1.疑問
◇
月の輝きの美しい夜を精霊たちは愛しているという。なぜならその夜は月の女神の神力がこの大地を満たすからだ。
女神の神力は精霊たちだけでなく、その統治下にある大地で生まれ、ゆっくりと滅びに向かいながら繁栄していく個々の命にとっても大きな癒しである。とはいえ、精霊と精霊でない者とではその重要性も大きく変わる。精霊たちは女神の神力のない場所では生きていけない。それだけ、女神と精霊たちの関係は深いものなのだ。
この神秘的な月の国の人間に生まれておきながら、月の女神を敬愛しない者は果たしているだろうか。少なくとも私の周りにはそういう者はいない。男も女も堅物ばかりであるし、理屈で全てを説明しようとする面倒臭い連中ばかりだが、それでも月の女神という存在を軽んじたりはしない。
それもそうだ。私の所属するこの施設において、そのような態度をとる者は即日追い出されても不思議ではないのだから。この施設で務めを果たす私たちにとって月の女神の神秘は、決して不可侵なものとは言えないにせよ、甘く見てもいけないものなのだ。
ところが、この施設の外では必ずしもそうではない。
月の国に暮らし女神の恩恵を受けておきながら、敬意を忘れてしまった人間は腐るほど存在する。狭い視野で目先の未来しか見ようとせず、その先を考えようともしないのが彼らの罪だ。それだけならばまだ仕方がない。そういう人もいるだろう。しかし、それ以上の禁忌を侵すとなれば話は別だ。
たびたび報告される違法な精霊狩りもその一つ。
古来より人々は月の女神と特別な繋がりのある精霊たちに魅了されてきた。精霊の中には女神より特別な力を得た大精霊と呼ばれるものも存在し、時には人間にとって脅威となったが、多くの精霊は無害なものばかり。無害なだけでなく人懐こい精霊も数多くいたため、人間の世界で暮らし始める精霊たちも多かったという。人間とさほど見た目も変わらない彼らと恋に落ちるものもいたようで、そういった逸話はおとぎ話としても語られるほどありふれていた。
しかし、いつからか人間と精霊の関係は変わってしまった。ある時代より我々の祖先はより魅力的な精霊を求めるようになっていったのだ。誰も見たことのない美しさを宿した精霊を持て囃すようになり、その結果、人々は率先して森を侵し、人間の世界には興味のない精霊たちまで捕えてしまうようになったのだ。
まるで家畜や愛玩動物のように、人間は精霊たちを管理し、何百年、何千年と交配を繰り返していった。そして今、もはや森で暮らすに適さない精霊たちも町に溢れている。それなのに、いまだに森を侵す人間は後を絶たないのだ。
これでも人々の意識は変わっていった方だ。月の国の方針も野生種の精霊を許可なく捕えることを問題視し、法も整えられていった。血統管理の繰り返されていった精霊とは違う扱いを心掛け、森には森の、町には町の精霊がいるべきだと多くの人間たちが考えるようになっていってはいる。
けれど、違法な精霊狩りの被害はなくなったりはしない。むしろ文明の進歩に伴って酷くなっている部分もある。かつては人知の及ばぬ領域への畏怖で抑制されていたものが、ここ最近ではすっかり解放されてしまっているのだ。
きっと月の大地の未来の為に徹底管理されるようになった女神への待遇のことや、武器や科学の進化によって人と大精霊を含めた自然界との力の差が逆転したともいわれることが、大きく関わっているのだろう。また、今の時代にあっても欲望のままに物珍しい精霊を所有したいと願い、そのために金を出そうという人間がなかなかいなくならないということの証明でもある。
さまざまな事情が重なり、今日も精霊の森は侵され、精霊たちは盗まれていく。そのまま放置すれば、いずれ森からは精霊が消えてしまうかもしれない。勿論、そんな不安を見過ごす人間ばかりではない。
国の方針は女神への敬愛を忘れない。たとえ管理下に置いていたとしても、いや、置こうとしているからこそ、彼女の尊厳と存在に関わる問題には真摯に向き合わねばならないのだ。
そうして月の国公認の精霊警備隊が誕生したのは今から百年以上前のことだ。以来、凶悪な密猟者との戦いは日々繰り広げられている。警備隊員が命懸けで救いだした精霊たちは、しばらくの間、保護施設で大人になるまで過ごし、野生種はやがて森へ、交雑種や品種改良された者たちは里親や施設に併設された精霊園へと送られる。どちらの未来を歩むにせよ、心身の傷ついた精霊と関わる施設の職員の役割もまた重要だった。
野生種の場合、やがては森へ返すことが最大の目的となる。どんな精霊であれ、野生種の精霊が保護されたときは、個体ごとにチームを組んで、最終的には森へ返すことを目標年、治療や育成の計画を立てていく。もしも野生種が何らかの理由で森へ返せないとあれば、それはとても不幸なことであるし、長い目で見れば月の大地全体の損失と考えられる。チームメンバーとして保護に携わった精霊が健康な状態で森へ返されるということは、施設の職員にとっても喜ぶべきことなのだ。
――それなのに、どうしてだろう。
◇
「どうしたんですか、ハカセ。何か悩み事ですか?」
木漏れ日と微風の心地よい施設の中庭で、しばしの暇を潰す私に無邪気な声がかかった。ふと顔を上げてみれば、屈託のない笑顔を浮かべて彼女はこちらを見下ろしていた。
愛らしいその顔は人間の少女にしか見えない。しかし、立派な大人であり、さらに言えば人間ではない。胡蝶と呼ばれる精霊の一種。卵から孵り、蛹化、羽化を経て大人になる蝶や蛾のような精霊である。その言葉にしがたい魅惑、愛らしさもまた、人々の心を掴んで離さない美しい蝶や蛾のようだ。
まじまじと顔を見合わせれば、同性であろうとうっかり見惚れてしまう危険性も高い。この施設に所属して十年近くになる私であっても胡蝶特有の美しさに当てられそうになることがある。さり気なく目を逸らしながら、私はいつものように答えた。
「ナナ、何度言ったら分かる。私は博士ではない。ただの職員だ」
思っていた以上に素っ気ない態度となったが、それでも彼女――ナナは無邪気に笑った。
「ハカセはハカセですよ。だって、色んなお話を知っているのだもの」
困ったことに、何度説明してもナナは分かってくれない。分かろうとしてくれないのだ。お陰で、彼女の影響を受けて他の精霊たちまで私の事をハカセと呼んでくる。それどころか、所長や副所長といった本物の博士たちまでわざと私をハカセと呼ぶことがあってとても困る。いずれは博士になる日が来るかもしれないが、それは今すぐの事ではない。ナナにハカセと呼ばれる度に、私はむずむずとくすぐったいような気持ちになってしまうのだ。
しかし、いくら注意しても変わらないのだろう。だからそれ以上は触れずに、私はただ溜息だけを吐いた。
「ねえ、ハカセ。いったい何に悩んでいらっしゃるの? やっぱり、あたしの知らない難しい問題ですか?」
わくわくとした様子でナナは訊ねてくる。いつものことだ。ナナはここで暮らす胡蝶の中でも好奇心が強い。保護されたときから変わらない特徴であり、蛹化と羽化を経ても変わらなかった個性である。
好奇心が強いということ自体は悪いわけではない。胡蝶の狩りは機会をいかに自分のものにするかにかかっている。今は必ず食事にありつけるわけだが、いずれ森に返れば自分の力で獲物となる花の精霊たちを見つけ出し、捕らえ、彼らの生み出す花蜜と呼ばれる分泌液を毎日手に入れなくてはいけなくなる。そのため、明るく活発で人懐こい気性は、多くの花たちの心をくすぐり、密接な関係となる上でプラスとなるだろう。
しかし、好奇心の強さは弱点にもなる。精霊の世界には胡蝶を捕食する精霊も暮らしている。彼らは胡蝶の好奇心を利用し、罠にかけることを得意とするのだ。そこに善悪などない。胡蝶の捕食者たちもまた保護されるべき精霊たちであり、月の大地にとってなくてはならない存在だ。それでも、私は怖いと感じてしまう。ナナもまた森へ返されれば、捕食者たちの獲物として目をつけられることがあるということだ。それを思うと不安でいっぱいになってしまう。
これではいけない。私は思い直した。精霊たちの保護活動を長く続けていくならば尚更、チームメンバーとして関わる精霊たちとは一定の距離を保たなくてはいけない。様々な事情があって一生涯関わることになる個体もいるだろう。しかし、それは成り行きでなるものであり、若く、健康で、まだ可能性の閉じられていない個体に対して願ってはいけない不吉なことだ。たとえ、私にとってのナナが蛹化も羽化も見届けた思い入れのある胡蝶だったとしても、である。私は研究者という立場の人間であり、彼女は野生の胡蝶なのだ。そこを絶対に間違えてはいけない。
気持ちを引き締めつつ、今度は敢えて素っ気なく答えた。
「そうだな。難しい問題かもしれない」
「へえ、どんな問題なんです?」
「悪いけれど、チームメンバー以外には教えられないことなんだ」
「えー! そうなんですか、とっても残念」
大袈裟にナナは肩を落とした。可愛いものだし、悪い気もするが、これでいい。そもそも教えられるはずもないことだ。単に教えてはいけないことだから、というだけではないのだ。どうして言えるだろう。私の悩みがナナ自身の今後の事についてだなんて。
「せっかくハカセの面白い話を聞けるかと思ったのに」
「面白い話なら毎日の授業でたくさん聞けるだろう? センセイは私よりもずっと話が上手いはずだ」
「授業は授業! ハカセのお話とは全く違います!」
力説するナナは可愛い。可愛いだけに、憂鬱な気持ちが生まれてしまう。彼女への愛着が深まれば深まるほど、心が苦しくなってしまう。そんな感情をどうにか押し殺して、返答に困っていると、中庭に向かって声がかかった。
「おーい、そろそろ午後の授業の時間だよー」
優しく明るい青年の声。胡蝶の教育係を担当する同僚――センセイの声だ。
「ほら、センセイが呼んでいる。早く行きなさい」
「もうそんな時間? あ、ねえ、ハカセ、授業終わったらまた遊びに行ってもいいですか? いつもみたいに、ハカセのお話も聞きたいんです」
「駄目だ」
ナナの言葉を遮って、私はきっぱりと首を振った。
意識しすぎたせいか、声の調子も強くなってしまった。そのせいだろう。ナナは驚いたように私の顔を見つめてきた。罪悪感が強まり、私はその瞳から無意識に逃れてしまった。
ああ、まただ。ここ最近、ナナとのやり取りが妙にぎこちない。必死に言葉を探してから、私は努めて優しい口調で付け加えた。
「会議があるんだ。今日はお友達と遊んでいなさい」
「……そっか。会議なら仕方ないですね。そうします」
ナナは明るくそう言って、仲間たちの元へと駆けだしていった。
その背中を見送っていると、段々と心が締め上げられるような胸騒ぎを感じてしまった。落ち着かないのはここ最近ずっと、だ。頭がこんがらがって、考えもまとまらなくなる。不安と疑問が交差して、溜息ばかりが漏れだしていく。こんなことは初めてだった。
「どうした、溜息なんて吐いて」
話しかけてきたのは、同じように束の間の休憩を中庭で過ごしていたチームメンバーだった。身だしなみよりも精霊たちの研究を優先する男。その態度は決して真面目ではなく、実にいい加減だ。むしろ、いい加減だからこそ暇が減ってしまい、そのような有様なのだろう。だがそのいい加減さも、温厚で器の広い所長や、有能かつ冷徹な判断も厭わない副所長が、彼をいつ追い出そうかなどと話し合ったりはしない程度のもの。そういう人材だ。
コップを片手に、彼は私を見つめている。まるでみすぼらしい野良犬か野良猫の様子でも窺うような眼差しだが、こちらもこちらとしてそういう目を向けてしまう。風呂に入ったのか怪しいボサボサの髪はいつものこと。今日も変わらず白衣のお陰で辛うじて清潔感が保たれている有様だ。そして、いつも同じように飲んでいる珈琲の香りもまた、彼の印象の一部である。何のことはない庶民が気軽に飲める珈琲の香りだが、彼の見た目と染みついた消毒液の匂いが合わさって、こっちとしても独特かつお馴染みのものとなっていた。
そんないつも通りの空気を味わってから、私はゆっくりと答えた。
「どうもしないさ」
「何か悩み事ですか、ハカセ?」
「おい」
ほぼ反射的に私は彼に噛みついた。
「ナナの声真似はやめろ。いい年のおっさんがかなり見苦しいぞ」
「はあー、手っ厳しいなぁ。同い年のくせによぉ」
「同い年だからこその親切心だよ」
「へいへい」
軽く流され、呆れてしまう。全くこの男は何も変わらない。学生としてここで保護活動と研究を始めた時からずっとこの調子だ。ぶれないままという点では、ある意味尊敬する。だが寧ろ、こんなのだからこそ、私共々長くこの研究所に勤められたのかもしれない。
学生時代には私や彼より優秀な人物はたくさんいたものだし、その中には当然、研究員となった者もいた。それでも今は皆、別の道を歩んでいる。皆、真面目過ぎて、優しすぎたのかもしれない。どんな背景だったにせよ、気づけば同期は私たち二人となってしまった。はっきり言って腐れ縁でしかないわけだが、それでも付き合いは長いわけで、男女の差はあれども、チームメンバーの中ではもちろん、この施設全体の職員の中でも気の知れた相手に違いなかった。
「それで?」
彼はそっと私に訊ねてくる。
「何に悩んでいたんだ?」
話すべきか、否か。少しの間だけ考えてから、私は正直に答えた。
「ナナのことさ」
たった一言で、心の重みが増したような気がした。口にすれば楽になるとは言うが、言葉にすることでむしろ暗い気持ちになってしまった。私の横で彼は珈琲を口にする。おそらく私のこの返答も見当違いではなかったのだろう。そんな表情だった。
「森に返したくないのか?」
珈琲を飲み込んでから訊ねてきた彼に、私はすぐさま反論した。
「違う、そうじゃない! ただ私は時期が悪いのではと感じているだけで――」
むきになっていることを自覚し、いったん言葉を止める。感情的になってもいいことはない。それは分かっているはずなのに、どうしてこんなにもそわそわするのだろうか。自分の心の動きの行方と言葉を必死に探し、捉えようとするも、上手くいかなかった。
何故、私はこんなにも焦っているのだろうか。胸騒ぎと心の引っ掛かりの正体が分からず、そこがとにかく気持ち悪かった。
「悪い。言葉が足りなかった。つまりあんたは、ナナを森に返すのはまだ先の方がいいのではないか、って悩んでいるんだな?」
彼にそう言われ、私は渋々ながら頷いた。
「……そういうことだ」
けれど、何故だろう。何故、私はそう感じているのだろう。このタイミングじゃなければいつがいいというのだろう。恐らく彼も同じ疑問を抱えているはずだ。
早春。昔からこの時期は胡蝶を解き放つのに良いとされている時期だ。もちろん、羽化の時期と健康状態、育成の進み次第ではあるが、ナナはいずれも条件を満たし、いつでも森に返していいとチームリーダーが判断していた。私だって納得しながらナナと接したつもりだし、いつその時が来てもいいと思っていたのだ。
それなのに何故だろうか。三日前の会議で今月中にナナを森に返す予定だとリーダーが言ったときから、私は得体の知れない不安に駆られていたのだ。ナナを森に返すことに異存はない。だが、今月中というところが気になって仕方なかった。
「まあ、オレも正直言うと、急な話だなあって思ったよ。でも、考えてみれば学生時代からこっち、もっと急な決定で森に返した精霊だっていたよなあ、なんて思い出してね。ナナだけが急だって思うのは、きっとオレがそれだけおっさんになっちまったってことなんだろうなーって。ほら、ナナって蛹化前から関わってたじゃん。なんせ、保護してから七年だぜ。ホント、あっという間だったなーって」
能天気な彼の様子が妙に気に食わないのは何故だろう。感想としては同じようなものなのに。
悪質な胡蝶ハンターから警備隊が命懸けでナナを救い出し、ここへ送ったのが七年前。成長過程を観察しながら、心と体のケアをし続けて七年。その月日はあまりにも長く、重たく、それでいて過ぎてみればあっという間のことだった。無事に森へ返せば、この長きに渡る活動と研究も完結するわけだ。後は自然の成り行きと女神の御加護、そしてナナ自身のポテンシャルを信じるだけとなる。
けれど、それならばやはり万全な状態で飛び立たせたいのが親心というものだろう。七年も関わってきたのだから、たとえ本物の博士やチームリーダーでなくとも――ただのメンバーであっても、ナナの生き残る可能性を引き上げたいと願うのは当然のことではないか。だからこそ、きっと、私は悩んでいるのだろう。
「それで、君はどう思う?」
私は彼に訊ねた。
「時期尚早だって思わないか?」
「別に思わないよ」
それは、望んでいた答えではなかった。
「だってさ、ナナはもう大人だよ? そりゃあ、人間の子として考えたらまだまだ頼りない年齢だけどさ、彼女は人間じゃない。胡蝶なんだ。無事に羽化して、胡蝶の世界の常識さえ覚えてしまったら、もう十分森で生きていける。君だって会議でセンセイの報告を聞いただろう? ナナは同年代の胡蝶の中でも優秀な生徒だって話だ。おまけに食事も危なっかしくない。森で生きていくには十分のはずさ」
「それは……そうだけども」
どうしても納得がいかず、私は頬杖をついた。
確かに、彼の言う通りではある。ナナの授業の成績は良く、健康状態は理想的。食事の練習のために花の精霊との実習もさせているが、そちらでも評判はいい。いつ森で暮しても安心だとチームリーダーは言っている。
けれど、私はやはり引っかかってしまう。ナナの精神面に関して、だ。羽化してしばらく経つとはいえ、子ども過ぎやしないか。そして、人懐っこい気性も怖かった。保護されることになった経緯も、この人懐っこさが災いしてのことだった。その時の恐怖や心の傷は消えていないはずなのだが、好奇心が恐怖に勝ってしまうのは蛹化前から全く変わらない。怖いのはこの部分だ。精霊の世界には胡蝶を捕食する者たちもいる。彼らは胡蝶たちの好奇心をくすぐって捕え、食べてしまう。自由な精霊の世界で天寿を全うできる胡蝶たちはさほど多くなく、病や事故、捕食によって命を落とし、森の一部と化してしまう者が大半だろう。だからこそ、思うのだ。
「でもやっぱり、私から見てナナは幼く感じる」
精霊の世界は賢さや知識、経験が全てではないし、その未来はただ運の良さだけで決まるときもある。それでも、もう少し精神面の成長を待てば、もっといい条件でナナを森へ返せるのではないかと、そう思ってしまう。
「森に放して生きていけるだろうか。もう少し外で暮らす訓練をしてからでないと、すぐに捕食者に食べられてしまうのではないかと心配なんだ」
「不安に思う気持ちは分かる。オレだって一番長く関わってきた子だからね」
コップを軽く揺らしながら彼は頷いた。
「でもさ、心配しすぎじゃない? これまでだってこの施設はたくさんの胡蝶を森に返してきた。それこそリーダーは胡蝶を含めたたくさんの精霊を育てて手放してきたんだ。その多くはいまでも元気に暮らしているって、警備隊から報告されているだろう?」
確かに、そういう報告は日常茶飯事だ。無残な死に方をする精霊よりも、無事に暮らしている精霊の報告の方が多い。それは分かっている。分かっているのだが、やっぱり心は晴れず、気は重たいままだった。
私の表情も浮かないものだったのだろう。彼はやけに明るい口調で私に言った。
「なあ、大丈夫だって。胡蝶たちには胡蝶たちの文化があるんだ。野生に返した胡蝶を最初に出迎えるのは、森で暮らす胡蝶の仲間たちだ。その後も彼らとずっと共に暮らすかどうかは個性によるんだろうけど、たぶんナナの性格だったら仲間たちと安全な場所で暮してくれるさ」
私からすれば楽観的なまでに明るい見通しだ。それが願望に過ぎないことくらい、彼自身もよく分かっているだろう。分かった上で、そう考えてしまう方が賢いのかもしれない。何を言おうと、どう思おうと、ナナを森へ返す計画はすでに決まっており、今、こうしている間にもその時は近づいてきているのだから。
――けれど、本当にこれでいいのだろうか。
悩みは消えないまま、むしろ深くなっていく。本当にナナを森へ返すタイミングは今なのだろうか。モヤモヤの正体を知りたくて、疑問や不安の正当性を探したくて、私はただただ悩み続けていた。