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29/50

29.そして彼は彼女のことを忘れてしまった

 目を覚ましたときにはすでに、時刻が四時四十分を少し回ったところで、危うく寝過ごしてしまうところだった。危ない危ないと思いつつ立ち上がると、もうめまいや倦怠感は消えていた。

 嬉野さんがやってくる前に部屋を片付けておかなければと思い、布団をたたんで部屋を掃除しておく。寝巻きから普段着へと着替えるために、タンスを開いた。そこには見慣れない女性用の衣服が一着入っていて、一番最初にそれを手に取る。

「なにこの服……」

 それはどこか懐かしさがあって、見ているだけで胸の奥が締め付けられる。知らず知らずのうちにほろりと涙が流れていて、慌てて拭った。

 僕は、この衣服を知らない。

 妹が置いていったものなのだろうか。

 でも仮にそうだとしたら、今まで気付かないのはおかしい。というか妹の服を見て涙を流すなんて、どうかしている。

 嬉野さんが置いていったものなのだろうか。一瞬そう考えて、違うなと思った。

 嬉野さんは、昨日僕の部屋で着替えなんてしていなかった。酒に酔っていたけれど、細かな記憶はちゃんとある。それじゃあ、この衣服は誰が着ていたものなのだろう。答えの出ない問いはぐるぐると頭の中を回る。

 捨てるという発想が思い浮かんだけれど、理性のようなものがそれを拒ませた。なぜか、捨ててはいけない気がする。

 なにか……そう、例えるなら思い出という言葉がふさわしい。僕は確かにこの服を知っていて、身につけていた人も知っていたはずなのだ。それは心の中に思い出として残っている……気がする。

 でも、それが全部僕の中から抜け落ちていた。根拠はないけれど、たしかな自信は存在する。漂ってくる匂いも、僕は知っているはずなのだ。だけど、全くといっていいほど思い出すことができない。

 頭の中に正体不明のモヤモヤが形成されていったが、僕は部屋の外から聞こえてきた声によって我に帰った。

 部屋の外から、嬉野さんの大声が聞こえたのだ。考え事をしていたから、どのような言葉を発したのかまではわからない。

 だから僕はそれを確認するべく、部屋の外へ出た。

 ドアを開けて正面に嬉野さんはいなくて、右へ視線を向ける。そこには、嬉野さんと先輩がいた。

 嬉野さんは全然僕に気がついていなくて、スーツを着た先輩に詰め寄っている。もしかして、知り合いなのだろうか。

「あの、嬉野さん?」

 ようやく僕に気がつく。パッと表情が晴れやかになった。まるで自分の宝物を見せびらかしているかのような笑顔だった。

 先輩はどうやら戸惑っているようで、嬉野さんが言葉を発するのを制止させようとしている風にも見える。だけど興奮の高まった彼女はそんな些細なことに目をくれるはずもなく、僕へとその真実をカミングアウトした。

「この人! 名瀬先生なの!」

「……はい?」

 僕は嬉野さんの言っていることが、おそらく八割型理解できなかった。先輩は右手を自分のひたいに当てて『あぁ、ようやくバレてしまったか』といったような表情を浮かべている。

 嬉野さんは、言葉を続けた。

「だから、名瀬雪菜先生なの! 金曜日にサイン会で見たから間違いないよ!」

 その真実を聞いて、ようやくバラバラだったパズルのピースが揃っていった。僕はどうしてそんなに単純なことに気がつかなかったんだと、自分を叱責したくなる。

 ヒントはいくつか存在した。

 初めて出会った時、やけに先輩は名瀬雪菜について詳しかった。デビューする前の名瀬雪菜について知っていたのは、明らかに不自然だ。

 それだけならまだ断定は出来なかったけれど、先輩の名前を知った時にはさすがに気付くべきだった。

 名瀬雪菜と七瀬奈雪。

 二つの情報を照らし合わせれば、同一人物なんじゃないかということはいくらでも想像できる。

 それに、先輩は珍しく先週の金曜日は家にいなかった。あれはきっとサイン会に出かけていたからだ。今となっては、どうして僕が先輩の部屋へ行ったのかは思い出せないけれど。

 僕は何かを話したくて、だけど言葉は喉の奥から出てこなかった。カラカラに乾燥しているようで、全く声にならないのだ。

 動揺と緊張。

 先に、先輩が口を開いてくれた。

「今まで隠してて、悪かったね」

 それは認めたということだ。名瀬雪菜は七瀬奈雪であって、僕の憧れていた小説家。ずっと会って話がしたかった。伝えたい事があったんだ。

 僕に夢を与えてくれてありがとうと。でもそれは、中途半端な形で挫折してしまった。

 それに、もっと他に伝えたい事が確かにあったはずなのだ。名瀬先生に出会ったら、真っ先に伝えるはずだったことが。

 それさえも、もう僕の中からは消えていた。

 何かが、ぽっかりと空いてしまっている。

 先輩は気まずそうな笑みを浮かべて「とりあえず、ここじゃアレだから中に入ろうか」と言って自分の部屋のドアへと手をかける。

 嬉野さんは、おそらく作家さんの部屋に興味があるのだろう。普段より少し興奮気味だった。だけどその期待は外れて、先輩は思いとどまる。

「……と、言いたいところなんだけど。私の部屋、今すっごく散らかってるからさ、小鳥遊くんの部屋にお邪魔しようか」

 嬉野さんは目に見えてしょんぼりした後、トボトボと僕の部屋へと入った。先輩は「悪いね突然」と小さく謝ってくる。

 僕はやっぱり言葉が詰まってしまって「あ、いえ……」としか返せない。

 それを先輩は苦笑して「作家だったからって、別に気を使わなくていいんだぞ」と言ってくれた。

 その微妙な言い回しの意味を、僕は数分後に知ることになる。

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