじゃいないからね」
「そうだな……当然のことだ」
力なく同意すると、彼は私の顔を覗き込んできた。
「もしかしてさ、責任を感じているの?」
「さあ、どうかな」
お茶を濁しつつ私は白湯を口にした。
思い出すのは昨日の事。ナナの手を引いて寮へと戻る間、私の心は晴れなかった。胡蝶と人間は一定の距離を保たなくてはいけない。ナナに懐かれることは嬉しいが、良くないことだ。この矛盾に引き裂かれそうになりながら、二人して寮長に謝りに行ったのだ。
寮にたどり着いた頃、寮長はちょうどナナがいないことに気づいて取り乱しているところだった。ナナの姿を見てほっとした表情を見せた彼女に真っ先に頭を下げた時、私は自分の落ち度を意識したのだ。
ナナはペットではないし、家族でもない。やがては解き放たなくてはいけない精霊に懐かれてしまうということは、やはりいけないことだったのだ。しかし、寮長は私を責めたりはしなかった。ただナナの無事を喜び、彼女自身へ軽く注意した程度に留め、私に対してはむしろ連れてきたことに感謝しただけだった。
今日になって、リーダーやもしくは所長、副所長あたりからお小言が来るのではないかとピリピリしていたが、それもないまま今に至る。そこがむしろ腑に落ちなかった。
白湯を飲み込んで、私はごく小さな声で呟いた。
「ナナが私に会うために勝手に寮を抜け出したのは事実だ」
すると、彼は隣で大きな溜息を吐いた。
「やれやれ、そうやって真面目で反省できるのはいいことなのかもしんないけど、あんまり深刻に思い詰めるのも良くない。勘弁してくれよ。ただでさえ同期がいなくなっていくのは寂しいんだからさ」
「別にそこまで思い詰めてはいないさ」
目を逸らしつつ、しかし、ふと考える。
私は何故、ここに所属しようと思ったのか。
最初は何となくそうしたかったからだ。そして学生として学ぶうちに、月の女神の元で繁栄し、長きに渡り人々を魅了し続けた精霊という存在に憧れ、彼女らをもっと深く知りたいと強く感じたからだ。学びを深めるうちに、人間と精霊の世界と深く関わりながら、自分に出来る範囲で月の大地の営みを支えられたらと思うようになり、そして、気づけばここの職員になっていた。
関わったのはナナだけじゃない。蛹化と羽化を見届けたのはナナが初めてだったが、ナナより年下の精霊の中にはそれこそ孵化から見届けた子もいるし、野生に返した子も里親に託した子もたくさんいる。その中には、ナナのように懐いてくれた子もいた。短い間ではあったが、別れは各々辛かったはずなのだ。ナナだけが特別なわけではないはずだった。
「あっそ。それならいいんだけどね。でも、あんた、真面目過ぎんじゃないかな。ちょっとはオレのテキトーさを見習ってくれてもいいんだけど」
「君は相変わらずだね。確かにちょっと羨ましくなるかも」
呆れながらぽつりとそう言うと、彼は子どものように笑ってから答えた。
「オレも、時々あんたがちょっとだけ羨ましくなるときはある。ナナには一番懐かれているからね。あと一応言っておくけどさ、オレはオレなりにナナとお別れするのは寂しいんだからね」
「意外だな。君はあっさりと別れられるようなタイプだと思っていた」
「オレはかなり未練がましい男なんだ。超面倒臭いんだぞ?」
彼の口調に思わず笑みがこぼれ、そこで気づいた。そういえば、朝から全く笑うことがなかった。表情がすっかり固まっていたのか、頬の筋肉が強張っていたらしい。しかし、いざ笑ってしまえば少しは肩の力が抜けた気がした。
「なんだ、笑えるじゃん」
「……ありがと。少しは気が紛れたかも」
「そりゃ、どういたしまして」
彼がそう言った時、鐘の音が響いた。精霊たちの授業の始まりを報せる予鈴だ。私達の方もそろそろ束の間の休息を止める頃合いかもしれない。白湯の残ったコップを見つめながらそんなことを考えていると、彼の方が先に立ち上がった。
「さてと、オレはそろそろ戻るかな。あんたは……あんま無理すんなよ。暗い顔ばっかしていると、ナナが心配するよ?」
そう言って立ち去っていく彼の背をぼんやりと見送りながら、私は今一度、自分の心と向き合った。どうしてこんなに気が重たいのか。どうして笑うことすら忘れてしまうほど、疲れがたまっているのか。
ナナとの別れが近づいている。そこにどんな感情があるのか。何が心配で、何が不安で、私はこんなにも悩んでいるのだろう。決まりを破ってまで私に会いに来たナナ。今だけ出来る校則違反をしてまで「さようなら」を言いに来たナナ。
――いずれはあたしも、ここを“卒業”しなくてはいけないから。
無邪気な彼女の笑顔とその声が脳裏をよぎった時、私の頭にふとした疑問が浮かんだ。心苦しい原因は、果たして責任感によるものだけなのだろうか、と。