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健やかに育ってくれますように

1.健やかに育ってくれますように




 時計の針は間もなく午後六時を指そうとしていた。

三浦孝幸みうらたかゆきは、さっきから何度も腕時計に目をやっている。

もはや、仕事は手につかなくなっていた。

「おい、三浦、今日はもういいから早く帰れ。」

そんな孝幸の様子を見かねた所長の高橋が声をかけた。

「その調子で机の前にいたって、どうせ、仕事にならんだろう。」

孝幸は慌てて、取り繕うように電子計算機を叩き始めた。

「いえ、大丈夫です。今日中にあげる約束ですから。」


 孝幸は、中堅の建設会社で技術者として働いている。

現在は都内の建設現場で主任として、所長の高橋の下で工事の統括を担当している。

一週間ほど前から、設計変更に伴う、工事費の増減見積もりをまとめていた。

翌日から3連休となる、この日のうちに何とかまとめてしまいたかったのだが、思った以上に手間を食ってしまった。

工事現場での実務に時間をとられて、こう言った事務的な作業はだいたい夕方の五時以降から実施することが多く、毎日残業してもなかなかはかどらなかった。

しかし、孝幸はあともう一息というところまでこぎつけていた。

 この日は現場の作業が雨のため、午前中で切り上げになった。

おかげで午後からはみっちりと見積書の方に時間を割くことができたからだ。

ところが、夕方の四時頃、孝幸宛に電話が入った。

 じつは、孝幸の妻、早紀さきは妊娠していて、そろそろいつ生まれてもおかしくない時期に入っていた。

電話の相手は早紀の母親の愛子あいこからだった。

「孝幸さん?お仕事中にごめんなさいね。恭子が産気づいて今病院に入ったから。」

「えっ?」

孝幸は、少しうろたえた。

そろそろだということは分かっていたし、また、楽しみにもしていた。

しかし、この2〜3日は正直、すっかり忘れてしまっていた。

受話器の向こう側からは、義母の声が冷静に現状の様子を伝えている。

「まあ、初めてだし、生まれてくるまでにはまだ時間がかかるだろうから、孝幸さんは仕事が終わってからゆっくりくればいいよ。」

そう言って病院の名前を告げた。

早紀がいつも定期健診を受けていた病院だった。

「よしっ!とっとと片付けちまうか。」

とは言うものの、気ばかり焦って、ようやく集計が終わって、検算してみると、するたびに答えが違うのだ。

「あれっ?おかしいなあ。」

腕時計を見ると、既に終業時間の五時はとうに回っていた。

「ちくしょう!どうなってるんだ?これが合えば終わりなのに。」

そこに所長の高橋から声がかかったのだ。

「おい、三浦、今日はもういいから早く帰れ。」

孝幸は慎重にゆっくりと一列ずつ確認しながら、電子計算機のキーを押していった。

3589825・・・更にもう一度確認してみた。3589825。

「よし!ピッタリだ。」

結局、最初に計算した数値が正しかった。

それから、端数を調整して経費を加え、設計変更に伴う工事費の見積もりが終了した。

「所長、終わりました。確認してください。」

「わかった。後は任せろ。だから、とっとと行って来い。」

「ありがとうございます。」

高橋が手をあげて、追い返すしぐさをしながら、孝幸の方を見ると、孝幸は既に、ジャンパーを片手に出入り口のドアに手をかけていた。

外に出て、ドアを閉めるとガラス越しに高橋に頭を下げて、スチール製の踏み板で出来ている仮設事務所の階段を駈け降りて行った。

高橋は、その“カンカンカン”という、リズミカルな音を聞きながらつぶやいた。

「まあ、初めての子じゃあ、無理もないな。」


 聖都大学病院の産婦人科は15階立タワーの5階〜8階を占める。

受付と外来及び分娩室は5階で、6階〜8階が病室になっている。

孝幸が受付に到着すると、義母の愛子が電話をかけているのが見えた。

孝幸は、一度、愛子の視界に入るように回り込んでから軽く手を挙げて合図した。

愛子は孝幸に気がつくと、頷いて、電話を終わらせようと話をまとめ始めた。

「じゃあ、そう言うことだから、また電話するよ。」

愛子は受話器を電話機に戻すと、孝幸に微笑みかけた。

「ずいぶん早かったわね。まだまだ生まれそうにないよ。」

「そうなんですか?」

「ああ。まぁ。最初はだいたいこんなもんさ。あなたが来たなら、私は一旦家に戻って入院の支度を整えて出直してくるわ。」

そう言うと、義母の愛子は孝幸をおいてエレベーターの中に消えて行った。

孝幸はどうすればいいのかわからないまま、とりあえず、受付に行って、早紀が今どこでどうしているのかを聞いてみることにした。

「あのう、三浦と申しますが…」

事務服を着た中年の女性が、孝幸を見て微笑みながら応えてくれた。

「三浦早紀さんのご主人ですね?」

「はい。どうして分かったんですか?」

「あら?今、三浦っておっしゃったじゃありませんか。」

「ああ、そうか!」

孝幸は自分がかなり浮足立っていることに、うろたえると同時にそんな自分を初対面の女性に見透かされていると思うと、なんだか急に恥ずかしくなってきた。

「初めてのお子さんだそうですね。おめでとうございます。」

「ありがとうございます。」

孝幸は、女性の目を見ることができずに、横を向いて返事をした。

受付の女性は、患者のリストをチェックしながら、孝幸に話しかけた。

「私も同じ名字ですから奥さんのことはよく覚えています。今は準備室にいると思いますから、もう少し待っていて下さいね。」

「はい。」

孝幸は、そう返事をして、女性の胸に付けられたネームプレートを見た。

『三浦由紀子』と書いてあった。

良く見ると、それほど中年という感じではなかった。

“早紀と同じくらいかもしれないなあ…”そんなことを思っていると、三浦さんは早紀がいる準備室の場所を教えてくれた。

孝幸は三浦さんに礼を言って、早紀がいる準備室へ早足で向かって行った。


 産気づいたと言っても、陣痛の間隔が短くなって、その度に痛みが伴うので、担当の先生に相談してみたら「もう、いつ生まれてもおかしくない時期なので、思いきっていらっしゃい。病院に入れば、赤ちゃんもその気になって出てくることもありますから。」などと言われたのでとりあえず、病院に来たのだった。

なので、母親の愛子と二人で、タクシーで来た。

病院に来てからは、しばらく落ち着いていたのだけれど、病院の空気を感じているうちに、先生が言ったとおり、子供が出てきたがっているような気がしてきた。

「ねえ、お母さん、なんだか生まれそうな気がしてきたわ。」

「いいや、まだまだだよ。」

「そうかなあ…」

「一応、孝幸さんには連絡入れておいたからね。時期に来るんじゃないかな。」

「どうかしら…このところ、毎日残業で、帰りも遅いから。」

「ばかだねえ。男なんてものは子供が生まれるなんて言ったら、仕事さぼってでも飛んで来るもんだよ。」

「お父さんもそうだったの?」

「う〜ん…あれは例外だね。出産に付き合うどころか、あんた達のオムツも替えたことがなければ、ミルクをやったこともないよ。1日中家にいたのに、本当に役立たずだったよ。その、お父さんに、一応電話してくるわね。さっきは家にいなかったから、誰もいなくて心配してるといけないから。」

「そうね。」

早紀は、愛子に手を振ってベッドに横になった。

陣痛の間隔がだんだん短くなってきた。

本当に、もうすぐ生まれそうな気がして、一人になるとなんだかとても心細くなった。

しばらくすると、部屋のドアが開き、孝幸が入ってきた。

「早紀、大丈夫か?」

孝幸の顔を見たとたんに、安心した。

安心したら、急に激痛とともに、破水したような感覚に襲われたので、孝幸に確認した。

「破水したかもしれないんだけど、どうなってる?」

「えっ?」

孝幸は寝間着をめくって見てみたが、もはや、冷静に対応できる状態ではなかった。

「今、医者を呼んでくる。」

そう言って、部屋を飛び出した。

早紀は、孝幸のうろたえようを見て、なんだか可笑しくなった。

手に持っていたナースコールのボタンを押して、状況を看護師に伝えた。

「今行きますから、ちょっとだけ我慢していて下さいね。」

すぐに看護士が来て様子を見てくれた。

「意外と早く来ましたね。今から分娩室に入りましょう。」


 孝幸は部屋を出たものの、どこへ行って誰に言えばいいのかもわからず、廊下をウロウロしていた。

こんな時に限って、誰とも会わない。

ふと思い出して、さっきの受付に行ってみることにした。

すると、『本日の診療は終了しました。』の札が掛けられていた。

こうなると、もう、何をどうすればいいのか分からなくなった。

ちょうどその時、奥の通路を三浦さんが通るのが目に入った。

「三浦さん。」

孝幸はそう叫んで、奥の通路の方へ駈けだした。

「まあ、ご主人。病院の中は走ってはいけませんよ。」

「あっ!すみません。あの…ちょっといいですか?」

「あら、わたし、既婚者からのお誘いはお受けできないんですよ。」

「!」

こんな時にこの人は何を勘違いしているんだ?

「それでは。」

そう言って立ち去ろうとする三浦由紀子の腕を捕まえて、孝幸は説明した。

「なんだ!そうだったんですか。だったらナースセンターへ行った方が早いですよ。」

「その、ナースセンターってどこにあるんですか?」

「準備室のお隣ですよ。気がつきませんでしたか?」

「すみません。ありがとうございます。」

孝幸は、一応、礼を言ってナースセンターへ走りだしました。

背後から、「走らないで下さい。」という声が聞こえたような気がしたが、構っている余裕などなかった。


 ナースセンターにたどり着くと、孝幸は開口一番こう叫んだ。

「破水したみたいなんですけど見てもらえませんか?」

近くにいた看護士に、「落ち着いてください。」となだめられて、孝幸は少し落ち着きを取り戻したが、まだ、興奮気味だった。

「まず、お名前をし得ていただけますか?」

「はい、三浦孝幸です。」

「それはあなたのお名前ですね。破水したのはあなたですか?」

「何バカなこと言ってるんですか?ボクが破水するわけないでしょう!」

「そうですね。私もあなたのお名前を聞いたつもりはないんですけど。」

そう言われて、孝幸はようやく冷静さを取り戻した。

孝幸が落ち着いたとみると、その看護士はにっこり笑って、「三浦早紀さんのご主人ですね?」

と確認した。

「はい。」

孝幸が答えると、手招きをして、ナースステーションの中に招き入れた。

そして、孝幸は看護師から帽子と防護服みたいなものを手渡された。

「奥様は今、分娩室にお入りになられました。ご案内しますので、それを着ていただけますか?」

「えっ?分娩室ですか?」

「そうですよ。たぶん、ご主人が部屋を出られた後に、奥様はナースコールを押して担当の看護士を呼んだようですね。」

「ナースコール?」

孝幸は、今までの自分の行動が何の役にも立たなかったことにがっかりした。

「こんな、一生懸命なご主人がいてくれるなんて奥様はとても幸せですね。」

そう言われて、孝幸は少しだけ、自尊心を回復することができた。

「ありがとうございます。」

そう、礼を言って、その看護士の顔をはじめてまともに眺めてみた。

まだ、二十代の前半ではないかと思った。

こんな、娘に軽くあしらわれてしまった自分はまだまだガキなんだと思いつつ、こんなに若いのに、これだけすごい対応ができるこの娘はすごいなあと感心した。


 “スースーハー”そばで立ち会ってくれている看護士がそんな風に早紀を促している。

「はい、いきんで。」

けんめいにいきんで見せる早紀。

孝幸は、出産に立ち会ってはいるものの、何をしていいのか分からず、ただ、早紀の手を握りしめることしかできなかった。

そんな孝幸を、看護士さんはにこやかに見守っている。

「ご主人、しっかりその手を握ってあげていて下さいね。」


 それから何時間経っただろう?

良く覚えてはいないが、もしかしたら、30分くらいだったかもしれない。

しかし、この子の産声だけはよく覚えている。

「ほら、もう少しですよ。がんばって!」

そう言われて早紀は最後の力を振り絞り、いきみ続けた。

すると、“オギャー”元気な産声とともに、一つの新しい命がこの世に誕生した。

孝幸はその瞬間腰を抜かして、その場にへたり込んだ。

医師に手を差し出され、やっとの思いで立ち上がると、その場にいたすべての人たちから祝福された。

「おめでとうございます。女の子ですよ。」

「ご主人よく頑張りましたねえ。でも、いちばんのお手柄は奥さんですからね。」

孝幸は、早紀に歩み寄りねぎらいの言葉をかけた。

「よく頑張ったね。君は本当に偉いよ。それに比べたら、ボクなんか…」

孝幸の目からは、見る見るうちに涙がこぼれ落ちてきた。

その涙が、早紀のほっぺたに落ちた。

早紀はそれを舌でなめて「しょっぱいよ。」と孝幸を見つめた。

「ねえ、疲れたから、少し休むね。」

そいって早紀は眼を閉じた。

「うん。うん。ゆっくり休めばいいよ。」


 孝幸は保育器に入れられた自分と作の子供をずっと、飽きることなく眺めていた。

「お母さんがあんなに苦労して産んでくれたんだ。健やかに育ってくれよ。」

そう思いながら、いつまでもその子の顔を眺めていた。

愛子はそんな孝幸を見て、早紀にこう言った。

「先が思いやられるね。こりゃあ、この子が嫁に行く時は大変だよ!」

早紀も頷いて、応じた。

「そうね。」




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