つかの間の安らぎ
5.中学校の運動会/つかの間の安らぎ
慰労会が終わる頃には早紀が恭子を迎えに来た。
孝幸や高橋達は二次会だと言って、カラオケの歌えるスナックへ繰り出していった。
早紀と恭子はマスターに頭を下げて、店を出た。
「あなた、明日はお仕事なんだからあまり遅くならないように気を付けてくださいね。」
早紀は孝幸に注意を促したが、高橋がそれを制して、手を振った。
「早紀ちゃん大丈夫。なんたって俺が付いてるんだから。」
早紀は、笑って、高橋に応えたが、本音は「だから余計に心配なのよ。」そう思っていた。
部屋に戻ると恭子は、早速、拓からの手紙を広げた。
〜まずはおめでとう。
ボクには分かっていたよ。
君は最初の金メダルを手にしたわけだ。
これから先、君はきっと数え切れないほどの金メダルを手にすると思う。
しかし、忘れないでほしい。
世の中には、自分の意志や力ではどうしようもないことがある。
今は、まだ気にする必要はないかもしれない。
いつか、そういう壁にぶつかっても決してあきらめないで乗り越えてほしい。
ボクはいつも君を見ているよ。
君が生まれる前からずっと・・・〜
この時はまだ、恭子には拓からの励ましの手紙にしか思えなかった。
恭子がこの手紙の本当の意味を知るのはもう少し経ってからだ。
恭子は、この手紙をクリアファイルのポケットにしまい込んだ。
そのクリアファイルには、他にも、仁美から貰った写真が入っていた。
その翌年の春、恭子は地元の第一中学に進学した。
仁美も一緒だった。
恭子は陸上部に、仁美はバレーボール部に入部した。
仁美は、身長も高く、アタッカーとしてはかなり、注目をされていたので、私立の名門中学からの誘いもあったが、弱小チームでも、気楽にバレーボールをやっていく方を選んだ。
今日このところにも、何人かのスカウトがやってきたので、孝幸は正直色気もあったようだが、恭子がどうしても地元の学校に行きたいと言うので、あきらめざるを得なかった。
「また一緒だね。」
入学式の後、仁美が恭子の肩を叩いて微笑んでいた。
仁美は春休みの間に、一段と背が伸びたような気がした。
恭子はそんな仁美を見上げて、頷いた。
「そうだね。これからもよろしくね。」
いつものように二人並んで教室の窓から外の景色を眺めた。
拓は高校3年に進級して、高校での最後のシーズンを迎えようとしていた。
周囲からの期待をプレッシャーに思ったことはなかったが、このところ少しスランプ気味だった。
高校生レベルでは間違いなくトップクラスではあったが、今一つ勝ちきれないといったレースが続いていた。
「西崎、春の大会では何らかの答えを出してくれよ。それによっちゃあ、大学の方にも影響してくるぞ。」
コーチの窪田は進路指導の担当でもあったので、拓の進路についても何かと心配をしてくれた。
「まあ、東日本体育大学なら間違いなく特待生で行けると思うが、入った後のこともあるからなあ。」
そんな窪田の心配をよそに、拓は相変わらずマイペースだった。
「先生、大丈夫ですよ。一つ段落が終わりましたから。それに、ボクの目標は東日本じゃなくて、東洋電機ですから。」
「東洋電機だと?いきなり実業団に行くつもりなのか?それに、段落?何のことだ?」
「まあ、見てて下さいよ。」
一中の運動会は毎年春に行われる。
秋だと、受験を控えた三年生に影響があるからだ。
例によって孝幸と高橋は、朝から場所取りのためにゴザとキャンプ用の組み立て式テーブルといすを担いで、正門の最前列にならんでいた。
二人の姿を見て登校してくる生徒たちはクスクス笑いながら二人の脇をすり抜けていく。
見かねた副校長が、仕方なく門を開放した。
二人はダッシュで、ゴール前の特等席にいち早く陣取った。
そんな二人のそばにやってきた副校長の添野は「これはダメですよ。」と、一杯飲むしぐさをして見せた。
「まあ、そんな堅いことを言わずに副校長も一杯どうですか?」と、缶ビールを差し出す高橋。
「バカッ!」慌てて、高橋から缶ビールを取り上げて、その場をしのごうとする孝幸。
しかし、高橋が出した缶ビールはすっかり添野に見られたようだ。
「やっぱりね。」
添野はそう言うと、高橋のクーラーボックスを担いだ。
「終わるまで職員室で冷やしておいてあげますよ。」
「先生、ちょっと待って!それは違うんですよ。」
高橋はガックリとその場にうなだれた。
早紀は弁当を作りながら、プログラムを確認している。
恭子が出場する競技は全部で5種目ある。
最初の100m競争が3番目に始まる。
次が、6番目に団体競技で借り物競争。
その後は午前中の最後にリズム。1年生の女子はタップダンスショーを演じることになっている。
それから、午後の部の最初にクラブ対抗リレー。これはアトラクション的なもので、各クラブの代表が、それぞれのユニフォーム姿で、バスケやサッカー部ならボールをドリブルしながらといった感じでやる競技だ。
そして、最後が紅白リレーだ。
三段重ねの重箱と、稲荷寿司が入ったタッパーをトートバッグに詰めると、子供たちを呼んだ。
「優子、浩人そろそろお姉ちゃんが走るから出かけるわよ。」
「え〜っ、もうちょっと待ってよ」と浩人。
「待ってあげたいのはやまやまだけど、私がスタートのピストルを鳴らすわけじゃないからねぇ。モタモタしてるなら先に行ってるから後から一人で来なさい。」
すると、優子がゲーム機の電源を切った。
「あっ!まだセーブしてないのに。」
「出かけるの分かっててそんなのやってる方が悪いのよ。」
優子いたしなめられ、浩人はようやくあきらめて、テレビの画面を消した。
既に母親の早紀は玄関を出るところだった。
「お母さん待って!今、行くから。」
早紀達が到着すると、孝幸達はゴール前の特等席から手を振って合図をしていた。
まだ顔が赤くなっていなかった。
「さすがにこんな時間から飲めるわけないか。」
しかし、席に着くなり、高橋が泣きついてきた。
「早紀ちゃん、聞いてよ!副校長にビール全部持っていかれちゃったよ。何とか取り返してくれないか?」
孝幸に事情を聞いた早紀は呆れてものが言えないといった風に首を振った。
「このおやじは飲む前から酔っ払ってるのか?」
早紀は口にこそ出さなかったが、そう思ってていた。
「そんなことより、恭子の100mが始まるぞ。」
100m競争の組み分けは、事前に測定したタイムで遅いものから順に走るようになっていた。
恭子は言うまでもなく、最終組で走ることになっている。
恭子が白組だったので、白の選手が1着になると、孝幸達はやんやの喝采を浴びせた。
そして、いよいよ最終組のスタートが近付いた。
「位置について・・・」
恭子は6コース。いちばん外側のレーンだ。
つまり、ゴールした時に、観覧席にいちばん近いレーンになる。
ピストルの音が鳴り響くと同時に恭子が抜け出したのは反対側のゴール前からも分かった。
もともと一番外のコースは、立ち位置からして最前列なので、恭子はゴールするまで、他の選手を視界に入れることもなく悠然とゴールの白いテープを胸に受けた。
観覧席では、孝幸と高橋が廻りの保護者達をあおって万歳をしている姿を1着の旗のいちばん後で見ていた恭子は、同じ列の最前列でVサインしている仁美に気がついた。
走るのが苦手な仁美は持ちタイムが遅い方から6番目だった。
つまり、最初のレースに登場したわけだが、他の5人が実力を発揮できなかったので、1位になった。
タイム通りに順位が決まれば、競争する必要はない。
実際、タイム通りであれば、この組のメンバーの中では仁美がいちばん早いことになるが、練習の時にはいつも3番目か4番目だった。
何回か練習を重ねたある日、仁美は恭子にこう言ったことがあった。
「ねえ恭子、私、幼稚園の時から、徒競走と言うものでビリ以外の成績をとったことがないの。だから、今年は、人生最大のチャンスが巡ってきたわ。」
その時の仁美の言葉にはなぜか説得力があった。
恭子の記憶によると、恭子が転校してきた4年以降、確かに、仁美がビリより良い成績だったのを見たことがなかった。
それは、身長順でのメンバー構成だったので背の高かった仁美のグループはいつも俊足揃いだった。
それが幼稚園の頃からだったとは初耳だったが…
恭子も、Vサインを返して仁美を祝福した。
なぜか、そのことが自分のことのように恭子には嬉しく感じた。
プログラム6番は1年生の借り物競走。
スタートしてから50mほど進んだところに、いろんな品物が書かれたカードが置いてある。
カードは人数分の数があり、書かれている品物はすべて違うものばかりだった。
中には定番の“校長先生”とか、“お父さん”と言ったものもあれば、その日その場にあるかどうかも分からない、“モモヒキ”だとか、“かつら”などというものもあった。
実際は、演劇部の部室に行けば揃うものなのだが、それは最後の手段であくまでも、会場内で探さなければならなかった。
「恭子のヤツ何を引くかなあ?“お父さん”ならいいなあ。」
孝幸がそう言うと、高橋も「“青年部部長”とか“素敵なおじさま”なんてのはないものかねえ?」
と、ワクワクしていた。
先と子供たちは、「バカじゃないの?」と呆れていた。
レースが始まると、恭子より先に高橋の出番がやってきた。
“青少年部部長の高橋さん”と書かれたカードを持った仁美が高橋の前にやってきた。
本来なら、来賓席にいるはずの高橋のところへ仁美は真っ直ぐにやってきた。
そして、仁美と高橋は見事に1着でゴールしたのだった。
孝幸は「引いたのが恭子じゃなくて良かったよ。」と胸をなで下ろしていた。
ところが、孝幸の期待も虚しく、“お父さんと二人三脚”のカードは他の子に先に引かれてしまった。
もはや、自分の出る幕はなくなったと諦めたところで恭子の出番がやってきた。
恭子はゆっくりと、カードが置かれている場所に走っていくと、迷わず一番手前にあるカードを引いた。
カードの文字を見た恭子は怪訝な表情で眉をしかめた。
そして、恐る恐る孝幸の方へ近づいてきて、尋ねた。
「お父さん、もしかしてビール飲んだ?」
実は、副校長にビールを取り上げられると、近所のコンビニで高橋と1本だけ買って飲んでいたのだ。
孝幸はそれを咎められると思ったのか、慌てて、灰皿代わりに使っていた空き缶を体の後に隠そうとした。
しかし、恭子が持ってきたカードを見て目の色が変わった。
そこには、“酔っぱらいおじさん(または、酔っぱらいおじさんのまねをしてくれる人)”と書かれていたのだ。
勇んで飛び出そうとした孝幸は観覧席の前の張られているロープに足を引っかけて転んでしまった。
しかし、痛いなんて言っている場合ではなかったので、そのまま恭子とゴールを目指した。
途中、副校長の視線が気になったので、酔っぱらったふりをしながらゴールした。
1着は“福田先生におんぶ”のカードを引いた子にさらわれたが、孝幸は満足だった。
福田先生とは体育教師で、柔道部の顧問もしている先生だった。
午前中の最後のプログラムは1年生女子のリズム“タップダンスショー“だった。
セーラー服の下にジャージをはいたスタイルで登場した女の子たちは華麗なステップで踊り始めた。
しかし、孝幸と高橋は気に入らなかった。
恭子が踊っていた場所が自分たちの陣取った場所からいちばん遠い位置で、しかも向こう側をむいていたからだ。
「だったら、あっちまで行ってくればいいでしょう。」
早紀にそう言われると、二人はおとなしくなった。
「まあ、今から向こうに行ったって、あんなに人がいたんじゃまともには見られないな。ここからでも見えるから、まあ、いいか。それに、他の子も見てやらないとな。」
これで午前中の競技は全て終了した。
恭子たちはタップダンスショーの衣装のまま保護者席に戻ってきた。
早紀はゴザの上にランチマットを敷き、重箱を並べた。
一段目の重箱には、唐揚げと串カツ、それに卵焼きが入っていた。
卵焼きは恭子が好きな甘い卵焼きだった。
二段目の重箱にはポテトサラダに海老フライ、それにウインナーソーセージが入っていた。
三段目の重箱にはリンゴやイチゴなどの果物が入っていた。
そして、恭子の大好物の稲荷寿司。
去年までは、優子と浩人も一緒だったので、二人が好きな海苔巻きだった。
稲荷寿司のお弁当は本当に久しぶりだった。
恭子は午後もリレーが控えていたのだが、そんなことはまったく気にしないで、お腹いっぱい食べた。
午後のプログラムはクラブ対抗リレーで幕を開けた。
15のクラブにPTAチーム、教員チーム、町会チームが加わり、計18チームで1チームから4人づつ参加して、6チームづつの3レースが行われる。
第一レースは文化系の演劇部、吹奏楽部、放送部、園芸部、生徒会、PTAチームお組み合わせ。
第二レースは男女混合体育系で、陸上部、バスケットボール部、バレーボール部、卓球部、テニス部、町会チーム。
第三レースは格闘系中心の柔道部、剣道部、サッカー部、野球部、水泳部、教員チーム。
この競技に出場する選手たちはユニフォームに着替えたり準備があるため、昼食休憩が終わる前にそれぞれの部室や教室に向かっていった。
恭子も、陸上部の部室へ向かった。
それを見送ると、孝幸と高橋が立ちあがった。
「さて、それじゃあ、俺達も準備するか。」
その様子を見た早紀は、目を丸くして二人に聞いた。
「まさか、出るつもりなの?」
二人は揃ってVサインを出し、「イエーイ!」とウインクをして見せた。
「その通り、二人とも町会代表さ。」
「それで、どんな格好をして出るつもりなの?」
孝幸は現場で来ている作業着に安全ベルト、ヘルメットに編み上げの安全靴を履き“働くお父さん”をモチーフにするといい、高橋は青少年部の部長として、お祭りのときのハッピ姿で走るのだという。
早紀は、「まるで、誰のための運動会かわからないわね。」と閉口していたが、優子と浩人は大喜びだった。
そして、調子に乗った二人はそれぞれ、優子と浩人を背負って走ると言いだした。
「ただ走るだけじゃあ、芸がないってもんだよなあ。」
クラブ対抗リレーは、各クラブともそれぞれの特性を生かした趣向を凝らし、その姿や演技は見ている者たちを大いに楽しませてくれた。
陸上部は、レーンの外側を上級生たちがウサギとボヤハードルをやりながら、他のチームの脚色を見ながら、進んで行き、最後に体の小さな恭子が一気に追い抜いて行くという芸当を演じて見せた。
子供たちを背負って走った孝幸と高橋も大いに場内を沸かせた。
そして、運動会も次々とプログラムをこなしていき、いよいよ佳境に入ってきた。
最後の紅白リレーを前に、紅組と白組の点差はわずかで恭子達の白組はリードされていた。
紅白リレーは男女別で、それぞれ2チーム出して競われる。
白組は白チームと青チーム、紅組は赤チームと黄色チーム。
先に女子のレースが行われ、最後に男子のレースが行われて前プログラムが終了する。
各チーム2人代表を出し6人でバトンを繋いでいくことになる。
恭子は青チームの第二走者だった。
まず、女子のレースがスタートした。
青チームの第一走者はトップで恭子にバトンを渡した。
孝幸達は、恭子が前のランナーをごぼう抜きにするシーンを思い描いていたので少しばかり拍子抜けした。
しかし、恭子はそれなりに見せ場を作った。
バトンを受け取ると、後続のランナーを見る見るうちに引き離していった。
青チームは恭子が作ったリードを守り切って、最後はきわどかったものの、見事に1位でゴールした。
帰り道、恭子は仁美と並んで歩いていた。
「残念だったね。あと少しだったのに。」
運動会の結果を恭子は仁美に話していた。
「そうそう、せっかく女子がリレーで逆転したのに、男子が3着と4着じゃ話にならないわ。」
仁美も恭子と同じ白組だったので、男子の紅白リレーの結果に怒りをあらわにしている。
「だいたい、同じ白組同士でぶつかって転ぶなんて、バカげてるわ。あれがなければ1着3着で白組の優勝だったのに。」
仁美の怒りはなかなか収まりそうにないと思いながら、ふと、目を向けた先には西崎拓がいた。
「仁美、先に帰ってて。」
そう言うと恭子は拓のもとへ駈けだした。
「なによ、急に…」
そう言って、恭子が走り出した方を見て仁美は納得した。
「なるほど、そういうことね。」
仁美は恭子に手を振って一言だけ言った。
「がんばってねー。」
恭子は恥ずかしそうな笑顔で仁美に応えた。




