優勝のご褒美
9.優勝のご褒美
恭子は顔を上げて空を見上げると、そっと目を閉じ、大きく深呼吸をした。
「時間です。準備してください。」
係員の男性が声をかけた。
恭子は目を開いてスターと地点を見た。
由美がスタート位地に付いていた。
「いい顔をしているわ。」
由美の表情に緊張のいろはなく、今、この時を楽しんでいるような、そんな顔に見えた。
スターターが位置に付き、「位置について。」と促す。
各校の第一走者たちはスタート位置へ進んだ。
「用意…」
由美は自分の心臓の鼓動を感じながら、意識を集中させた。
周囲の雑音が消えた瞬間、一か八かの勝負に出た。
思いっきり地面を蹴りだしたのと同時に“パーン”とピストルの音がした。
「ドンピシャ!」
由美は他の選手たちより1歩先に飛び出した。
フライングギリギリだったが、二度目のピストルはならなかった。
第一中学は1コースだったので、他の選手たちのスタート具合が手に取るように分かった。
由美はスタート直後には2コース・3コースの選手の前に出ていた。
その後はもう何も考えずに、第2走者の歩美の左手だけを見て走った。
「もう少し…」
もう少しでトップのままバトンをつなげる。
しかし、4コースの原郁子選手が先にバトンを渡すのがチラッと見えた。
ほぼ同時に由美も第2走者の歩美にバトンを渡した。
歩美には、ピストルがなるのと同時に由美が飛び出すのがはっきり見えた。
それから、あっと言う間に由美が近づいてくる。
歩美は徐々に助走を始め、左手を差し出した。
そして、今度はしっかりと由美からのバトンを受け取った。
「行けーっ!」
歩美は左手で受け取ったバトンを右手に持ち替えながら、後方から聞こえてきた由美の声に心の中で頷いた。
バトンを受け取ったときは2位だった。
しかし、最内を走る歩美には、まだ前方に5人の選手が見えた。
そんな中で、今、自分が何番目なのかは考えるつもりはなかった。
ただ、次の第3走者、秋元陽子へバトンをつなぐことだけしか考えていなかった。
そして、すぐに陽子の背中が見えてきた。
「お願い!」
そう言って陽子にバトンを渡して歩美はその場にひざまずいた。
既に走り終えた由美が右手の指を3本立てて歩美に微笑みかけている。
「よかった。さっきよりがんばれたんだわ。」
歩美は立ち上がると、ゴール地点へ向かって駆けだした。
歩美から渡されたバトンは、準決の時よりずっと重たく感じられた。
陽子は、この重さこそが自分を励ましてくれるメンバーたちの気持ちの証だと感じた。
第一中学が1コースだったのは、陽子にとってプラスだった。
陽子は小学生の頃、スケートのショートトラック競技を冬の間やっていた経験がある。
コーナーがきつければきついほど、力を発揮できるのだ。
しかし、さすがに、土の上では陸上競技の専門家たちに食らいついていくのがやっとだった。
アンカーにバトンを渡すところは直線コースの入口になる。
ここで各校横一線に並ぶのだ。
今までずっとコーナーを走ってきた陽子は、自分が今何番目なのかまったく分からなかった。
というより、気にする余裕がなかった。
「頑張って!」
そう叫ぶ恭子の声がはっきり聞こえた。
陽子は最後の力を振り絞ってバトンを差し出した。
その外側で3人の選手が既にバトンを渡し終えて、最終走者に声援を送っている姿があった。
恭子にバトンが渡った二が4番目。
野村は、この時点で6位入賞は間違いないことを確信した。
しかし、野村が驚いたのは今まで走った3人が、3人とも100mの自己記録を更新していたからだ。
あくまでも、バトンを受け取って渡すまでの参考記録だが、第2走者の大橋歩美と第3走者の秋元陽子は、終始コーナーを走っていたにも係わらず、直線で記録を取ったときの最高タイムを越えていたのだから驚いた。
「こりゃあ、ひょっとするとひょっとするかもしれんなあ!」
スタンドで見ていた、悠斗も、ここまでの展開から一中が相当、頑張っているのが分かった。
もっとも、準決勝でもバトントラブルがなければ、1秒以上タイムが短縮されていただろうことを思えば、当然といえば当然だと頷いた。
そして、いよいよ、恭子へバトンが渡った。
「よし!行け〜っ!」
悠斗は懇親の思いをこめて叫んだ。
「いい感じだわ。みんな最高の走り。」
恭子は由美、歩美、陽子の走りを見つめながら、自分の体の中で血液が躍動しているのを感じた。
第3走者の陽子が近づいてくるに伴って、恭子はワクワクして仕方がなかった。
心臓の鼓動がリズミカルに時を刻んでいる。
スタンドの歓声がスローモーション画像のBGMように聞こえてくる。
4コース、南部四中の原智子が先頭でバトンを受け走り去っていった。
続いて、5コースの川村中・江藤和美、3コース・南部三中の君塚真由美が僅差で走り出した。
少し遅れて、4番目で陽子からバトンを受けた恭子は、バトンの感触を左手に感じた瞬間、全身に今までに経験したことのないエネルギーが溢れてくるのを感じた。
恭子はバトンを受けて最初の力を左足で思いっきり地面に向かって放出した。
同時に、地面で反発した力が少し沈め加減にした恭子の体を一気に前方へはじき出した。
ものの二、三歩で恭子は江藤和美と君塚真由美を視界の外に弾き飛ばした。
恭子以外の全てのものが止まっているように見えた。
恭子の動き自体も、まるでスローモーションのようだった。
競技場にいた誰もがそう感じていた。
それほど恭子の走は力強く、美しかった。
江藤和美と君塚真由美は恭子の姿を確認することが出来なかった。
一陣の風が通り過ぎたと思ったら、恭子の姿は遥か彼方に消えていこうとしていた。
実際には1、2m前にいるだけだったが、二人にはそう思えた。
恭子の前には南部四中の原智子しかいなくなった。
バトンを受けたばかりの江藤和美、君塚真由美とは違って、既にトップスピードに達している原智子を捉えるのは、さすがの恭子でも容易なことではなかった。
しかし、恭子の視界にはゴールの白いテープしかなかった。
今、自分が走っているのは、3人のチームメイとが運んできたバトンをドールまで届けること。
その思い以外には何もなかった。
原智子に届こうが届くまいが、そんなことはどうでもよかった。
そして、もう一度あの時のような風を感じてみたいと思った。
「もう少し!もう少し…」
目の前には、ゴールの白いテープが迫っていた。
月に一度、練習が休みになる第一日曜日の前日。
それこそ一月ぶりに拓は実家に帰ってきていた。
居酒屋“ばれいしょ”の二階の座敷。
拓が来るときは、マスターが気を利かせて二階の個室を空けてくれる。
そこで悠斗と酒を飲んでいると、マスターの娘でもあり、恭子の親友でもある野々村仁美が二人のそばにやってきた。
「ねえ、拓さん?恭子に知られてもいいかしら。拓さんが来ていること。」
拓は、“恭子”と聞いて、少しためらったが、「かまわないよ。」と、答えた。
逆に、悠斗はかなり“ドキッ”とした。
悠斗がコーチを勤めるサッカークラブ、ジュニアスターズに恭子の弟の浩人が入ってきてから、恭子と接する機会が多くなっていた悠斗は、以前にも増して恭子のことが気になっていたからだ。
「悠斗先輩もいいですよね?」
仁美に念を押されて、悠斗は二つ返事で「もちろんさ!」と答えた。
仁美は嬉しそうに、その場で携帯電話で恭子の家に電話をかけた。
「へ〜え、もう携帯電話なんか持ってるんだ?」
拓は、感心して仁美に問いかけた。
「今時、持ってない方が珍しいですよ。私の友達だと、恭子くらいのもんかしら。」
「そうなんだ?」
拓は、益々感心した。
そう言う拓も携帯電話は持っていなかった。
「まったく、走ることばかり考えているヤツには携帯電話なんか必要じゃないみたいだな。」
悠斗がからかうように、拓の方を見て言った。
「えっ?まさか、拓さんも携帯持ってないんですか?」
拓は、少し恥ずかしそうに「う、うん。まあ…」と、話しを濁した。
「それは残念ねぇ…」
そう言って仁美は首を傾げて何やら考え出した。
「どうかしたのか?」
その様子に気が付いた悠斗が尋ねた。
「実はね、今電話したら、恭子も、この前の新人戦で優勝したから、携帯買って貰ったんだって。だから、拓さんと番号とアドレスを交換できるって楽しみにしていたのに…」
「そうなんだ!じゃあ、替わりに俺が交換してやるよ。」
雄太が自分の携帯電話を取り出して、いじり始めると、急に拓が立ち上がった。
「仁美ちゃんゴメン、すぐ戻ってくるから恭子ちゃんが来たら、少し待っててって、そう言っといて。」
そして、階段を駆け下り、出ていった。
「なんだ?急に、どうしちゃったんだ?」
悠斗は、訳が分からず、仁美の顔を見た。
仁美もキョトンとした顔で突っ立っていた。
受話器を置いた恭子は、嬉しさを表情に出さないように部屋へ戻った。
部屋に戻ると、買ってもらったばかりの携帯電話を手に取った。
折りたたみ式で、白いボディのシンプルなデザインのものだ。
ジーンズに後ろのポケットにそれをねじ込むと、ウインドブレーカーを羽織り、阪神タイガースの野球帽をかぶって部屋を出た。
そのとたん、居間にいた父親の孝之に、声をかけられた。
「仁美ちゃんなんだって?」
「うん、ちょっと話があるって。だから今から、仁美ん家行って来る。ごはんご馳走してくれるみたいだから、お母さんにそう言っといて。」
孝之はチラッと時計に目をやった。
午後6時だった。
「遅くなるようなら電話してくれ。迎えに行ってやるからな。」
「うん、お願い!」
その返事を聞いて、孝之は、安心した。
恭子は、孝之が迎えに来るのを拒絶さえしなければ、父親に束縛されることがないのを心得ていた。
「気をつけて行って来いよ。」
孝之がそう言った時には、既に恭子は玄関を出ていた。
その頃拓は、駅前の携帯電話ショップに来ていた。
携帯電話の事なんかまるでわからないので、ショップの店員に聞いてみた。
「実は、初めて使うんですが、どれが簡単ですか?」
電話会社の制服を着た女性の店員が歩み寄ってきて、無数に並べられた携帯電話の中から、1台を手に取って、拓に示した。
それは、テレビのリモコンのようなデザインのものだった。
「これが、いちばん簡単に扱える機種です。お年寄りの方へのプレゼントには最適ですよ。」
「お年寄り?」
そう言われて、拓は店員が勘違いしているのだと気が付いた。
「いえ、プレゼントではなくて、僕が使いたいんです。」
店員は少し驚いた顔をしながらも、すぐに表情を整えて、いくつかの携帯電話を物色しながら、拓に質問をしてきた。
「どういう目的でお使いになられますか?」
「目的ですか?」
拓は不思議に感じた。
電話を買うのに、電話を掛ける以外の目的って…
「ええ、例えば、写真の画質にこだわるとか、音楽を楽しむとか色々ありますけど。」
「はあ…操作が難しくなければ何でもいいです。」
「今は、どの機種もそんなに難しくはないですから、これなんかいかがですか?若い方には結構人気があるんですよ。」
「じゃあ、それ下さい。すぐに使えるんですか?」
「ありがとうございます。少々手続がありますので、30分ほどお待ちいただけますか?」
「30分…分かりました。なるべく急いで下さい。」
恭子が“ばれいしょ”のドアを開けると、マスターが人差し指で上を指した。
恭子は頷いて二階での階段を上がっていった。
座敷の個室から、笑い声が聞こえてきた。
恭子は個室の襖戸を少し開けて中を覗いた。
仁美と悠斗が見えた。
拓の姿は見当たらなかった。
襖戸が開いたのに気が付いた仁美が、大きく襖戸を開くと、そこには恭子が立っていた。
「あら、いらっしゃい。さすが、チャンピオン。早かったわね。」
恭子は拓がいないことに、ちょっと、がっかりしているようだった。
「仁美、拓さんは?」
「うん、なんだか、急に出ていっちゃって。すぐ戻るから、恭子が来たら待ってるようにって。」
「そう…」
「まあ、上がりなよ。すぐに戻って来るって。」
悠斗に促されて、恭子は座敷に上がった。
「はい。これで、今から使えますよ。」
店員に携帯電話を手渡された拓は、手提げ袋を受け取ると、大急ぎで“ばれいしょ”へ向かって駆けだした。
女性の店員は、クスクス笑いながら駈け出して行った拓の後姿を見送った。
「おい、今の西崎拓じゃないのか?」
奥にいた男性の店員が女性店員の横に来てそう言った。
「西崎…?」
「なんだ、知らないのか?100mの日本記録保持者でこの町の小学校と中学校を出てるんだぞ。」
「そうなんですか?だったら、もっと早く教えて下さいよ。サイン貰っておけばよかった。」
“ばれいしょ”の二階の座敷では、悠斗が恭子の新人戦での活躍をたたえていた。
「しかし、野村先生も君に走り幅跳びをやらせるなんて、大したもんだよ。先見の明があるというか、なんというか…」
その時、階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきたかと思うと、背後の襖戸が勢い良く開いた。
そこには息を切らしながら、額の汗を手でぬぐっている拓がいた。
「おい、どこ行ってたんだ?恭子ちゃん、とっくに来てたんだぞ。」
悠斗が、少々激しい口調で拓を責めると、拓は、左手で“ゴメン”という風な仕草で三人にそれぞれ詫びた。
そして、右手に持っていた手提げ袋を差し出し、ようやく落ち着いた心臓に左手を当てて口を開いたが声にならなかった。
拓が差し出した手提げ袋が携帯電話会社のものであることは、他の三人にはすぐに分かった。
それを見た悠斗が、ニヤニヤしながらからかうように拓に言った。
「なんだ、急に飛ぶ出していったと思ったら、恭子ちゃんが携帯電話の番号を交換したがってるって聞いたもんだから、それ買いに行ったのか?」
悠斗の言葉で、状況を理解した恭子は、拓の方を見てはにかむような笑みを浮かべた。
拓は座敷に上がると、早速悠斗に買ったばかりの携帯電話を見せて、使い方を聞き始めた。
「とりあえず、ここにいるメンバーの電話番号とメールアドレスを入れてやるから、あとは自分で説明書を読んで研究しろ。」
悠斗はそう言って、三人の番号とメールアドレスを拓の携帯に登録した。
「ねえ、悠斗先輩、私もお願いしていいかしら?」
そう言って恭子も携帯電話を取り出し、悠斗に渡した。
「あれっ?これ、お前のと同じじゃないか?」
悠斗はそう言って、拓の携帯電話と見比べた。
拓が買ってきた携帯電話は、恭子が買ってもらったものとまったく同じものだった。
「なんだよ!お前たちは?どこまで、運命共同体なんだ?」
四人は、しばらく互いの携帯電話をいじったり、メールをしてアドレスの確認をしたりしながら過ごしていたが、やがて拓が新人戦の話を始めたので、恭子の表情が変わった。
「リレーは残念だったね。」
「そうだよ!ゴールがあと1mでも先にあったら、絶対に抜かしていたのに。」
実際にその場で見ていた悠斗は、本当に悔しそうな顔をして残念がった。
リレーの決勝では、惜しくも第2位だった。
4位でバトンを受け取った恭子は、あっという間に、前の二人をかわすと、先頭を走る南部四中の原智子を追いつめた。
そして、ほぼ二人同時にゴールになだれ込んだ。
判定は写真に委ねられ、一中は二着に敗れた。
しかし、一中のメンバーたちは、恭子に駆け寄り、まるで、優勝したかのようにはしゃぎ、そして、大声をあげて泣いた。
「ありがとう!恭子。」
「だけど、いちばん楽しかった。今までのどのレースよりも風に近づけたような気がするわ。」
「ああ、確かに、野村先生が言っていたけど、バトンを受けてからだから、実質100mなかったかもしれないけど、普通に100m走っていれば、中学新を出していたかもしれないって。」
「でも、あれはリレーだったから、気持ちがすごく入っちゃってたから。」
「その気持ちを忘れないようにするんだ。それが、君の走りの原動力になる。いつでも、君の周りにはそういうエネルギーが満ち溢れているんだ。それは、ある意味、神様に選ばれた人間にしか与えられないものなんだと思う。君はそれを間違いなく持っている。」
拓にそう言われると、不思議と、その気になってくる。
そして、それは、恭子の心の奥深くにずっと眠っていた感覚でもあった。
拓と巡り合ってから、恭子の中のこういった感覚が徐々に目覚めてくるのを恭子は感じていた。
「こりゃあ、一中から男女の日本記録保持者が出るのも時間の問題だなあ!」
そう言ってはしゃぐ悠斗と仁美をよそに、拓はやさしいまなざしで、恭子を見つめていた。
恭子は、その時、拓のまなざしが何を語っているのか、感じ取ることはできなかった。
「拓さん、私も覚えるから、拓さんも早く携帯の使い方覚えてくださいね。」
「ああ、頑張るよ。」
「ねえ、拓さん?写真撮ってもいい?」
そう言って、恭子は拓に向かって携帯電話のカメラを向けた。
それを見た仁美が、恭子から携帯電話を取り上げてこう言った。
「どうせなら、二人一緒の写真撮ってあげるよ。ほら、恭子向こうに行って拓さんの横に座って。」
仁美にそう言われると、恭子はテーブルの向かいに座っていた拓の方に行き、拓の腕を取って体を寄せた。
「ほら、もう少しくっついて。じゃないと入らないわ。」
恭子は拓にほっぺたがくっつくほど顔を寄せた。
「ハイ、チーズ!」
カシャッとシャッター音が響くと、恭子は早速画面を確認した。
「やった〜!この写真、拓さんにも送っておいてあげるわね。」
無邪気の喜んでいる恭子の表情はまだまだ子供そのものだった。
拓は複雑な気持ちで、恭子の笑顔を眺めた。




