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16.運命の日

16.運命の日




 東京に戻って来てから1か月。

恭子は中学校の部活からは引退して、後輩の指導をしながら自主トレーニングをしていた。

学校が休みの週末には東洋電機へ出向き、真田綾子の指導を受けた。

全国大会が終わったときには、陸上競技で名門といわれる私立の高校から数えきれないくらいのオファーがあった。

だが、恭子は都立の城東第一高校に行くと決めていたし、孝幸と早紀もそのつもりでいたので、スカウトたちの対応には一苦労だった。

2月になると、推薦の試験が行われたが、恭子は体調を崩して受験することができなかった。

まあ、一般入試でも充分に合格するだけの学力はあったから、恭子が拓と同じ一高のユニフォームで全国の舞台に行くことは誰もが疑わなかった。

 恭子はトレーニングにも受験勉強にも努力を惜しまず、拓と一緒にオリンピックに出ることを夢見ていた。



 恭子が全国大会を制した後、拓は海外の賞金が出るレースを転戦していた。

元旦には、恭子もそんな拓とメールで新年のあいさつを交わした。

ところが、年が明けて間もなく、拓は3月までの海外遠征を切り上げて、急に東京に帰ってきた。

 東洋電機の池田監督をはじめ、マスコミも拓の突然の帰国には驚いていた。

「どうした? 怪我でもしたのか?」

池田監督は拓が会社を辞めて、海外で賞金を稼ぎながら実績を作りたいと申し出た時は猛反対をした。

しかし、拓の熱意に負けて、会社に休職扱いにしてくれるよう頼み込んで、拓を送り出した。

「いえ、体調は申し分ありません。 帰ってきたのは、今、ボクがここにいなくちゃならない理由があるからです。 ボクの人生は、この時のために、そして、その後の未来をつくるためにあったようなものですから」

「拓、お前、いったい何を言ってるんだ?」

池田監督の問いに、拓は答えず、ただ、黙って空を見つめた。

『なにも心配するな。 ボクがささえてあげるから』



 拓が帰国したニュースは、否応なく恭子の耳にも入った。

しかし、恭子は受験勉強に専念し、毎晩深夜まで机に向かっていた。

「おい、恭子、あまり無理するなよ。また体調でも壊したら元も子もないぞ」

孝幸はそんな恭子のことが心配で仕方なかった。

「そうよ、たまには早く休んでもバチは当たらないわ」

早紀もまた孝幸と同じ気持ちだった。

ふたりとも、最近の恭子を見ていると、無性に胸騒ぎがしたのだった。

「お父さんもお母さんも心配し過ぎだよ。 この冬休みが受験生にとってどれだけ大切かくらいわかっているでしょう?」

「そりゃあ、そうだが、お前の成績なら一高どころか聖都付属だって楽勝だと野村先生も言ってたからな・・・」

「そうね。 聖都付属を受けるなら勉強なんかしないわ。 一高だからやるのよ。 一高だから、どんな間違いがあっても必ず入りたいの! 一高だから・・・」

そんな恭子の言葉を聞いたら孝幸達も何も言えなかった。



 受験日の一週間前、恭子はいつものように熱心に受験勉強をしていた。

体調管理にも気を使い、この冬は珍しく風邪ひとつひかなかった。

夕食は、恭子の好きなハヤシライスだった。

サラダは孝幸のお手製だった。

恭子は孝幸のポテトサラダがとてもお気に入りだった。

「お母さんの料理は私の自慢だけど、ポテトサラダだけはお父さんのが世界一美味しいわ」

「まあ! 確かにお父さんのポテトサラダは美味しいけれど、世界一は褒めすぎじゃない?」

「そんなことないわ! 世界一料理が上手なママより美味しいのよ」

このところ、勉強ばかりで、ろくに食事もしていなかった恭子が、今夜はことのほかよく食べた。

孝幸も早紀も、その姿を見て、すっかり安心した。

「それじゃあ、ごちそうさま」

「ああ、喜んでもらえて光栄だよ。」

恭子は食器を片づけると再び部屋に戻って行った。



 「どうして神様は、一生懸命頑張っている人に試練を与えるの?」

恭子がまだ小学校のころ、あるテレビの番組を見ながら、涙ながらに孝幸に聞いて来たことがあった。

「その人ならきっと乗り切ることができると神様には分かるからよ」

そんなことを早紀は話した覚えがある。

まさに、その時のことが夢に出てきた。

早紀はハッとして目を覚ますと、何とも言えない不安感に襲われた。



 その夜、恭子は久しぶりにお腹いっぱい食事を取ったので日付が変わる頃には睡魔に襲われはじめていた。

「う~ん」

椅子から立ち上がり、両手を高くあげ、思いっきり伸びをした。

少し、気分がシャキッとしたように思えた。

「あと少しだけ頑張ろう」

そう思って椅子に座り、ペンを手にした。

左手で参考書のページをめくろうとした時、運命のときは訪れた。

『あれっ? 手が動かない・・・』

そう思うと同時に、左足の力が抜けて、恭子は椅子から崩れ落ちた。

『どうしたの?』

何が何だか分からなかった。

両手で体をささえて起き上がろうとするけれど、左側に倒れてしまう。

「わ、わたし、左手と左足が動かない・・・ おかあさん、助けて・・・」

そう叫びたかったが、声もまともに出せない。

恭子は動かすことができる右手と右足で、床を這いながら、どうにか孝幸と早紀の寝室までたどり着いた。

右手をのばしてドアノブを廻すと、開いたドアに身を任せるように部屋の中ん転がり込んだ。


 夢から覚めた早紀は、その瞬間、寝室のドアが開いて恭子が倒れ込んで来たのを見てベッドから飛び出した。

「恭子!」

孝幸は恭子の体を支えると、抱きしめた。

「どうしたの?」

「・・・ないの」

「えっ?」

「動かないの・・・」

恭子はそう言って、右手で左手と左足を指した。

早紀はことの重大さに気がつくと孝幸に向って叫んだ。

「おとうさん! 起きて頂戴。 恭子が、恭子が・・・」

孝幸が目を覚ますと、ぐったりした恭子を抱きかかえる早紀の姿があった。

『どうした! 何が起きたんだ?』

とにかくただ事ではない。

孝幸は恭子を背負うと、車のキーを早紀に渡した。

「とにかくエンジンをかけておいてくれ。」

そして、ベッドから毛布を引き抜いて恭子の背中に掛けると、携帯電話を取り、すぐに高橋に電話した。

「部長、一大事です。恭子が・・・」


 布団の中で電話を受けた高橋は、その瞬間、半開きの瞼を開いて立ち上がった。

「わかった。 子供たちは俺が引き受ける。 早く病院に連れて行ってやれ」

「ありがとうございます。 恩に着ます。 ドアのカギは開けてきますから」

エレベーターでエントランスに降りてくると、早紀が玄関先に車を止めて後部座席のドアを開けた。

孝幸は恭子を後部座席に乗せると、運転席に座りハンドルを握った。



 一番近い救急指定病院に着くと、孝幸は再び恭子を背負って救急の受付に走った。

夜中だと言うのに順番待ちの患者が数人並んでいた。

『なんてこった! こんな時に限って・・・』

「すいませ~ん、先生! ちょっと診てもらえませんか?」

受付の看護師は事務的に「少々お待ちくださいね」と言う。

「ふざけるな! この子にもしものことがあったら、あんたどう責任取るつもりだ。 いくら順番でも、時と場合があるだろう。 とりあえず見てくれよ。 それで大丈夫ならいくらでも待つから」


 脳外科医の香坂尚輝は緊急のオペを終えて下番するところだった。

たまたま救急外来の受付のそばを通った時に、孝幸の叫び声を聞いた。

孝幸に背負われた少女の姿を見て、すぐに脳出血だと思った。

香坂は孝幸のほうに歩いて行くと、少女の表情を確かめた。

少女は不安そうにしていたが、この父親を信頼していることが一目見て分かった。

「おとうさん、私の診察室へ行きましょう」


 孝幸は恭子を背負って医者に従って診察室へ恭子を連れて行った。

診察室のベッドに恭子を寝かせると、医者は恭子の症状を確認した。

そして、孝幸に発症した時の状況を聞くと、頷き、看護師に指示を与えて孝幸を応接室へ案内した。


 車を駐車場に止めてから病院に入ってきた早紀は、受付で孝幸と恭子のことを聞いた。

「ああ、多分、香坂先生が診ている患者さんね・・・ そこの診察室“C”の応接にいらっしゃると思いますよ」

「ありがとうございます」

早紀はそう礼を言うと、診察室“C”のドアを開けた。

「あの、三浦と申しますが、今、ここに・・・」

「お母様ですね。 こちらへ」

看護士が応接に案内してくれた。

部屋に入ると、孝幸が神妙な顔をして医者の話を着ているところだった。

「おとうさん、恭子は?」

孝幸は早紀の顔を見た途端、目頭が熱くなり、唇が震え始めた。

「き、恭子が・・・ 走れないって・・・ 走れないって言うんだ」

「おとうさん、落ち着いてください」

早紀は孝幸の肩に手を置いて、医者に事情を聞いた。

「まず、恭子さんの病名は『脳動静脈奇形』 脳動静脈奇形は一般の方には聞き慣れない病名と思いますが、脳神経外科の領域では良く知られている疾患です。普通の脳の血液循環ですと、動脈-毛細血管-静脈の順序に血液が流れます。毛細血管は酸素やグルコースなど脳にとって大事な物質の交換場所であると同時に脳循環からみますと血流の抹消抵抗の強い場所でもあります。 脳動静脈奇形は原始動脈、毛細管、静脈が分かれる胎生早期(第三週)に発生する先天性異常であり、脳血管撮影をしますと、正常の流れと異なり、毛細血管相が無く、動脈相の時期に既に静脈が造影され(動脈血が直接静脈に移行)、同時に『無数のマムシが巣の中でニョロニョロと絡み合っているような異常血管塊(ナイダス、ラテン語の巣の意)』が描出されます。 動動静脈奇形が存在しますと、脳の血流は、毛細血管があるため抹消抵抗の強い正常脳組織への還流を避け、抵抗の少ない動静脈奇形部に多くの血液が流れ込みます。従って周辺部の脳は乏血状態になり、まひなどの脳虚血症状が出現することがあります。これを動静脈奇形部に血が盗まれる現象、『盗血現象』と言います。 また、毛細血管が存在しないため、動脈系と静脈系の圧調整が出来ず、静脈系に過大の圧が加わり、次第に脳動静脈奇形は増大します。大きなものになりますと血液が空回りしますので心臓に負担が加わり、心筋肥大や心不全になる場合もまれにあります。さらには、破裂による出血の危険も伴います。 さて、脳動静脈奇形の頻度ですが前回の脳動脈瘤りゅうの約10分の1から20分の1と言われています。代表的な症状は脳動静脈奇形の破裂による頭蓋内出血症状=くも膜下出血、脳実質内出血、脳室内出血…突然の激しい頭痛、嘔吐おうとや出血の部位によるまひなどの巣症状=が40~50%、次いでけいれん発作が20~30%、前述の盗血現象によるまひなどの進行性の神経脱落症状が数%、頭痛などのスクリーニングで偶然発見されるものが20%前後となっています。 いずれも発症年齢は20~30歳代と比較的若年です。この年齢で発症したくも膜下出血やけいれん発作の患者さんを診れば、われわれ脳神経外科医は最初にこの脳動静脈奇形を考える程です。この疾患の予後は、脳動脈瘤破裂より軽症ですが、いったん出血に見舞われますと死亡率約10%、まひなどの後遺症が残る罹病率が約30%と言われています。 脳動静脈奇形の自然歴をみますと、非出血発症例の将来の出血率は年間2~3%、出血発症例では再出血率は1年目は6%と高く、以後は非出血例と同等の年間2~3%と言われています。 さてこの脳動静脈奇形の治療の第一は将来の出血による死亡を含む重篤な神経脱落症状出現の防止にあります。この目的のため現代の医学では次の三つの戦略が考えられます。①手術による摘出術…最も確実である。しかし脳深部や重要な神経機能部位では手術が困難な場合がある②血管内手術による塞栓術…血管内操作でマイクロカテーテルを動静脈奇形の栄養血管に誘導して塞栓物質を注入してナイダスを中から塞栓する。しかし単独では治癒率は低く、現況ではまだ補助的治療手段の段階である③ガンマーナイフやx-ナイフなどによる放射線治療…通常一日で治療が終了しすぐ社会復帰出来るという利点がある。 一方、完全塞栓率が摘出術より低く、完全塞栓に至るまでに2~3年を要し、その間の出血率は未治療と同等である。また、①~③をいろいろ組み合わせた治療も良く行われます。さらに、④根治療法のリスクや脳動脈瘤破裂より致死率が低いことを考慮して抗けいれん剤のみを投与し保存的治療で経過をみるという選択も重要です。 脳動静脈奇形の大きさ、存在場所が脳の表面か深部か、重要な神経機能をつかさどる場所か、出血例か非出血例か、既に神経脱落症状を伴っているか、年齢、合併症の有無など症例ごとに各治療手段のリスクも異なります。患者さんに十分説明し、可能であれば完全治癒が得られる摘出術が望ましいとは考えますが、さらに一人ひとりにとり最も適切な治療方法を吟味し選択すべきだと考えます。因みに胆沢病院では摘出術を中心とする根治療法と保存的治療の比率はほぼ半々です。 いずれにしても、恭子さんの症状ではすぐに手術しなければなりません。 そして、恭子さんの場合はほぼ100%に近い確率で麻痺が残ると思われます。 それを踏まえて、こちらの同意書にサインして頂きたいのですが」

専門的なことはよく分からないが、すぐに手術が必要ならサインするしかない。

孝幸に比べて、早紀は自分でも驚くほど冷静だった。

「とにかく、恭子のために最善を尽くしていただけますか?」

「もちろんです」


 数十分後、手術に向けての検査を行うため、恭子は検査室へ運ばれて行った。

検査だけで3時間かかった。

そして、これから7時間にも及ぶ手術が始まる。

手術室へ入るとき、恭子は一瞬、孝幸と早紀に向ってVサインを出して見せた。

『大丈夫だから心配しないで』

きっと、そう言いたかったのだろう。

孝幸は、そんな恭子の姿を見たら、自然に涙が溢れだして止まらなかった。

「くそっ! 涙が止まらねえ。 父親のくせに、だらしないな・・・ カッコ悪いよ」

「そんなことありませんよ。 父親だから涙が流れるんですよ。 あなたはとてもいいお父さんよ」

早紀はそう言って孝幸を抱きしめた。

そして、早紀の頬にも涙のしずくが流れ落ちていた。





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