触手な神様とわたし〜生け贄召還されたけれど、神様に溺愛されて大丈夫そうです?〜
【0/始まりの悪夢は唐突に】
眠い。
その日、陽菜子はうっかりと寝坊をした。
友人にお勧めされたネット小説が、とんでもなく面白かったからである。
異世界転移で、程良く恋愛があって、何よりも、主人公があんまり酷い目に遭わなくてほのぼのしているのが好みだった。
そして、最終章ではシリアス展開が続いてはらはらしたが、きっちりとハッピーエンドで終わったのが、実に、実に、好みだった。
大満足だった。
やっぱりラストはハッピーエンドがいい。
ほのぼのでハッピーエンドで実に最高だった。
でも、ほのぼのハッピーエンドが大好きだけれど、どん底からの成り上がりも嫌いというわけじゃない。
むしろこちらも大好きである。
その素晴らしい精神力には憧れる。
しかし主人公たちがあまりにも酷い目に遭っていると、物語だと分かって居ても、その日一日気分が落ち込んでしまうので……どうしても避けがちである。
完結してから読もうと、ブックマークだけ付けた作品はかなりある。
毎日、更新だけはチェックして、完結を待ち侘びている。
打たれ弱すぎじゃないかと、陽菜子は自分でも思っている。
でも、仕方無いのだ。
だって……泣く!
もうやめてって泣く!
助かるまで気になって、気になって、気になって、講義の内容が吹っ飛ぶ!
物語だから割り切れ?
無理だからね!?
できたら苦労してないよ!?
と、こんな感じで……
まあつまりは陽菜子のメンタルはあんまり強くない。
弱メンタルと友人にからかわれることも多い。
周囲に流されやすく、物事を割り切ることも苦手である。
ただ、幸いなことに、長々と落ち込むことは少ない。
そこは良い所だと、友人家族にも褒められる。
切り替えが早い、流石元祖鳥頭、前向き脳天気……
ほめ……褒めてる?
褒めてるよね!?
とは思うこともあるが。
───家族と友人たちの本意は置いておこう。
とにもかくにもいま大事なのは、昨晩のお薦め物語がとても面白かったことである。一気読みして夜更かししないように、とアドレスと共に注意書きも付け足されていたが……その辺りはまあ見なかったということで。
(……眠い。けど、面白かった! 本にならないのかな。出たら絶対に購入するのになぁ……)
眠さを堪えつつ、陽菜子はたっぷりとマーマレードを付けた食パンを端から囓った。食パンはお気に入りの全粒粉入りでもちもちである。
このシリーズの食パンを陽菜子は愛している。
本日のプレーンなのも良いが、レーズンとナッツ入りも美味しい。
ただちょっとお高いので、毎日は厳しい。
本日有るのは、共働きの母親が仕事帰りに見切り品をゲットしてくれたので、鎮座ましまししていた。
(……あー、面白かったし、パン美味しいし、幸せ。お母さん、ありがとう!)
もっちもっちしながら、陽菜子は母親に心からの感謝を捧げた。
そうして、大学入学時に、一人暮らしとか無茶無理なことを希望しなくて良かったとしみじみと思った。
のんびりと育った自覚は、周りに言われなくても、陽菜子にもあった。
なので、バイトと学業でハードな一人暮らしは諦めたのだ。
一人暮らしはとても憧れた。
しかしそんなハードなことは、私にはまだ無理不可能だと。
(……次は、レーズンパンがいいなぁ)
もっちもっち。
陽菜子はお手軽な幸せを満喫していた。
そんな陽菜子を照らす窓辺からの明かりは結構明るい。
すなわち朝などとっくに越している。
だが陽菜子は慌てたりはしない。
本日、朝一の講義が休講で、一番遅い講義が予定に入っているだけだからである。
そうでなければいくら暢気な陽菜子でも、朝方まで延々とネット小説を読み進めたりは…………うん、するかもしれない。
それぐらいとても好みで面白かった。
特に、主人公をなんだかんだと導いてくれる師匠、強気で無敵で頼りになる幼女(成長停止の呪い持ち)魔法使いが良かった。
癖はあるけれど、優しくて、格好良かった。
呪いが解けた後、主人公と恋愛関係にはならずに、家族になったことは……
少しだけ、ほんの少しだけ残念だったが、それもまた良かった。
薦めてくれた友人には、念入りに感謝するべきであろう。
勿論、一気読みしたことは伏せて。
検索が苦手な陽菜子の代わりに、日々、せっせっと素晴らしい作品を見つけ出しては布教してくれることは大変有り難い。ラインで、感謝感激雨霰スタンプは連打しておいたけれど、それだけでは足りない気がする。
今度、好物の限定マカロンでも贈るべきかもしれない。
けれど、いまは、それよりも……
(あ、流石に、ヤバイ)
もっちもっちとのんびりしていた陽菜子は、キッチンの壁に掛けられた時計に目を向けて、少し慌てた。
そうして、朝ご飯兼お昼ご飯のもちもち食パンの最後の一口を、カフェオレでごくんと呑み込んだ。
(……美味しかった! よし、頑張ろう!)
ご馳走様でした、と陽菜子は手を合わせた。
そうして……
そうして……
そうして?
気が付いたら、陽菜子は、良く分からない白い場所に居た。
あまりにも訳が分からなくて、逃げることも出来ずに、呆然と座り込んでいた。
だって、本当に、突然過ぎたのだ。
周囲には白い岩。
狭くは無くて、とても大きい、洞窟?
でも、天井はとてもとても首が痛くなるほどに高くて。
奥行きもとてもとても広くて。
そうしてただの広い洞窟だと言うには、白くて綺麗過ぎた。
なんだろう。
まさしく光り輝くような。
あるいは神殿のような。
そんな洞窟だった。
そうして、凄いのは。
白い洞窟の奥で、青々と鎮座している【ナニカ】である。
(……うねうねしている……)
それがなんなのか陽菜子には、分からなかった。
動いているからきっと生き物だろう。
それぐらいのことしか分からなかった。
でも、青々と光り輝きながら、うねる生き物など。
遠くから見ても分かるほどに巨大なナニカなど。
知らない。
いや、現実では知らなくても……
物語の中でなら……
(……海外系で出て来る……宇宙生物?)
ホラースプラッタ関係が、陽菜子は苦手だ。
その気配があるだけで逃げてしまう程だ。
だから、海外系のバケモノ系に馴染みがなさ過ぎて、奇妙な生き物に関して、明確に言葉にすることはできなかった。
かろうじて思い出した言葉も、なんだか違う気がした。
もっとなにか言いようがある気がした。
でも出て来ない。
───ただ、どちらにせよ、訳が分からない事態であることに変わりは無かった。
───そうして多分とても危険な状態であることも間違いが無かった。
あるいはただの悪夢かも知れない。
でも悪夢にしても……続きはどう考えても、後味が良いものだとは思えなかった。
それに……
(……夢ジャナイ。夢ジャナイ。夢ナンカジャナイ)
夢なのだろうと思う度に、否定が湧いた。
胸の奥から、叫ぶようにして。
どうしてなのかは分からない。
でも、確信があった。
(……これは、夢なんかじゃない……)
こんなことが現実で起こるわけが無いのに。
でも、それでも……
これは……
すべては……
『…………なんだこの貧相な出来損ないは。こんな出来損ないが我が愛しの姫と同等だと? そんな馬鹿なことがあって堪るか!』
夢ジャナイ。
夢であるわけがない。
『……まったく忌々しい。結局、コレを使うしか無いのか。仕方無い、連れて行け。絶対に死なすな。死なせた場合は、関わった奴らを、血族ごと処分する』
夢なら、冷たいわけがない。
夢なら、痛いわけがない。
やめて。
やめて。
『……何処に? そうだな……花嫁として捧げるには、純潔は必須だ。忌々しいが、仕方無い。後宮に放り込んでおけ。手出しをしようとする者は、すべて殺せ』
引き摺らないで。
やめて。
やめて。
やめて。
帰して。
うちに帰して。
『……どうしてこんな貧相な女の世話をしなくちゃいけないの! まともに大陸共通語を話すこともできない蛮族如きが、どうしてこんな所に居るのよ!』
『殺したら駄目なんですって。ああ、忌々しい』
『皇子は、なにをお考えなのかしら……まさか、こんな女を気に入ったなんてことは無いでしょうね……』
『まさか。皇子は、神子を溺愛されているもの……でも、ここ最近、あまりお会いになってないって…………』
言葉が、分かるのに。
どうして、通じないの。
やめて。
やめて。
帰して。
ここは何処なの。
お母さん。
お父さん。
お兄ちゃん。
あーちゃん。
お爺ちゃん。
お祖母ちゃん。
助けて。
助けて。
助けて……
『…………まあ、なんて見窄らしい……どうしてこんなみっともない女がこんな所に居るのかしら?』
周囲は、みんな綺麗だった。
見たことが無い程に綺麗だった。
輝くような金髪の持ち主が多くて。
海のような真っ青な目の人が多くて。
肌が陶器のように滑らかで白くて。
でもみんな、恐ろしくて、怖かった。
冷たい目で、虫を見るような目で見て、酷いことを言う。
酷いことをする。
やめて。
やめて。
やめて。
やめて。
やめて…………
はっと、陽菜子は我に返った。
意識が飛んでいた……気がする。
そうして、なんだかとても嫌なことを思い出していた気がした。
そう物凄く嫌なことを。
とても怖いことを。
でも……
(……思い出せない……)
ぼんやりとしていて、うまく思い出せなかった。
無理に思い出そうとすると気持ちが悪くなった。
(……どうしよう……)
なにかがあったらしい。
とても嫌なことが。
でも思い出せないから、どうしてこんな所に居るのかが分からない。
どうしたら良いのかも分からない。
(……ともかく、たぶん、離れた方が……いい?)
遠くに居る青いのは、動かない。
うねうねしているけれど、其処に居る。
ということは、陽菜子には気付いていないのかもしれない。
陽菜子は、周囲を見回した。
背後も岩で、出口みたいな所は無かった。
けれど、隠れることが出来そうな大きな岩が端っこにあったので、なんだか酷く重い身体を引き摺るようにして、その後ろにとりあえずは隠れてみた。
(……疲れた……)
僅かな距離しか歩いていない。
でも、陽菜子は、もうへろへろだった。
もう一歩も歩けない気がした。
そうして……歩きたいとも思えなかった。
怖いけれど、でも、なにがなんでも逃げようという気持ちが、どうしても湧いて来なかった。
(……おとうさん……)
帰りたい。
うちに、帰りたい。
家族の所に、帰りたい。
でも、帰れないと、そんな風に、なぜか分かっている。
諦めている。
(……おかあさん……)
家族は、陽菜子に無条件で優しいわけではなかった。
意見が合わないこともあったし、喧嘩もたくさんした。
特に、のんびりしている陽菜子と、きびきびしている母親の相性は良くなかった。
もっとしっかりしなさい。
もっと将来のことを考えなさい。
いつまでもだらだらしていないの!
母親の言うことは最もだったが、煩わしいとも思っていた。
私には私のペースがあるのに、とも常々思っていた。
でもいまは……
(……おかあさん……)
お母さんの声が聞きたい。
もっとしっかりしなさいって言って欲しい。
頑張れって言って欲しい。
お母さんが頑張れって言ってくれたら……きっと、もう少しだけ頑張れる。
でも、どれだけ望んでも、声は、聞こえない。
そうしてお母さんの声は聞こえないのに…………
───………………
なにかが、聞こえた気がした。
声じゃない。
でもなにか良く分からない。
いままで聞いたことがない【ナニカ】だった。
───………………
なんだろう?
でも、もう疲れた。
凄く疲れている。
眠ってしまいたい。
なにも考えたくない。
とても疲れているの。
───………………
でも呼ばれている?
たぶん、呼ばれている気がする。
何回も何回も。
多分必死に。
だから、仕方無く、いつのまにか閉じていた目を、陽菜子は開けた。
そうして、気が付かない内に、周囲が随分と明るくなっていることに気が付いた。
まるで光りの、青い光りの、洪水の中に、居るように…………
(……え、なにこれ?)
ぽかんと陽菜子は口を開けた。
ぼんやりしていたから気付かなかった周囲の変化にやっと気が付いて、呆然とした。そうして【ソレ】を見上げた。
ソレ、遠くに居た筈の、青いうねる巨大な【ナニカ】は、陽菜子のすぐ近くに居た。もう本当に、少し腕を伸ばしたら、触れてしまうような位置に。
───………………
それはとてつもなく大きかった。
視界の端から端までも埋め尽くしていた。
青い水晶のような色合いの、うねうねとうねるたくさんの触手が、陽菜子の視界のすべてを埋め尽くしていた。
そうしてソレの、多分中心が、ぴかぴかと点滅していた。
青い光りを生み出して、うねっていた。
───………………
陽菜子は、驚いて、しかし、逃げなかった。
悲鳴も、上げなかった。
本当に驚いてはいた。
だが驚き過ぎて、あるいは疲れ過ぎて、なにかが突き抜けてしまった。
あるいは、ただ、諦めただけかもしれない。
(……もう、いいや……)
なんだかもう駄目だった。
駄目駄目だった。
『…………なんだこの貧相な出来損ないは。こんな出来損ないが我が愛しの姫と同等だと? そんな馬鹿なことがあって堪るか!』
『……まったく忌々しい。結局、コレを使うしか無いのか。仕方無い、連れて行け。絶対に死なすな。死なせた場合は、関わった奴らを血族ごと処分する』
『……何処に? そうだな……花嫁として捧げるには、純潔は必須だ。忌々しいが、仕方無い。後宮に放り込んでおけ。手出しをしようとする者は、すべて殺せ』
『……どうしてこんな貧相な女の世話をしなくちゃいけないの! まともに大陸共通語を話すこともできない蛮族如きが、どうしてこんな所に居るのよ!』
『殺したら駄目なんですって。ああ、忌々しい』
『皇子は、なにをお考えなのかしら……まさか、こんな女を気に入ったなんてことは無いでしょうね……』
『まさか。皇子は、神子を溺愛されているもの……でも、ここ最近、あまりお会いになってないって…………』
『…………まあ、なんて見窄らしい……どうしてこんなみっともない女がこんな所に居るのかしら?』
どうしてか、心が、もう疲れ切っていた。
もう駄目だと、もう嫌だと、もう終わりたいと思った。
覚えていないけれど、きっと、なにかがあったのだろう。
思い出そうとすると気持ち悪くて、さっぱり思い出せないけれど。
とにもかくにも、もう駄目だった。
だから、目を閉じた。
諦めて、終わりを受け容れた。
ただ、痛いのは嫌だなと思った。
けれど……
───………………! ……! ……!
ふよん。
不思議な感触がした。
柔らかくてもちもちで暖かだった。
───……! ……! ……!
きっと怖いことになる。
そう思っていた。
痛いのは嫌だから、殺すなら一息が良い。
終わるなら、一瞬が良い。
そんなことを思っていたのに。
ふよん。
ふよふよ。
ふよよよよよん。
ふよ、ふよ、ふよよよよよん。
「……あたたかい…………」
あまりにももちもちで暖かくて、陽菜子はつい目を開けてしまった。
そうして、見た。
陽菜子に触れているモノを。
ふよん。
ふよふよ。
ふよよよよよん。
ふよ、ふよ、ふよよよよよん。
それは、間違い無く、異様なモノだった。
青いナニカから伸びて来た、人間の手ぐらいの大きさの触手は、有り得ない、恐ろしい、得たいのしれないモノの筈だった。
でも……
同時に、とても柔らかくて暖かくてもちもちだった。
ふよん。
ふよふよ。
ふよよよよよん。
ふよ、ふよ、ふよよよよよん。
頬を、額を、首筋を、それは撫でていった。
痛くは無かった。
少しだけ、怖いけれど。
痛くも無いし、冷たくも無くて…………
それに……
───……! ……! …………!
どうしてだろうか。
とても……心配されている気がした。
「……あたまがおかしくなっちゃったのかな……」
ぼんやりと、陽菜子は呟いた。
「……ふふ、心配してくれているの? まさかね……」
そんなことがあるわけがない。
陽菜子を、訳の分からないナニカが心配するなんて、有り得ない。
そんなことは、とろい陽菜子にだって分かる。
きっと、いま、痛いことをしないのは、餌の状態を確認しているだけだろう。
でも、こんなにもちもちで柔らかくて暖かいなにかに、包まれて、終わるのは………悪くは無い気がした。
あとは痛く無ければ嬉しい。
痛いのは嫌。
暗いのも嫌だった。
「……殺すなら、一瞬でお願いね……もう痛いのは嫌なの……」
陽菜子は、青いナニカに嘆願した。
理解なんてしてくれないだろうと諦めながらも、あまりにも柔らかくて暖かくてそっとそっと壊れ物のように触れるから……
もしかしたら願いを叶えてくれるかもしれないと、馬鹿馬鹿しいと分かっていても、ほんの少しだけ期待して、願わずには居られなかった。
「……おねがい……」
陽菜子が願うと、青いなにかは一際強く輝いた。
そうして、陽菜子は、もちもちふわふわな青いなにかに包まれた。
それは、恐ろしいことの筈だった。
泣き叫んで当然のことだった。
けれど陽菜子は、ほっと息を吐き出した。
(……やっと……おわる…………)
【1/恐ろしい真実に気付いてしまったけれど、どうしよう?】
【彼】は、ある日、唐突に、この世界に居た。
正確には、魔力に満ちあふれた、深い深い緑の奥に。
存在していた。
それは本当に唐突なことだった。
そうして彼に、事態を説明してくれる存在は、何処にも居なかった。
けれど、彼は、自分がどんな存在であるのかを把握していた。
誰に教えられるまでもなく、理解していた。
世界の流れを滞りなく循環させる為に、そうして、世界に住む生き物たちの魂を成長するように促し導く為に、存在するモノだと。
そういった存在に対して、彼は、明確な名前を知っている気がした。
在るべき、目指すべき正しい姿を……知っている気がした。
けれどどうしてかうまく思い出せなかった。
───忘れていた。
それはとても不可解なことだった。
とても大切なことの筈なのに、忘れるなんてことが在るのだろうか?
そんな不具合が起きるなんて、おかしかった。
彼はそんな脆弱な存在では無い筈だった。
そもそも彼は、どうにも妙な違和感を感じていた。
───どうして自分は【この世界】に居るのだろうか?
そんな風に強く思うのだ。
ここに居るべきではない気がして、仕方無かった。
けれど、そんなことを思うなど、おかしなことの筈である。
彼のような存在は、【世界】に付属している。
だから、他に帰るべき場所など存在する訳が無い。
それに、実際、彼という存在は、この世界に繋がっていた。
他との繋がりは、無かった。
ならば……彼が在るべきはこの世界なのである。
絡みつくような違和感は無くならなかったが、彼は、そう結論付けた。
そうして、もうそのことについて、深くは考えなかった。
答えの出ない問題に耽るよりも、彼には為さなくてはならないことがあったからである。
彼は、彼らは……
世界の流れを滞りなく循環させて。
世界に住む生き物たちの魂を、成長するように促して導かなくてはならなかった。
そうしてその為には、彼の周囲で、ぼうっとしている彼と似たような存在たちを、なんとかしなくてはならなかった。
彼だけでは、その仕事は勤められない。
仲間たちの助けが必要だった。
けれどその大切な仲間たちは、どうしてか酷く弱っていた。
意識も力も形もふやふやだった。
生まれたてなのだろうか?
けれどそれにしてはなにかがおかしかった。
だが、原因を探る余裕など無かった。
仲間たちは、放っておいたら、ふわふわと消滅してしまいそうだった。
───待って!
───消えないで!
───お願いだから!
───消えないで!
彼は、大慌てで、仲間たちを必死に引き留めた。
呼んで、叫んで、自らの力を分け与えて、癒した。
とても大変だった。
仲間たちがなんとか安定する頃には、疲弊し過ぎて、今度は彼が消えてしまいそうになるほどに、とてもとても大変だった。
そうして、彼は、波瀾万丈の始まりをなんとか乗り越えて、なんとか元気になった仲間たちと一緒に、為すべきことを始めた。
彼が居る世界は、とても滞っていた。
歪でとても不安定だった。
だから大急ぎで、世界の流れを循環させて、成長を促した。
だが、暫く経つと、彼を含む仲間たちは、心底から嫌になってしまった。
疲れ果ててしまった。
この世界の住人たちは、誰も彼もが実に身勝手だった。
しかも、手助けしてもしても、いつまで経っても誰も成長しなかった。
魂が未熟なままだった。
どれだけ頑張って導いても諭しても、まったく駄目だった。
彼らのことを、住人たちは、敬った。
神だと、崇めた。
でも、最初は敬っても、すぐに駄目になった。
彼らが教えたことの中から、都合の良い所だけを切り取って、彼らの導きを悉くねじ曲げた。
そうしていつまで経っても魂が育たないから、世界の循環は滞り、世界の壁も脆いままだった。
だから、たまに穴が空いて、大変なことになった。
穴が空いたら、なにもかもが吹き飛んでしまうのだ。
つまりは、地上のほとんどが駄目になって、一からやり直しである。
がっかりである。
そうしてそれは、一度や二度のことではなかった。
そんなことが、幾度も幾度も、数え切れないほどに繰り返された。
これでは、やる気など出るわけが無い。
彼は、うんざりした。
仲間たちも、うんざりした。
世界のすべてが、疎ましくて仕方無かった。
この世界を、彼は、愛している筈だった。
彼らはそういう存在の筈だった。
でも、どうしても愛せなかった。
とにもかくにも───うんざりだった。
ゆえに、彼は、仲間たちと一緒に、引き籠もることにした。
最低限の勤めは果たすけれど、後は放置することにした。
そう決めて彼らが動き出すと、世界が大きく荒れて、たくさんの生き物が死んだけれど、彼は、もうまったく気にしなかった。
どうせまた直ぐに穴が空いてやり直すのだ。
ならば、気にすることでも無かった。
そうして、彼は、仲間たちと引き籠もると同時に、門番を引き受けた。
世界は循環させなくてはならない。
だから完全に引き籠もることは、流石にできない。
つまりは、いつまで経っても成長しない生き物たちが居る場所と、彼らが引き籠もった場所を、完全に断ち切ることは無理ということである。
だから、仕方無く、彼らは、循環の為に、入り口を一つだけ残した。
其処が、彼の居場所となった。
そうして、門番となった彼の所には、ごく稀に訪れる者があった。
ちなみにどいつもろくでもなかった。
引き籠もった神の加護を求めて、神官が。
神の力を力尽くで得ようと、戦士が。
神など居るものかと、居るなら狩ってやろうと、狩人が。
世界の神秘を学ぶ為に、魔術師が。
───様々な者が【神】の力を求めて訪れた。
但し、彼の姿を見ることができる場所にまで辿り着く者は、滅多に居なかった。
彼が常に周囲に放っている濃厚な魔力に耐えられる者は、中々居ないからである。
よって、大抵が、入り口に辿り着くことさえも出来なかった。
そんな中で、彼を最も煩わせたのは、【生贄】であった。
ちなみに彼には不要なモノで有る。
物凄く要らなかった。
求めたことなど一度も無い。
しかし、勝手に送りつけられる。
そうして、死ぬ。
壊れる。
崩れる。
潰れる。
飛び散る。
自力で来るのならば、壊れる途中で、近付くことをやめることも出来るだろう。
だが、魔方陣で強制的に送りつけられる生贄には、やめるという選択肢など有りはしない。一気に彼に近付いて、一気に壊れて、門を穢した。
大変汚かった。
大変不愉快だった。
なので、生贄を幾度か送りつけられた後、彼は、無駄だろうなと思いつつも、やめろと拒絶を示した。
具体的には、かろうじて奇跡的に生き残った生贄の一人に、無意味で無駄なことはやめるようにと伝えて、帰したのである。
しかし、そうしたら、生贄が、
増えた。
送り返したことで、送った生贄は気に入らなくて、不興を買ったと……思われたらしい。ついで、かろうじて生き延びたので送り返した生贄は、殺された。
神に送り返された生贄には、生きるという選択肢は与えられなかったのだ。
───彼の元にまで辿り付くことができた、とても希有な資質の持ち主だったというのに。
───そうして生き残った生贄は、彼の言葉を曲解せずに、正しく伝えたと言うのに。
───殺された。
そうして、正しく伝えられた筈の彼の言葉は、またしても、ねじ曲げられた。
彼は、さらに、不快な気分になった。
そうしてますます地上に生きる生き物たちが嫌いになった。
どいつもこいつもろくでもないというのが、彼の最終的な結論であった。
だが、門は閉ざせない。
けれど関わりたくはない。
その煩悶の末、彼は、人の型を捨てることにした。
彼が人型を取っていると、勝手に、人に近しい存在だと、同じような考えを持っていると、色々と勘違いするからである。
美しい神を妻として手に入れようと押しかけて来たり。
反対に、妻にどうぞと女の生贄が増えたり。
非常に、人の型は、面倒だった。
かといって、ドラゴンの姿を取ったら、今度は、鱗や血を目当てに、目の色を変えてなんとか殺そうとする。
…………面倒だった。
本当に面倒だった。
その面倒な気持ちの末に、彼は、目も、口も、耳も、無くした。
勿論、無くても彼に支障はない。
外側の形など、彼にとっては無意味なものだ。
だが、人型たちは、目も、口も、耳も、なにもかもを無くした彼の姿を見て、話し掛けることが無くなり、勝手に意思疎通が難しいと判断するようになった。
実に良いことであった。
彼は、ほんの少しご機嫌になった。
そんな彼を見て、仲間たちも似たような姿を喜々として取り始めたのは誤算だったが、まあ楽しそうだからいいかと彼は流した。
そうして、淡々と淡々とつまらない時間はたくさん流れた。
変化はなにも無かった。
生き物たちの魂は粗野なままで。
世界の壁は脆いままで。
歪な世界を、彼と仲間たちは愛せないままで。
時間だけが過ぎた。
そうして、ある日、いつものように、生贄が彼の元に送られて来た。
相変わらず、了承無く、一方的に。
但し、今回の生贄は、届いた瞬間に弾けたりはしなかった。
───珍しい。
彼が、最初に抱いた気持ちは、その程度のものだった。
だが、直ぐには弾けなくても、どうせ直ぐに死ぬだろうと彼は思っていた。
生贄は酷く弱っていたから、長くは保たないだろうと。
けれど、なんとなく、なんとなく、違和感を感じた。
今回の生贄は、いま地上に生き残っている人型の中でも、最も愚かな種族の形を取っていた。
しかしそれにしては……
───魂が、美しかった。
但し、美しい魂は、とても傷ついていた。
いまにも砕けて壊れて消えてしまいそうだった。
哀れだと、彼は思った。
これほどに美しい魂なのにと惜しんだ。
そうして、強い既視感を抱いた。
こんな風に傷ついた美しい魂を、彼は、何処かで……
何処かで、見たような?
そう、昔、昔、昔に………
───似ていた。
彼は、はっと思い出した。
その魂の傷つき方が、かつての仲間たちと同じであることに。
初めて出会った時の仲間たちと、良く似ていることに。
───どうして?
───なぜ?
彼は、疑問を抱いた。
───どうして、こんなにも、似ているのだろうか?
───どうして、仲間たちと同じ傷を?
───それにそもそもどうしてこんなに美しいのか?
───この世界に、こんなにも美しい魂がいつ生まれたのだろうか?
強い疑問を抱いて、弱った小さな生き物を、彼は、観察した。
そうして、弱った生き物の根本的な異質さに気が付いて、この世界の外の気配を感じ取って、疑問への答えを、得ることが出来た。
確証は無い。
証拠も無い。
けれど、その答えは、とても納得がいくものだった。
前々から感じていた違和感も、その答えが正しければ、当然のことだと納得もできた。
目が覚めた時に感じた、強い違和感に。
出会ったばかりの頃の仲間たちの、おかしな様子に。
世界をどうしても愛せない、違和感に。
当然だと頷くことが出来てしまうのだ。
それはある意味ではとても残酷な話しだった。
出来れば違っていて欲しい。
だが、間違いだと断定する証拠も無かった。
(……もしかしたら、私たちは…………)
予感と畏れを感じながら、彼は、ソレに、そろそろと、近付いた。
ソレは、彼が近付いたことには、まったく気付いていなかった。
小さな身体を岩に凭れさせて、ぐったりとしていた。
異質な魂を放置はできない。
しかし彼は、この世界に紐付けられている存在でしかない。
世界の外には、手を出せない。
ではこの哀れな魂は、どうしたら良いのだろうか?
「…………かえりたい………」
思案している彼に、声が届いた。
とても小さな掠れた吐息のような声だった。
あまりにも儚い声だった。
けれど声に含まれた想いはとても強くて……
そうして、その強い思いが、哀れな魂に残されている細い細い細い糸を辿って、想いの先へと、世界の外へと、流れていって…………彼の答えの正しさをさらに裏付けた。間違い無く哀れな魂は、外から来た存在だと示した。
糸は、所属を示している。
この世界の生き物すべては、この世界に繋がれている。
彼だとて例外ではない。
けれど、ソレは違った。
ソレの糸は、世界の外へと向かっていた。
つまりは、ソレは、この世界の生き物ではなかった。
どこか遠い遠い世界から【訪れた】生き物だった。
───いや、違う。
ソレに纏わる魔力の痕跡を辿って、彼は知った。
(……なんてことを……)
ソレは、この世界に、自分から、訪れたのではなかった。
うっかりと入り込んだわけでもない。
引き摺り込まれたのだ。
無理矢理に、力尽くで。
遙かな高みから。
だから、こんなにも、魂がずたずたなのだ。
(……ああ、ああ、なんてことだ……)
そうして、哀れなソレと、仲間たちが、かつて同じような傷を負っていたということは……つまりはそういうことなのだ。
哀れなソレと、彼と、仲間たちは、きっと、一緒なのだろう。
引きずり込んだ相手は違っても、きっと、一緒なのだろう。
どこからか……無理矢理に連れ浚われて来たのだ。
(……なんてことだ……)
誰が、どうやって、そんなことを。
嘆きと怒りが、彼の中に渦を巻いた。
そうして、強く、望みを抱いた。
帰りたいと。
帰りたい。
こんな世界になど居たくない。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい!
でも……
(……帰れない……)
愚かではないので、彼は、足下を見失ったりはしなかった。
激情と嘆きに流されたりはしなかった。
目の前の哀れなソレと違い、彼の糸はもうこの世界に堅く結びつけられていた。
こうなっては、元の世界を辿ることさえできない。
ならば、帰ることは……出来ないだろう。
少なくとも、彼には、どうしたら良いのかさえ分からない。
彼は、現実を理解して、深く、絶望した。
そうして、この苦しみと絶望を与えた存在を、強く憎んだ。
けれど、分かって居た。
世界を行き来するような存在には、彼は、一矢を報いることさえできないと。
理性ではなくて本能で知っていた。
目の前のソレをこの世界に引きずり込んだような矮小なモノならば、なんとでもなった。
だが、そもそもそんな矮小な存在ならば、彼と彼の仲間たちを、引きずり込むことなど出来るわけがない。ましてや彼らの記憶まで消している手際を見れば、格上過ぎる相手だということが分かる。
理不尽で残酷なことをしでかした相手に負けを認めるのは悔しい。
けれど、勝てない。
それが現実だった。
口惜しく、情けなく、哀しかった。
帰りたかった。
帰りたかった。
きっと、仲間たちも、このことを知ったら、同じように思うであろう。
けれど帰れない絶望など教えたくは無いから、こんなことはとても……
「…………おかあさん…………」
か細い声が、彼を、はっと我に返らせた。
ついで、彼は、とても焦った。
泣いて、嘆いて、ソレの魂はふるふると震えていた。
彼と同じように。
けれど彼より、ソレの状態は遙かに深刻だった。
ソレは、ソレの魂は、いまにも崩れてしまいそうだった。
(どうしたら……)
わたわたと彼は動揺しながら身体を震わせた。
助けてやりたかった。
哀れで、そうして、同じだから。
けれど、あまりにも脆そうで、触れるのが恐ろしい。
(どうしたら……)
仲間たちに助けを求めるべきかもしれない。
彼よりも優しく癒すことのできる仲間を呼ぶべきかもしれない。
だが、仲間を一柱呼べば、他の仲間たちも駆け付けて来るだろう。
なにがあったと心配して、必死に。
そんなことになったら、全員に、なにもかもがばれてしまう。
彼と仲間たちが、どんな存在であるのかが。
(どうしたら……)
ああ、ああ、ああ、と彼は身悶えた。
仲間と哀れなソレとの合間に挟まれて、ぐるぐると悩んだ。
けれど、結局の所、彼は……諦めた。
どうしてもどうしても見捨てられなかったから、諦めた。
ふるふると震える小さなソレは。
彼らのように、元々強いわけではない。
最初から美しいわけではない。
長い長い時とたくさんの試練を乗り越えて、美しく育った魂だった。
循環の中で、生まれ育った愛しい魂だった。
彼が居る歪な世界には、このような魂は存在しない。
けれど彼は、本能で知っていた。
こういった魂こそを、彼は、望んでいるのだと。
こういった魂に育て上げることこそが、彼の役割だと。
こういった魂を愛することが、彼の本質だと。
ならばどうして見捨てられるだろうか。
歪な汚い世界に、ぽつりと一粒。
あまりにも美しい、一滴。
堕ちて来た哀れなソレを、彼は、慈しまずにはいられなかった。
長い長い時、失望の中に居たから、尚更である。
その上、ソレならば……
(……帰れるかもしれない)
いまだソレと元居た世界を繋ぐ糸は切れてはいない。
彼らとは立場が違う。
存在自体の大きさも違う。
小さいソレならば、世界を移動する際の余波も小さいだろう。
ならば、帰してやれるかもしれない。
そう思ったら、もう駄目だった。
助けてやりたくて。
愛しくて。
切なくて。
どうしようもなかった。
───……き、緊急事態発生!
───大変、大変なことが起きた!
彼は、仲間たちに呼び掛けた。
助けると決めて、全力で。
───えっっ!?
───なになに?
───どうしたの?
───緊急!
───なにがあったの!
───大丈夫か?
仲間たちはすぐに、思念を返してくれた。
なので、彼は、仲間たちに、いまの状態を教えようとして……
(……あ……)
ソレが、彼に気が付いたことに気が付いた。
ソレは、黒い目を見開いて、彼を見上げていた。
(……あ、しまった……)
彼は、分かって居た。
自らのいまの姿が、人型にとってはとても恐ろしいことを。
わた、わたわたわたと彼は焦った。
───大丈夫!
───私は、味方だよ!
彼は、慌てて、告げた。
そんな彼に、ソレも、なにかを告げた。
でも、分からなかった。
分からなくなっていた。
先ほどまでは理解出来ていたのに、なにかがずれた。
あるいは、ソレが弱りすぎた所為かもしれない。
どちらにせよこんな時に!? である。
(ぎゃー、言葉が通じない!?)
言葉など彼にとって通じて当然だった。
けれど、その当たり前も、異なる世界の者には、通じなかった。
最悪だった。
(ああああああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう!?)
わた、わたわたわたわたと彼は焦った。
けれど彼の畏れとは裏腹に、ソレは、叫んだり怯えたり逃げようと暴れたりはしなかった。驚いたが、それだけだった。
ソレは、もう、諦めていた。
生きることを、足掻くことを、すべてを。
(……大丈夫、大丈夫だから!!)
彼は、叫んだ。
けれど、届かなかった。
ほろり、とソレの端が欠けた。
ほろほろ、ほろほろと。
かつて、初めて出会った仲間たちと、同じように。
魂が。
崩れていく。
───ああ、ああ、ああ!
───諦めないで!
───諦めないで!
───帰れるよ!
───君は、帰れる!
───私たちとは違うのだから!
───助けるから!
───壊れないで!
彼は、混乱のただ中に居た。
かつての仲間たちを失い掛けた時のトラウマを掘り返されて、刺激されて、もう、半狂乱だった。
そうして、混乱の中で、彼は、かつてと同じように……
ぱかりと口を開けて、ソレを、身の内に…………
青々とした腹の中に……
取り込んだ。
【2/災いの始まりを告げる使者】
その日、大陸の要、誉れ高きパルアガス魔術帝国のロタ第一皇子は、父である皇帝からの呼び出しを受けた。
帝国の皇帝からの直々の呼び出しとなれば、極一握りの者を除いて、畏れ多いと怯えるようなことである。
ましてや、パルアガス魔術帝国の現皇帝と言えば、ただの皇帝ではない。
長命かつ強大な魔力を併せ持つとして、神々の寵愛を受けし王の中の王として、自国の者からは勿論、他国の民からも、崇められている存在である。
しかし、ロタ第一皇子にとっては、偉大ではあるが、実の父である。
皇帝からの突然の呼び出しにも、畏れなどは抱いては居ない。
ただ、大変忙しい時期なので、厄介なことでは無いように強く願っては居た。
(……森の民?)
けれど、呼び出された皇帝の私室に、珍しい客人の姿を見掛けて、自らの願いが叶わないらしいという予感を抱いた。
森の民、それは、まさしくそのまま森に住む種族のことである。
長身で細身、磨き上げられた黄金のような髪、深く濃い青色の双眸、白く滑らかな陶器のような肌。それに、なによりも特徴的な、長く尖った耳。
大陸中の富を集めた皇帝の私室で、皇帝の正面に座する青年は、森の民の特徴をすべて兼ね備えていた。間違い無く、森の民である。
───奥深い森に住む者が、こんな所に居る。
───厄介ごとでない訳が無い。
(……式の準備が遅れなければいいが……)
麗しく愛しい婚約者のことを思い起こして、ロタは心中で深く溜息を吐き出した。
但し、皇族の当然の習いとして、表に出すようなことはしない。
だが、
「……この世で最も罪深き者が来たか。それとも、最も不運な者と呼ぶべきか」
森の民の、挨拶の口上も無しの不躾な言葉には、顔を顰めずには居られなかった。
当然のことである。
この帝国では、森の民はある意味では特別ではある。
皇族に、森の民の姫君が嫁いだことがあるからだ。
皇族の魔力量が多いのは、森の民の血を引くがゆえの恩恵であり、つまりは、パルアガス魔術帝国がいま在るのは森の民のお陰でもあると言えた。
よって、パルアガスでは、森の民は特別扱いされている。
だがしかし無礼の全てを許すということでは決して無い。
「父上、こちらの方はどなたですか?」
父、皇帝の回答によっては、徹底的に痛めつけてやろう。
当然の報復を胸に、ロタは皇帝に問い掛けた。
「……ロタよ。その方の話しを聞け。すべてはそれからだ」
森の民の正面に座っていた皇帝は、ロタの問いには答えてはくれなかった。
代わりに、憂いを含んだ青い眼差しをロタに向けて、溜息のような声で、予想外な言葉を告げた。
魔力の多い者は、寿命も長い。
ロタの父も、長くを生きることが約束されており、その見掛けは、若々しいままだ。ロタの父と言うよりは、ロタの兄のような外見をしている。
だがいまは……酷く、年老いたように見えた。
磨き上げられた黄金のように輝かしい筈の金髪も、どこかくすんでいるようにさえも見えた。
(……これは、一体、何事が……)
最大限の警戒を持って、ロタは森の民を見た。
森の民は、冷え冷えとした冷たい眼差しでロタを見返した。
格下の、矮小な存在を見るような眼差しであった。
そんな蔑むような眼差しで見られることなど、ロタは初めてだった。
「……五年前、おまえは、この世界のすべてを破滅に追いやる罪を犯した。神子とは名ばかりの愚かな女の身代わりとして、尊い方をこの世界に引き摺り込んだ。神は、おまえの蛮行に深くお怒りだ」
「……なんのことですか? 身に覚えがありません」
「とぼけて……いや、分かっていないだけか。おまえが神子の身代わりにした者は、辺境の蛮族の民などではない。神の愛し子だ」
「……馬鹿馬鹿しい。そのようなことがあるわけがありません。あのような見窄らしく、弱く、醜い者を、神が愛されるわけがない」
なにを言うのかと身構えていたら、馬鹿馬鹿しい話しだった。
森の民は、なにか勘違いをしている。
あるいは、誰かに騙されたのだろう。
(……神殿の奴らか?)
まもなく、ロタは、神子と、いや、元神子と婚姻する。
それを破談にしようとしつこく画策しているのかもしれない。
懲りない奴らである。
「誤解があるようです。貴方にくだらない嘘を吹き込んだのは、神殿の者たちですか?」
「……いいや、神そのものだ。我らにとって、この国の神殿など、真実など何一つ知ろうとしない愚か者たちの巣窟でしかない」
「……神殿に対する見解は一致しているようですが、あの見窄らしい女に対する見解が一致していないことは残念なことです。陰鬱で汚らしい黒髪に黒目と、黄色がかった気持ち悪い肌を持ち、その上で、大陸共通語を話すことも、魔術の一つを使うこともできない者だと、お分かりになっていますか?」
あのような醜女が【神の愛し子】などであるわけがない。
正確な情報を渡せば、森の民も納得してくれるとロタは信じていた。
だが、森の民は、詳細を嘘偽り無く伝えたロタを強く睨んだ。
「……ここまで、愚かな考えに染まっているとはな。特定の容姿だけを美しいと断じていることは知っていたが……愚か者め。金の髪も、青い目も、白い肌も、神が求めた美ではない。神は、表面だけの美しさなど、気にも留められない」
そもそもと【美しい】森の民は、吐き捨てるような口調で続けた。
「神の好みなど、誰が確かめたのだ? この国に存在する誰が、神と接触できると言うのだ。そういえば、皇族は神に愛されているなどという妄言が広がってもいるようだが、まさかそれを信じているのか? お前のことなど、いや、この国のことなど、神はまったく特別視されていなかった。精々、望んでも居ない生贄を送りつける煩わしい蛮族扱い程度であっただろうな」
ロタは、男の言葉を直ぐには理解できなかった。
有能なロタが理解を一瞬拒むほどの、暴言であった。
あまりにも無礼であった。
「父上、このような無礼者は……」
「長の言うことは事実だ。神は、我らを愛されてはいない」
「……ちち、うえ?」
「我らが、魔力が強く、長命なのは、森の民の血を引くからだ。ただそれだけである。しかも、その魔力も、長命も、森の民にはまったく及ばない。それなのにいつのまにか、周囲が勝手なことを言い出しただけだ。……そのような当然のことは、理解していると思っていた。まさか、あのような妄言を、信じているとはな」
ロタが生まれた時から刷り込まれた価値観を、皇帝自らが、真っ正面から否定した。あまりのことにロタはよろめいた。
(……どういう、どういうことだ!?)
ロタは決して無能では無かった。
無能では無かった筈だった。
だが、いまは、どうしたら良いのかさっぱり分からなかった。
足下がぐらぐらと揺れているような心地だった。
「……他にも色々と言いたいことはあるが、だが、最早今更な話しだな。なにを言っても、なにをしても無意味だ。……神はお怒りだ。神の怒りを静める方法は存在しない。世界には、これから、多くの苦難が降り掛かる」
このままではまずい。
なんとかしなくてはならない。
それだけは、ロタは理解した。
「知らなかったのです! 神の愛し子だと知っていたら、丁重に接しました!」
神の怒りを買った。
それが正しいのならば、なんらかの神罰が下されるのだろう。
なんとか回避、あるいは軽減しなくてはならなかった。
必死に事態を変えようと足掻くロタを、森の民は、静かに見やって、首を横に振った。
まるで、なにも分かって居ないとでも嘆くかのように。
「もう、すべては遅い。そもそも、おまえがなにを考えていたとしても、なにを知らなかったとしても……考慮などされるわけがない。すべては無意味なのだ。ここでこうして話していることさえも……なにもかもが……」
「本当に知らなかったのです!」
「……愚かな子よ、神にはそのようなことは関係無いのだ。おまえが、辺境の蛮族のことなどどう扱っても構わないと判断したように、そうして、おまえの婚約者の身代わりとして、我々森の民の娘を狙ったように」
「───!」
ばれていた。
暴かれていた。
確かに、ロタは、森の民も狙っていた。
いや、むしろ、森の民こそを狙っていたと言うべきだろうか。
皇族に匹敵するほどの魔力量を持って生まれた神子の身代わりにするのならば、同じあるいはそれ以上の魔力量は必須である。
だが、そんな存在は、人間には、滅多に存在しない。
けれど元々魔力量が多い森の民であれば……
「おまえの婚約者を、辺境の蛮族が同じように扱ったとして、おまえは話しを聞くのか? 聞くわけが無い。そんな必要も無い。ただ、踏み潰すだけだ。そうであろう?」
「……それは……」
「神にとって、我々は、煩わしい羽虫の如き存在だ。その羽虫の一匹が、不興を買ったのだ。もはやどうすることもできぬ。ただ、神の怒りが、通り過ぎるのを待つしか無い」
森の民は、ふうと溜息を吐き出した。
そうして、ロタの父、皇帝を見やった。
ロタを見るのとはまったく違う優しい眼差しだった。
「……おまえは、どうする?」
「父上と母上が残された場所です。ここで終わろうと思います」
「……そうか」
ロタの前で、ロタには良く分からないやり取りが交わされた。
ロタを置き去りに、ロタを見捨てて。
父上、とロタは掠れた声で問い掛けた。
だが、父は、振り返ってはくれなかった。
「もう二度と会うことはあるまい。おまえの旅の終わりが、出来うる限り静かなものであることを祈る」
「……ありがとうございます。長……御爺様の旅の終わりも、出来うる限り静かなものであることを祈ります」
呆然と立ち尽くすロタの前で、森の民と皇帝は、立ち上がり、抱擁を交わし合った。軽く抱き締め合う二人は、酷く似ていることに、ロタはやっと気が付いた。
だがその意味を受け止める前に、すべては終わった。
森の民は、皇帝に別れを告げると、消え失せた。
ロタにはもう言葉どころか視線さえも向けずに、立ち去った。
「……神は深くお怒りだ。おまえだけではなく、関わったすべてにお怒りだ。おまえが罪を犯すことが出来たのは、高い魔力量を持つからだ。ゆえに、我々の魔力量の元となった森の民も……大きな代償を支払うこととなった。この国から、この大陸から、森の民は消え失せる。生まれ育った森より、彼らは、追い出されるのだ。それは、森の民にとってはなによりも悲しく辛いことだ」
贅を尽くした皇帝の私室に、淡々と、しかし恐ろしい言葉が響いた。
ロタは、ただ、それを聞いていた。
自らの終わりを予感して、破滅に身を震わせて、聞いていた。
ロタの予想する破滅など訪れないことを、そのような生半可なことでは、ロタ一人の命を差し出すだけでは、もうどうすることもできないことには、未だに気付かずに。
【3/かみさまとわたし】
眠い。
ゆっくりと意識が浮上した。
けれど同時に、まだ、頭の奥が強く痺れている感じがした。
つまりはとても───眠い。
ぽかぽかぬくぬく暖かくて心地良くて、このまま眠っていたかった。
でも、なんだか、呼ばれているような?
(……う?)
眠さに引き摺られながら、陽菜子は目を開けた。
そうして、驚いた。
青かった。
陽菜子の周囲は、美しい青色に埋め尽くされていた。
かといって、水の中だとかそういうわけではない。
でもならば、何処で、どうなっているのか、ということは分からない。
さっぱりだった。
けれど……どうしてか不安も無かった。
ここは、安全だと、なぜか、分かっていた。
『……おはよう。私は、君の味方だよ。君を傷付けないし、君をとても大切に思っているよ。そうして、ここは、安心できる場所だよ』
陽菜子が戸惑っていると、どこからか、柔らかな声が響いた。
そうして、問い掛ける前に、陽菜子の知りたいことを教えてくれた。
『君は、異世界に無理矢理召喚されたんだよ。その時に、魂がたくさん傷ついてしまったから、私がここに保護しているんだ。私は、この世界では最も強い神様だからね。安心してゆっくり眠っていて大丈夫だからね』
異世界!
召喚!
神様!
びっくりだった。
でも分かって居たような気もした。
知っているような?
あるいは聞いたことがあるような?
でもはっきりとは覚えていない。
不思議な感じだった。
『君は、いままでも、何度か起きて、私と話しをしているよ。でも、魂の傷が深すぎて、記憶がうまく繋がらなくなっているようだよ。けれど、それは当然のことだし、魂の傷が癒えればそういうこともなくなるから、なにも心配は要らないよ』
成る程、と陽菜子は納得した。
そうして、ふと変なことを思い出した。
「……にょろにょろかみさま……」
なんだそれはと、陽菜子は自分で自分に突っ込んだ。
わけが分からなかった。
そもそも失礼なことではないだろうか。
いや、間違い無く失礼だ。
「あの……」
『そうだよ! 私は君だけの【にょろにょろ】だよ!』
なんか喜ばれた。
物凄く喜ばれた。
声が弾んでいるけれど、それだけではなくて、陽菜子の周囲がきらきらと輝いた。
青い世界に煌めく輝きは、とても美しかった。
水の中で、光りの雪が降るようだった。
『ああ、良かった。本当に良かった。少しずつ良くなっているね。とても嬉しいよ。君を初めて見つけた時は、本当にどうなることかと思ったよ……ああ、ああ、本当に、良かった』
愛されていた。
分かる。
深く深く愛されていると分かる。
声しか聞こえないのに、分かる。
身体にじわりと染み込むように、分かる。
「……あたたかい……」
そうしてとても眠い。
けれど、眠る前に聞きたいことが、聞かなければいけないことがあった。
叶えたい望みがあった。
───かえりたい。
───うちに、かえりたい。
ここはとても暖かくて居心地が良い。
でも【うち】じゃない。
だから、駄目だった。
どうしても、駄目だった。
「……うちに……かえりたい……」
『……うん。分かるよ』
「……かえりたい……」
『……君に、偽りは言いたくない。だから、本当のことを言うね。……帰してあげたい。君を、元の世界に、帰してあげたくて仕方無い。でも、私の力は、この世界の内側にしか及ばないんだ。なんとかしようと努力はしているけれど……必ずうまくいくとは確約してあげられないんだ。……ごめん、ごめんね』
「……かえりたいの……」
『うん、うん、そうだね』
望みを叶えて貰うことはとても難しいようだった。
けれど、哀しいけれど、思っていたより辛くは無かった。
もう知っているから?
それとも……
『……ごめんね。力が弱い神様でごめんね。……でも、この世界での中なら、一番強いから、もう辛いことも痛いことも絶対に無いからね。君がいつか帰る日まで、ずっとずっと私が守るからね。大丈夫。不愉快なモノのすべてを【綺麗】にしておくからね。君が目を覚ます時は、きっととても【綺麗】になっているよ』
優しい神様が、居てくれるからだろうか。
きっと大丈夫だと思えた。
もう大丈夫だと。
辛いことも。
痛いことも。
決して無いと。
声しか聞こえないけれど、青色しか見えないけれど……でも、信じることが出来た。
もう大丈夫だと。
「……うん……」
陽菜子は頷いた。
そうして、眠気がさらに強くなったので、逆らわずに目を閉じた。
一面の青の中で眠るなど、異様なことの筈だった。
けれど、なにも、なにも、怖くは無かった。
神様が居るから。
にょろにょろな神様が居るから。
怖くは無かった。
そこが何処かさえも分かって居なくても。
『おやすみ。可愛い子。たくさんたくさん眠って、ゆっくりと元気になってね。焦らなくていいからね。いつまでだって待っているから』
うん、と陽菜子は心中で頷いた。
そうして、眠りの底へと……
ゆっくりと……
『……あれ、目が覚めたの?』
『ううん、まだ。ほんの少し意識が浮上しただけみたい。でも、私のことを覚えていてくれたよ』
『へえ、じゃあ、大分良くなったのかな。そろそろ本当に目が覚めるのかな?』
『だといいなぁ……』
『じゃあ、外の掃除をもう少し早くするかな。大分、【綺麗】にしたけど、まだちょっと鬱陶しいのが残って居るんだよな』
『まだ残って居るのか。しぶといな』
『まとめて綺麗にしたいけれど……それやると、反動が来るからなぁ』
『反動が来るのは駄目だ』
『だよなぁ。あ、じゃあ、東の大陸の半分ぐらいならどうかな?』
『それぐらいならいいんじゃないかな』
『じゃあ、【綺麗】にして来るな』
うつらうつらと、眠りながらも、陽菜子は声を聞いていた。
意味が良く分からないままに、聞いていた。
そうして、なんとなく、少しだけ不安になった。
なんだろう、なにかが、少しだけ危ないような?
不穏のような?
でも良く分からなかった。
眠すぎて、心地良すぎて、駄目だった。
目を開けることはできなかった。
目覚めることはできなかった。
止めることはできなかった。
『すまないな。よろしく頼む』
『いままでずーっっっっと、ずーっっっっっっっと、おまえだけに、なにもかもを任せていたんだから、気にするなって! じゃあ行ってくるな!』
そうして、意識は解けていった。
暖かく優しい青色の中に。
溶けて、落ちて、とろとろに……………
『……ひな、ひな、ひな、可愛い子。天より訪れた私たちの可愛い末の子。大丈夫、大丈夫、なにも心配は要らないよ。私が、私たちが、おまえを守るよ。可愛い子、優しい子、哀れな子、いつかいつかきっと帰れるよ。遠く遠くからだけど、おまえの世界の神が、奪われたおまえを呼ぶ声が聞こえるよ。このとても細いけれど頑丈な糸を伝って、きっときっと、いつか、見つけてくれるよ』
陽菜子は、知らなかった。
いま自分が、優しい神様の【腹の中】に居ることなどまったく知らなかった。
陽菜子は、知らなかった。
種族を乗り越えて、神様たちに溺愛されて、末の子となっていたことを。
陽菜子は、知らなかった。
無理矢理にこの世界に引きずり落としたのに、可愛い末の子を虐めたモノたちに、そのモノたちが生きる世界そのものに、ついに優しい神様たちが、愛想を尽かしたことも。
そうして、その結果、いままで使えていた魔術の大半が使えなくなり、天候が乱れに乱れて、世界中が大混乱と恐怖のただ中に陥っていることも。
陽菜子は、なにもなにも知らなかった。
知るわけが無かった。
神様たちが教える訳も無かった。
そうして、知らないままに、暖かい青に包まれていた。
神々の溺愛に包まれて、深い深い眠りの中で、遠い遠い故郷の夢を見ていた。
───なにも知らない陽菜子が、世界の現状を知るのは、まだまだ先のことであった。眠っている場合ではないと…………可愛い末の子の為なら、とんでもないことをさらりと頑張ってしまう最強過保護神様軍団を、モンペ集団を、止めなくてはヤバイと知るのは、残念ながらまだ当分先の話である。
そうして、過保護で過激な神様たちを必死に止めながら、ずたぼろになってしまった世界の再構築を試みる羽目になり、頑張った挙げ句に、最も優しく気高き救いの女神などと勘違いされて崇められて、恥ずかしさで悶絶することになるのだが……それはさらに先の、いまはまだ遠い遠い物語である。
書いていたら、その後の話が、沸いたので、そのうちまた投稿したいなと希望してます。
モンペな神様たちの暴走とか、ざまあされた皇子たちのその後とか。
また投稿していたら、読んで頂けたらうれしいです。\(^O^)/
追記/ポイントブクマありがとうございます。とても励みになります。\(^O^)/