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初めての金メダル

4.初めての金メダル




 東京湾の埋立地。昔はゴミ捨て場だった地域だ。

近年、この地域に高層の共同住宅や大規模なショッピングセンターが進出し始めてきた。

恭子の父孝之が勤めている会社が、そのなかのプロジェクトの一つを請け負った。

会社の命運をかけると言っても大げさではないこのプロジェクトに会社側は孝之をプロジェクトリーダーとして、任命した。

孝之はプロジェクトの細部にまで細心の注意を払い、工事着工までに作業工程の計画から、初期作業における業者選定、資材の発注や製作物の図面承認、関係官庁への工事に必要な手続き等を完了させなくてはならなかった。

そう言った作業は、工事に入ってからも順次行わなければならなかった。

孝之は5人の部下とともに、着工と同時に建設現場に常駐していた。


 この日は朝からそわそわしていた。

朝礼の後は事務所で席について、パソコンの電源を入れると、現状までの工事予算収支を確認していた。

が、集中できずに何度も入力ミスを繰り返してはブツブツと独り言を言っていた。

「所長、気分転換にドライブでもしてきたらいかがですか?」

見かねた主任の新垣が進言した。

「いや、気持ちは嬉しいが、しかし業務時間中だからなあ…」

「だって、それ、今やらなきゃいけない仕事でもないでしょう?現場の方は大丈夫ですから、どうぞお出かけ下さい。なんなら、今日はそのまま代休と言うことにしてしまったらどうですか?」

工事現場には似つかわしくない、ひょろっとした色白の新垣はにっこり笑って孝幸を送り出そうとしていた。

孝幸は、部下に対しての面倒見が良く、特に、家族や独身のものなら恋人が絡んだ私用について、寛大だった。

そんな孝幸だから、部下からも慕われていた。

今日が、孝幸の娘の陸上大会だということはみんな知っていた。

朝からそわそわしている孝幸に、新垣をはじめとする5人の部下はおろか、現場の作業員たちまでが気を利かせて口にした。

「所長、早く行ってやらないと、終わっちゃいますよ。」

作業員たちが口を揃えてそう言うと、新垣の下についている宮本が、からかうように言い放った。

「そうですよ。後でやっぱり行っとけば良かったって後悔しても、やけ酒には付き合って上げられませんよ。」

新垣とは対照的で、いかにも体育会系といった感じの宮本は、よく、こういった、やけ酒に付き合わされていた。

「そうか?お前たちがそこまで言うなら、ちょっとだけ行ってくることにするよ。終わったらすぐに帰るから、その間だけ頼むな。」

そう言うと、孝幸はゆっくりとした歩調で駐車場の方へ歩いていった。

プレハブの事務所の角を曲がって少し歩くと、後ろを振り返り誰も見ていないことを確認するやいなや、全速力で車まで走った。

2階の窓からその様子を見ていた新垣は「素直じゃないねぇ。」、宮本も「しかし、わかりやすい人ですね。」そう言って、腹を抱えて笑った。


 1年前は、800m走の代表だった。

長距離の経験が誰にもなかったので、たまたま校内マラソン大会で優勝した恭子が選ばれた。

校内マラソン大会は、学校近くにある河川敷の公園を周回するもので、5・6年生の高学年は1週約500mのコースを5週する。

距離だけ考えれば、2.5キロだが、子供の追いかけっこの様なそんな大会では、ペース配分もなにもまったく関係なく、はじめは100m競争でもしているようなペースで始まり、最後は歩くようにゴールするものがほとんどだった。

そんなレースで優勝したからといって、競技会で通用するわけはなかった。

案の定、スタートから飛ばした恭子は、すぐにスタミナを使い果たし、やっとの思いでゴールにたどり着いたが、後には誰もいなかった。

 今年は得意の短距離走だ。

しかも、オリンピックに出るかもしれないランナーにコーチしてもらい、これくらいの大会なら優勝できるとお墨付きをもらっている。

否応なしにも期待が膨らむ。

しかし、それがプレッシャーでもあった。

恭子の最初のレースは予選の第3組。

合同練習をした第四小の選手が同じ組にいた。

恭子が2レーン、第四小の選手は6レーンだった。

8人で走って上位3人が準決勝に進む。

 競技が始まると、あっと言う間に恭子達の順番がやってきた。

「位置について…」

恭子はゆっくりとスタートラインに向かい、クラウチングスタイルで集中した。

ピストルの音がパーンとはじけた。

全身の力をこめて地面を蹴りだす。

見る見るうちに加速していく。

左右の選手があっという間に視界から消えて行った。

恭子は白いテープを胸に受けてゴールを駆け抜けた。

「勝った!」

スピードをゆるめながら、軽くガッツポーズをして見せた。

誰かにうしろから肩をたたかれ、振り向くと第四小の選手だった。

「やったね!おめでとう。」

「ありがとう。あなたは?」

第四小の選手はVサインをして「3位に入った。」と嬉しそうに言った。


 続く第4レースでは、同じ第三小の選手は登場したが、惜しくも4位で準決勝には進めなかった。

予選8レースが終わって、準決勝に進む24人の中に、合同練習に参加した6人のうち、第五小の二人と合わせて4人が準決勝に残った。

「今年の一中校区の子たちはレベルが高いねえ…」

来賓で来ていた区議会議員の金村雅夫が野村に声をかけた。

金村は第五小から一中を出た地元の議員だった。

「…特に、あの第三小の子は素晴らしい。予選のタイムは2位だったそうじゃないかね。」

そう続けて、野村の背中をポンと叩いた。

「はい、強い子は予選レベルだと、タイムより順位を見ながら流して走っていますから。次の準決勝が試金石と言ったところでしょうかね。」

「それで、いけそうなのか?」

「はい!かなり期待できると思いますよ。」

「よろしい。今年は僕も鼻が高いよ。」

金村はそう言うと、来賓席の方に戻っていった。


 孝幸は競技場の駐車場に車を止めると、スタンドに駆け上がり、フィールド内の様子をうかがった。

トラックでは長距離のレースが行われているようだった。

第三小の選手たちは100m走のゴール方面に近いところのテントにいるようだった。

その場所の真上に父兄の応援席があり、早紀が手を振っているのが見えた。

孝幸は急いで移動すると、他の父兄たちに会釈をして挨拶をしながら早紀の隣に腰を下ろした。

「あなた、仕事は大丈夫なの?」

「ああ、それより、恭子はどうだ?予選はもう終わったのか?」

「ええ、無事準決勝進出よ。しかも、予選2位のタイムよ。」

「そいつはすごいなあ。それで準決勝は何時からなんだ?」

「いまやってる1500m競争が終わってからよ。」

「そうか、じゃあ、ちょうどいいとこだな。」


 準決勝は8人ずつ3レース行い、各レースの上位2位までと、3位以下の中からタイムのいい2人が決勝へ進む。

恭子は最終組で第五小の一人と同じ組に入った。

恭子が4レーン、第五小の選手は6レーンだった。

第1レースで第四小の選手、第2レースでは第五小のもう一人の選手が登場したが、二人とも僅差の3位で順位による決勝進出はできなかったが、タイムではまだ二人とも可能性を残していたので最後のこの第3レースが重要な意味を持つことになった。

レースのタイムが遅く、恭子と第五小の選手が1位と2位なら、4人そろって決勝に出ることができるのだ。

最終レースに出る二人は、当然そのことが分かっていた。

そんな二人に野村は釘を刺した。

「いいか、余計なことは考えるなよ!全力でいかないとやられるぞ。」

「はい!」

二人は揃って返事をし、健闘を誓った。

そして、いよいよ第3レースのスタート時間になった。

恭子は集中した。

ピストルの音がはじけた瞬間、頭ひとつ飛び出した。

絶妙のスタートだった。

ゴールを通過するまで恭子の視界には誰も入ってくることはなかった。

圧倒的な強さだった。

予選のタイムを0秒5上回って、区の小学生記録を塗り替えた。

文句なしの決勝進出だった。

一緒に走った第五小の選手は4位だったが、タイムで決勝進出することになった。

なんと、このレースの4位までは、前2レースの1位のタイムを上回っていた。

残念ながら、前の二人は、準決勝敗退となったが、こんなタイムを出されては仕方ないとサバサバしたものだった。

午後からの決勝では二人を応援すると言って、自分のことのように喜んでくれた。


 選手達は、PTAからの差し入れの弁当で昼食をとった。

午後からレースがある恭子は付け合わせのパスタだけを口にした。

余った弁当は孝幸に渡した。

「仕事さぼってこんなところにいていいの?」

「さぼっているわけじゃないさ。今日はもう終わったんだ。」

「ウソでしょう?」

恭子は、孝幸が来てくれたのはちょっと嬉しかったのだが、照れ臭くて素直に「ありがとう」と言えず、わざとからかった。

そして、選手席へと戻っていった。

話を聞いていた早紀が口を挟んだ。

「あら?いつの間に終わっちゃったのかしら?」

「恭子が記録を塗り替えてからだ。」

「現場の人には話してあるのかしら?」

「今から電話してくる。」

孝幸はそう言って、立ち上がった。

すると、高橋がそこに立っていた。

高橋は、現在は各現場を統括する課長になっている。

「あっ、課長…」

高橋は首を振り、人差し指を口に当てた。

「新垣から聞いたよ。あっち(現場)は問題ないから最後まで応援してやれ。」

孝幸は高橋の横に立つと、頭を下げて礼を言った。

 恭子が生まれる時、同じ現場の所長だったのが高橋だった。

その後も高橋とはコンビでいくつも仕事をした。

いわば、孝幸にとっては上司と言っても、友達のような存在なのだった。

「それにしても恭子ちゃんも大したものだなあ。あの時の子がこんなに立派になるなんて、俺も歳をとるわけだよなあ。」

そう言って笑う高橋を、孝幸は、自分で言うほど年をとった風には見えないと思った。

「なに言ってるんですか?それじゃあ、遠回しに俺が歳を取ったと言っているようなもんじゃないですか。」

「そう聞こえなかったのか?俺はそう言ったつもりなんだがなあ。」

「あのう…漫才はその辺にして、お二人ともこっちに来て座りませんか?」

早紀が、隣のシートを指した。

早紀が座っているシートの二つ隣のシートにはハンカチが敷かれていた。

もちろん、ハンカチの敷かれてシートは高橋のためだった。

「さすが、早紀ちゃん!気がきくなあ。」

そう言うと、高橋はシートに敷かれたハンカチを手に取ると、早紀に返して早紀の隣にちゃっかり座った。

「こんなヤツを座らせるのにハンカチなんか敷くことないよ。」

「あら、そうですか…」

独身の高橋は、三浦家の身内のような存在でもあった。

「恭子ちゃ〜ん、優勝したら、何でも好きなもの買ってやるからなあ。」

高橋は大声でそう言うと、恭子に向かって手を振った。


 スタンドでなにやらわめいている高橋に気が付くと、“やれやれ”というように首を振った。

「こんな平日の昼間に、おじ様まで来ちゃって、あの会社、大丈夫なのかしら?」

二人が応援に来てくれたこと、予想通り周りの雰囲気を無視してはしゃいでいること、そんな二人を見ていると、恭子はこれから出場する、決勝のレース前に気持ちが楽になったような気がして感謝した。


 決勝のレースを前に午後から、少し雲行きが怪しくなってきた。

レースが始まる頃には、雨がぱらつき始めた。

100m走の決勝は1500m決勝の後に行われる予定になっていた。

ちょうど、今、1500mがスタートしたところだった。

1500mが終わると急に雨足が早くなってきた。

競技場の係り員たちが一斉に出てきて、100mのレーンにシートをかけた。

既に他のフィールド競技は終了している。

残すは100m決勝と100×4リレーのみだった。

競技委員が各校の責任者を集めて続行するかどうかを検討し始めたとたんに、雨が上がって、薄日が差してきた。

レーンの整備が終わり次第レースを再開することになった。

恭子達はウォーミングアップを始めた。

係り員たちはレーンの所々にたまっている雨水を拭き取っている。

そして、準備は整った。

決勝のスタートを告げるピストルの音が高らかに大空にこだました。


 連合陸上大会が行われた日の週末。

高橋と孝幸が中心になって、選手たちの慰労会を行うことになった。

高橋は孝幸の上司でもあったが、この町で生まれ育った町会青年部の部長を務めていた。

孝幸達が引っ越すと決めた時、この町を選んだのは高橋に勧められたからでもあった。

慰労会は、第五小と第四小も合同で実施することにした。

そして、臨時コーチを引き受けてくれた西崎拓にも声をかけた。

しかし、拓は練習を休むわけにいかないと、小山悠斗を通じて丁重に断ってきた。

代わりに、悠斗が出席することになった。

会場は居酒屋“ばれいしょ”。野々村仁美の家だ。

“ばれいしょ”という店の名前の由来は、じゃがいもの馬鈴薯とバレーボールのバレーをかけたもので、じゃがいも料理がこの店の売りでもあった。

 選手たちは是全員参加したわけではないが、それでも、3校合わせて40人近くが参加した。

子供だけ参加したところもあれば、保護者と一緒に参加したところもあり、町会のお偉いさんや先生ま含めると、70人からの大人数になった。

“ばれいしょ”は2階の座敷も含めて100名ほど入れる店だったが、この日は店の外に『貸し切り』の札がぶら下げられていた。

 子供たちは2階の座敷で、大人たちは1階のテーブル席とカウンターで大宴会が繰り広げられていた。

連合陸上大会では、何人かの生徒が優秀な成績を収めていた。

第五小では女子800mで3位、女子100mで3位、女子100×4リレーで2位、男子走り高跳びで6位、男子走り幅跳びで2位と6位。

第四小では女子走り幅跳びで3位、女子800mで6位、男子400mで2位、男子1500mで5位。

第三小では女子100×4リレーで6位、男子1500mで5位、と入賞者を出した。

そして、3校合わせて唯一の金メダルを獲得したのが三浦恭子だった。


 雨上がりに行われた100mの決勝はレーンのコンディションが悪く記録こそ平凡に終わったが恭子の強さは、決勝でも圧倒的だった。

準決勝で恭子と一緒に走って4位だった第五小の選手も決勝では3位に食い込んだ。

しかし、100×4リレーでは決勝には残ったものの、アンカーの恭子にバトンが渡った時には再開の8位だった。

それでも恭子が二人抜いて、どうにか6位に入り入賞を果たした。

100mの代表になった選手と遜色のないベンバーを加え、実力のある4人のランナーを揃えた第五小は100×4リレーで2位に入った。


 2階では恭子の周りに、他の学校の生徒たちも多く集まっていた。

「三浦さんってすごいよね。区の記録塗り替えちゃったんだもんね。決勝の前の雨が降らなかったら、もっといい記録でたかもねえ。」

「本当。男子の決勝の記録より0秒1遅かっただけでしょう?」

「もしかしたら、男子のレースに出ていても優勝していたかもね。」

恭子は連合陸上大会以来、地区の女の子たちの間では、かなりの人気者になっていた。

だが、天狗になることもなく、依然と同じように学校生活を送っていた。

仁美は、そんな恭子のファンのために、プリクラで恭子に写真を撮ってもらい、せっせと店の案内チラシに貼っては配り歩いている。


 1階では、孝幸と高橋が将来はオリンピックに出て、西崎拓とカップルになってオリンピックペアの誕生だと大はしゃぎしている。

あながち大ぼらという訳でもない話だけに、町会の連中もすっかりその気になって後援会を作るなどとい出す始末だ。

野村は、変に期待すると、プレッシャーでつぶれる子もいるからあまり大騒ぎしない方がいいとたしなめたが、「そんなことは分かっているが、今日だけは言わしてくれ。」そう言って高橋が頭を下げるので、「わかっているならいいですけど…」と引き下がった。


 悠斗は、酔っぱらった大人たちを尻目に、2階に上がっていった。

大勢に囲まれている恭子を見つけると、片手を軽くあげて合図した。

恭子は頭を下げてそれに応えた。

悠斗は恭子のそばまで行くと、「ちょっと三浦さんに話があるから。」と言って、廻りの子達を遠ざけた。

「すみません。助かりました。」

「助かった?」

「はい、正直言うと困っていたんです。私、話をするのは苦手で…」

「なるほど、分るよ。拓のヤツもそうだけど、“英雄多くを語らず”ってね!なんかそんな言葉あったよね?」

恭子は首をかしげた。

「あれっ?知らない?おかしいなあ…違ったかなあ…まあ、そんなことはどうでもいいや。拓から手紙を預かってるんだ。」

そう言って悠斗は恭子に可愛らしいイラストが描かれている封筒を渡した。

「バカにしてるだろう?いくら女のだと言ってもこれはちょっとガキっぽいよな?」

封筒を手に取った恭子は、悠斗の言葉を聞いてクスッと笑った。

「ありがとうございます。拓さんに伝えてください。よく私がこのキャラクター好きなの知ってましたねって。」

「へ〜、そうなんだ。あいつも隅に置けないなあ。じゃあ、確かに渡したからね。」

そう言って悠斗は立ち上がった。

歩きかけて、振り向くと、ひとつだけ質問があると言った。

「君はアイツが言うところの“あの子”なのかい?」

恭子には悠斗の質問の意味がすぐに理解できた。

「はい。」

そう返事をすると、嬉しそうにほほ笑んだ。

その笑顔を見た悠斗は、何とも言えない不思議な気持になった。

「まいったな。あんな顔されたら俺だって…」

悠斗は後ろ髪をひかれる思いで、酔っ払い達の相手をしに階段を降りて行った。




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