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日本新記録

6.日本新記録




 拓は大学に行くより、実業団に入って、金を稼げるランナーになるつもりだった。

もっとも、陸上競技では、選手としてやっていけるのは他のスポーツに比べて、決して長いとはいえない。

まして、プロとして食べていけるだけの報酬を得るとなるれば日本国内ではまず無理だ。

とは言え、海外に出て夢を追うつもりもない。

選手としてやっていけなくなった時のことを考えれば、ちゃんと大学を出ていたほうが就職にも有利であることは間違いない。

しかし、高校卒業とともに、大学を出なければ入れないような企業に陸上競技で入れるのなら、その分、仕事も覚えられる。

そうなれば、選手として通用しなくなっても、仕事で会社に残ることも出来るだろう。


 拓は、入念にストレッチをこなすと、トラックをゆっくりと走り出した。

高校3年の今シーズンは最後のチャンスになる。

窪田コーチに言われるまでもない。

日本記録にいちばん近い男と騒がれてから、スランプが続いたが、その時期にも拓には確かな手ごたえがあった。

「コーチ、一本取ってもらえますか?」

拓は、そう言って、100mコースのスターとラインの方へ歩き始めた。

コーチの窪田は、突然の拓の行動に、一瞬、何事なのかと思ったが、拓の表情が今までとは違っているのに気がつくと、ゴールの位置に向かった。

ピストルは持っていなかったので、ホイッスルを加えて拓に合図した。

拓がスタート位置につくと、「よーい」の掛け声の変わりに左手を上げた。

「ピーッ」窪田は思いっきりホイッスルを鳴らすと同時に右手でストップウォッチのボタンを押した。

スタートしてからの一完歩が拓は強い。

そして、一気に加速していく。

今日は、足がいつもより高く上がっている。

本来なら、80mくらいが拓のベスト距離なのだ。

今まで記録が伸び悩んでいたのは、残りの20mで失速してしまうからだった。

80mが近づいてきた。

すると、拓は体を前に沈めて更に加速した。

実際は、前に沈んだのではないが、窪田にはそう見えた。

目の前を一陣の風が吹き抜けた。

窪田はストップウォッチのボタンを勢いよく押した。

そこには日本記録と同じタイムが記されていた。

窪田が拓のほうを見ると、拓は背中を向けたまま、高らかに手を掲げてVサインをして見せた。

「こいつ、やりやがった。」


 恭子は陸上部に入って短距離を学んだ。

小学校で区の記録を塗り替えたとはいえ、中学にあがると、明らかにレベルが違った。

さすがに、1年から選手に選ばれるほど甘くはなかった。

しかし、いつも謙虚な恭子は他の新入部員達と一緒に先輩達の雑用をこなしながら練習に励んだ。

一中の陸上部顧問は、この春から一中に移ってきた第五小の野村が勤めていた。

「三浦、ちょっと来い。」

野村は恭子を呼ぶと、走り幅跳びをやってみないかと聞いた。

「幅跳びですか?体育の授業でしかやったことないですけど。」

「三年の原田が転校することになって、幅の選手がいなくなったのは知ってるな?」

「はい。」

「ちょっと跳んでみろ。海外では短距離の選手は幅跳びでも一流なのは知っているな。」

「分かりました。やってみます。」

「よし、じゃあ、とりあえず、自分の跳びたいように跳んでみろ。」

恭子は、踏み切りの位置から歩幅を確認しながらスタートの位置についた。

その様子を見ていた野村は、「たいした本能だ。」そう思った。

恭子はスタートすると、一気にトップスピードにギアチェンジして左足で踏み切った。

とりあえず、踏み切りの位置は気にせずに思いっきり跳んだ。

みようみまねで、空中を歩くように跳んでみた。

けっこう跳べたような気がしたが、野村は渋い顔をしていた。

「やっぱりダメでしたよね。」

「ああ、てんでなってないな。しかし、跳び方さえ覚えたら原田くらいは跳べるようになるかも知れないぞ。」

「あの、先生。私、幅跳びに転向するんですか?」

恭子は不安そうに野村に尋ねた。

「バカ言うな!基本は100だ。100の練習は続ける。続けながら幅をやる。幅をやるのは試合に出るためだ。幅なら1年から試合に出られるからな。試合に出て思いっきり走ることが大事なんだ。」

「分かりました。先生。」


 拓は新学期早々に国体の予選に参加し、見事に本選出場を果たしたのを皮切りに、6月には高校総体の地区予選に出場した。

さすがに、この辺りでは拓の相手になるランナーはいないかと思われたが、唯一のライバルであり親友でもある聖都大付属高校の村上悠馬との今シーズン初顔合わせとなった決勝のレースでは、ゴール前でかなり追いつめられたがかろうじて逃げ切った。

そして、8月。高校総体の本番。

下馬評では非公式ながら、日本記録と同タイムを叩き出した拓が断然の優勝候補で地区予選で拓に迫った聖都大付属の村上、今シーズン九州地区の高校記録を塗り替えた熊本・九州学園の末吉星也の三つ巴になるとマスコミは報じていた。

 3人とも危なげなく準決勝に進出した。

そこで拓は九州学園の末吉と同じレースを走った。

末吉は10秒50の好記録を出したが、拓は高校記録を塗り替える10秒38で1位のタイムを出した。

そして、二人共決勝に進んだ。

もう一方では、村上が10秒55で1位となり、拓、末吉と決勝で顔を合わせることになった。

決勝のレースを前にして、拓はコーチの窪田に入念なマッサージを受けていた。

「手ごわいのはどっちだと思う?」

もちろん、村上と末吉のことを聞いているのだろうと拓は思ったが、こう答えた。

「一番手ごわいのは大阪南の成田だなあ。」

窪田は、予想外の答えに一瞬顔色を変えたが、すぐに根拠を聞いた。

「あいつ、準決で村上の2着だったけど、余力を残した走りだった。10.55なら村上も調子が悪い方じゃなかったはずだけど、あいつはゴールする時、笑ってやがった。」

「笑ってた?走りながら?」

窪田は、冗談だろ?とでも言うように首を振って見せたが、拓は真顔で話を続けた。

「一緒に走った村上が一番分かっていると思うけど、とんでもないヤツが隠れていたもんだ。」

「成田ねぇ…」

窪田は、まだ半信半疑という風な顔をしていたが、レースの時間が近付いてきたので、拓と一緒にグランドへ出た。

既に、村上も末吉もアップを始めていた。

窪田は廻りを見まわしたが、成田はまだ出てきていないようだった。

「コーチ、あっちを見てみなよ。」

拓に言われてトラックの向こう側に目を向けた。

すると、成田は同じ学校の女子選手と談笑していた。

「なんだ、あいつ?決勝の前だっていうのに、アップもしないで女の子とイチャついてやがんのか?」

「それだけ余裕ああるんだろうよ。」


 最初の試合は中体連の地区大会だった。

恭子は、付け焼刃で覚えたフォームで走り幅跳びに出場した。

スピードに乗った助走から、思いっきり跳ぶ。

恭子は、100mの練習のつもりで、思いっきり走った。

助走路は100mより短いので、早い段階でトップスピードに持っていくことが要求される。

スピードにのったジャンプは、技術的な未熟さを補うには十分な効果があった。

もともと参加者も少なかったので、恭子はなんとか決勝に残ることができた。

「先生、なんだか気持ちいいです。」

野村は恭子の表情を見て、大きな可能性を秘めた子だと痛感した。

ついこの間までは、小学校に通っていた子だ。

中学校に入って、初めての試合で上級生たちに混じって、しかも、今までやったことがない走り幅跳びに出場しているというのに、試合を心から楽しんでいる様子だ。

キラキラと目を輝かせながら、そう言う恭子の屈託のない笑顔を見て、「この子は、きっと走るために生れてきたに違いない。」野村はそう思った。

さすがに、決勝では、走り幅跳びを専門にやっている上級生たちには太刀打ちできず、8人中8位に終わったが、どの跳躍も、踏切の30cm前から飛んでいた。

野村の指示で、「下手に足を合わせようとするな。かといって、せっかく試合に出てるんだ。ファールで記録なしじゃあしょうがない。だから、踏切が見えたら最初の左足で思いっきり跳べ。たとえ1m手前になってもかまわん。」ということにしていたからだ。

踏切がぴったり合っていれば、あと30cm記録が伸びていた。

これは3位に該当する記録だった。

しかし、野村も恭子もそんなことはみじんも気にしなかった。

とにかく、2年後、トップで100mのゴールを駆け抜けることしか頭になかった。


 拓の予想通り、決勝は拓と成田の一騎打ちになった。

スタートは拓が断然強かった。

しかし、成田は徐々にスピードに乗って拓を追いつめてくる。

今までの拓なら、ゴール前で失速するところだが、今の拓は違う。

ゴール10m前でさらに加速をくわえて成田を突き放した。

窪田はすぐに電光掲示板に目を移した。

10秒の位から順番に数字が浮かび上がってきた。

1・0・0・2…10秒02!

窪田は飛び上がってガッツポーズをした。

拓は、当然といったように窪田の方を向いてニカッと笑ってVサインをして見せた。

もはや、高校生レベルでは拓の敵はいなかった。

2着に入った成田も10秒30の好記録を出した。

末吉が10秒40で3着、村上は10秒42で僅差の4着に終わった。

高校総体という器の中では、まれに見る好レースだった。


 拓は高校総体優勝の勢いで10月の国体に参加した。

拓は高校生ながら、青年の部に出場することになっていた。

少年の部では大阪の成田が10秒32で優勝した。

青年の部に出場する拓の最大のライバルは千葉の実業団東洋電機の篠塚健太郎だ。

現在の日本記録保持者でもある。

公式戦で二人が対戦するのは、もちろん初めてのことだ。

マスコミは二人の対決と、日本新記録が出るかどうかをこぞって書きたてた。

 周囲の期待通り、100mはまさに二人のマッチレースになった。

準決勝第1レースに登場した篠塚は10秒03を出して余裕の決勝進出。

拓も、第3レースで10秒05で一位通過。

二人とも絶好調で臨む決勝は、日本中の注目を集めた。

オリンピックや世界陸上以外で陸上競技がこれだけ注目されたことは初めてだった。

 準決勝で1位のタイムだった篠塚が4コース、拓が5コースからのスタートだった。

決勝に出場した8人のランナーが一斉にスタートラインについた。

スターターがピストルを高く掲げた。

拓は集中した。

“パーン”ピストルの音が鳴り響くと同時に拓は思いっきり地面を蹴った。

スタートの一完歩の強さでは、日本記録保持者をもしのぐ拓のダッシュ力に篠塚も付いて行くのがやっとといった感じだったが、さすがに日本記録保持者だけのことはある。

徐々にスピードに乗ると、あっという間に拓に並んだ。

そのまま並走を続けたが、拓が最後の力を振り絞って地面を蹴るとさらに加速が加わり、拓の視界からはゴールのテープしか見えなくなった。


 秋の新人戦で、1年生ながら100mに出場した恭子はその豊かな才能を見せつけて決勝まで進んだ。

1年生で決勝まで進んだのは恭子だけだった。

そして、見事に6位入賞を果たした。

そして、走り幅跳びでは3位になった。

春に比べて、踏切の位置が合うようになってきたのだ。

予想外の成績に恭子はまるで他人事のような口調で野村に言った。

「先生、意外と、走り幅跳びもいけるかもしれないですね。」

「そうだな。しかし、お前が欲しいのは100のメダルだろう?しかも、とびっきり眩しいヤツだろう?」

「はい!」

何の迷いもなく、そう答える恭子に野村は改めて期待を高めた。


 今年の冬はいつもより暖かい気がした。

大学に進学をしない拓は、他の受験生達と比べて、ずいぶん余裕がある日々を過ごしていた。

高校の部活は引退して、後輩たちの指導をしながらトレーニングを続けていた。

社会人の目ぼしい大会などがあれば出かけていってレース感覚を磨いた。

この頃には東洋電機への就職が内定していたので、学校が終わると、千葉の東洋電機陸上競技場まで通って練習に参加した。

もと、日本記録保持者の篠塚健太郎と一緒にトレーニングをすることは、拓にとって願ってもないことだった。

窪田から、拓の希望を聞かされていた東洋電機の池田直次郎監督は、国体の生年の部で決勝に残ったら受け入れる旨を打診していた。

窪田は、そのことをあえて拓には伝えていなかった。

それがプレッシャーになったらいけないと思ったからだ。

しかし、それが杞憂に終わったことを決勝のレースが終わった瞬間思い知らされた。


 拓は、廻りの緊張をよそにリラックスしていた。

スタンドには、恭子と野村が応援に来ていた。

野村を通じて拓が招待したのだ。

レースを間近に控えた拓は、スタンドで見守る恭子に右手を高くあげて人差し指を1本立てて微笑んだ。

恭子は頷いて、拓と同じポーズをして返した。


 新人戦が終わった後、野村のところに拓から手紙と国体が開催される岡山までの新幹線のチケットが二組入っていた。

『野村先生、是非、三浦さんを連れてきてください。きっと、めったに見られないものを見ることができますよ。』

ということだった。

野村が恭子に話をすると、恭子は二つ返事で了解した。

恭子が野村と出かけるにあたっては、例によって孝幸がひと騒ぎしたが、仕事の都合がつかず、同行することをあきらめざるを得なくて悔しがった。


 恭子は、野村と一緒にスタンドの材前列に降りてきた。

いよいよ、決勝のレースがスタートする。

祈るように手を組んで5コースの城東第一高校の白いユニフォームを着た西崎拓しか見ていなかった。

 レースがスタートすると、拓が一歩飛び出した。

「やった!」思わず口走り、握りしめた手に力が入る。

しかし、隣の赤いユニフォームに身を包んだ篠塚健太郎がすぐに追いついて来る。

「神様…」恭子は祈るように目を開けて拓を見続けた。

心臓がドキドキと音を立てて唸りを上げているようだった。

拓が追いのかれるのが怖くて目を閉じてしまおうと何度も思った。

しかし、信じ続けて最後まで目を閉じなかった。

拓がゴールした瞬間、野村と向き合って万歳をした。

そして、抱きついて喜びを表現した。

それから、すぐに電光掲示板に目を移した。

記録はなかなか表示されなかった。

そして、10秒の位の位置に“0”の文字が表示された。

会場は歓喜の渦に包まれた。

日本新記録が誕生した瞬間だった。

そして、準に“9”の文字が3つ並んだ。

9秒99!

日本人が初めて10秒の壁を超えたのだ。

「あの野郎!やりあがった。」

野村は何度もガッツポーズをしながら涙を流していた。

恭子も感動で胸が震えた。

感極まった野村は、スタンドのフェンスを乗り越えてグランドに降り立った。

そのまま一直線に拓のもとへ走りだしたがすぐに係員たちに制止され連れていかれた。


 スタンド前の戻ってきた拓は、恭子と握手を交わすと、右手の親指を立ててウインクして見せた。

恭子はなぜか顔が赤くなっていくのを感じて、どこかに隠れてしまいたい気持ちになった。

「今度は君の番だね。とりあえず、日本一の中学生になってみようか?」

その言葉を聞いた恭子は、すぐに気持ちが切り替わった。

「はい!」

力強くそう返事をした恭子の表情はキラキラ輝いていた。

拓は心の中で「なるほど」とつぶやいた。

確かに、こんな表情を見せられたらまいっちまうな!

そして、そんな話をしていた悠斗の顔が浮かんできた。


 恭子に勝利の報告をしたのもつかの間、拓の周りにはすぐに報道陣の垣根ができた。

いくつものフラッシュが光り、まるで光の雲の中にいるようだった。

しばらくすると、野村がスタンドに戻ってきた。

「先生、何やってるんですか?これじゃあ、お父さんと来た方が良かったかなあ。恥ずかしいったらありゃしない。」

野村は両手を合わせて頭を下げた。

「いや〜あ、面目ない。本当にお前の言う通りだなあ。これじゃあ、どっちが引率者だか分からないなあ。」

そう言って、野村は大笑いした。

恭子も、クスクスと笑った。




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