第一話 社畜の時丘とは俺のことよ
時々、今自分は夢を見ているのではないだろうか。と思うことが暫しある。
けれど夢ではない。
頬を抓ってみても、『夢から覚める感覚』は無い。
『夢ならばどれ程良かったか』『夢ならば覚めないで欲しい』
そんなフレーズを良く耳にする。
確かに悪い夢ならば目が覚めて欲しいし、良い夢ならば覚めないで欲しい。
けれど夢とは何時かは終わりを迎えるものだ。
だからこそ夢は儚くて脆いーー幻想なのだ。
だがしかし、今俺が感じている腹部と頭部の痛み、そこらから垂れ流れている熱を帯びた緋色の血液は何処をどう見ても、夢のものでは無かった。
沈み行く擦れた意識の中、俺は呆然と今までの人生を振り返った。
俺ーー時丘真圡は、正しく『会社が恋人』なのではと言われる程のアラサーの社畜だ。
死んだ魚の様な目、直す暇さえ無い寝癖、剃る暇さえ無い無精髭、俺の心を表しているヨレヨレのスーツに踵の痩けた革靴。
それらをマネキンに取って付けたのが俺だ。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカターーーー
何かの呪文の様に室内に響くタイピングの音はこの会社に入社して三年で培った技術だ。
「………」
この職場は基本的にタイピングの音しか聞こえない。
喋っていると禿げの上司に小言を言われる。
自分の方が仕事が遅いくせに何を言っているんだという目をされていることに気付いていない|あの禿げ(上司)は見ていて非常に滑稽である。
カタカタカタカタカタカタッ
俺は一度手を止めてデスクの上に置いてあるマグカップを手に取り口へと運ぶ。
口内にビターな苦味が広がる。
マグカップの内側には珈琲特有の茶色い層が出来ていて、少し綺麗好きな俺はそれを見て少し憤りを感じる。
出来ることならば十年前の俺に「この会社にだけは入社するな!!」と言ってやりたい。
俺は再びデスクトップのモニタに向き直り指をポキポキと鳴らす。
もし
もしこの会社に入社していなければ、今頃俺は人並みに女性と手を繋いでいたのだろうか…。
想像したが容易に思い浮かばなかった。
「……んじゃ時丘上がります…」
俺はそう言い仕事鞄を手に職場をそそくさと後にした。
俺はこれからの社畜人生にため息を吐いた。
ため息は珈琲の匂いがした。
「…苦い人生ってか…」
俺はハッと鼻で笑い自宅へと向かった。