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11.パブロフの犬

寄り添って眠る華怜を起こしてからバスを降り、しばらく西の方へ歩くと、何度も見慣れた学校へ到着した。

「大きいですねー」

「市内の中で一番大きい大学だからね」

「今さらなんですけど、私が入っても大丈夫ですかね?」

「静かにおしとやかにしてれば、大学生に見えなくもないよ。私服も着てるし、目立ったりはしないと思う」

 それを聞いて安心したのか、僕と歩幅を合わせてきた。そしてなぜか右手を握ってくる。

「あの……これは?」

「デートは手を繋ぐものですよね?」

「それは恋人同士のデートじゃないの?」

「経験ですよ。経験」

 華怜は歩き出し、一瞬遅れて隣へ並ぶ。バスでの出来事があったから免疫が少しついたけれど、やっぱりこういうのは気恥ずかしい。

 これは華怜が迷子にならないようにするための配慮だと自分に言い聞かせ、僕たちはキャンパスの中へと入った。

 景観が良いようにと、この大学はキャンパス内にポツポツと木が植えられている。

 地面は石畳で、緑を増やすため所々に芝生が点在している。表面上はとても穏やかな気分になれる人工的な場所だ。

 キャンパス内は多くの人が歩きながら駄弁ったり、噴水のある水辺で仲良く昼食を摂ったりしていた。華怜を気にかける人なんて一人もいないし、もちろん僕を気にかける人もいるはずがない。

 それでも、こんなに人がいることを不安に感じたのか、先ほどよりもこちらへ距離を詰めてきた。頼られている、そう感じた。

「大丈夫だから。怯えなくてもいいよ」

「はい……」

 それでも華怜は身体を縮こませてしまうため、僕は苦笑する。

 キャンパスは北地区・中地区・南地区に分かれている。今回講義を受けに行かなければいけない場所は、北地区の大講義室だ。

 北地区には食堂や図書館もあるため、時間を潰すのによく使っている。

 しかしもう講義まで時間がないということもあり、急いで北地区の校舎へ向かった。

 レンガ作りの校舎へ入ると、中はひんやりとしていて心地いい。エレベーターに乗って三階へ上がり、しばらく廊下を歩いて大講義室へ入った。

 ここは一般的な大学と同じで、段差を作りながら机と椅子が扇状に並べられている。目の前には大きなスライドがあり、講義室の中にはもう何人かの生徒が座っていた。

 座らないと目立ってしまうから、僕らは講義室の右端の席へ腰を下ろす。

 すると華怜が突然深刻そうな表情で、

「大変です公生さん」なんてことを言うものだから、僕はちょっと背筋が張り詰めた。

「どうしたの?」

「私、教科書もノートも鉛筆も持ってません……」

 立っていたら、思わず滑って転んでいたかもしれない。

「華怜は大学生じゃないから、ノートに板書しなくてもいいよ」

「先生に怒られませんか?」

「ほら、人がいっぱいいるでしょ? 教授も一人一人にいちいち気を配ってられないから」

「でも万が一ということも……」

 記憶を失う前は真面目な優等生だったのかもしれない。そんなことを思いながら、必要ないと思うけれどルーズリーフとシャーペンを貸してあげた。

 ようやく安心したのか、深刻な表情を笑顔へと変える。

「楽しみですね、授業」

「楽しいものじゃないよ」

「それならお話してましょう」

「講義は聞かないと。学期末にテストがあるから」

「なんか、大学ってめんどくさいんですね」

 唇を尖らせながら言った華怜に、僕は苦笑する。

 しばらくコソコソ話をしていると、前方のドアから白髪交じりの初老の教授が入ってきた。

 生徒はみんな、最初だけスマホを触るのをやめておしゃべりも中断するけれど、講義が始まって十分ほど経てば、隠れながらスマホを触ったり居眠りする人が増え始める。

 大学というのはどこもかしこもこんなものなのだろう。

 おしゃべりをして講義の邪魔をする人がいないだけ、まだマシなのかもしれない。

 僕といえば、スライドを見てルーズリーフに板書をしていた。隣の華怜はあくまで僕に付いて来ただけなのに、必至に板書をしている。心理学なんて、華怜にわかるのだろうか。

 と思ったら、うつらうつらと船を漕ぎ始めて、シャーペンを机の上へ落とした。カシャンという高い音が響いたけれど、華怜はまだウトウトしている。

 横でその姿を見ていると、なんだか面白かった。

 しかし、ハプニングは突然起こる。

「……じゃあ、そこの右端の君。答えなさい」

 教授がそう言って、こちらを指差してきた。こちら、というよりウトウトしている華怜に、だ。

 華怜は当てられても起きることはなく、代わりに僕が答えようと立ち上がろうとしたら、教授が首を振った。

 横の寝ている子に答えさせなさいということらしい。

 すっかり忘れていたが、この教授はスマホや読書は黙認するけれど、居眠りに関しては厳しいのだ。こんな風に意地悪をしてくる。

 僕は仕方なく、華怜の肩を揺すった。

「……ふぇ?」

「当てられたから、とりあえず立って」そっと耳打ちする。

 すると華怜も予想外で驚いたのか、勢いよく立ち上がった。その音が講義室内へ響いて、いくらかの生徒が一斉にこちらを見る。講義室内は少しざわめき始めた。

 僕らは揃って赤面する。

「あ、あの……えっと……」と、華怜はしどろもどろになった。

 そんな様子を見かねて、教授はもう一度問いを繰り返す。

「条件反射を発見したイワン・パブロフによる実験の名前を答えなさい」

 もちろんそれを聞いても華怜は分かるはずもないため、さらに首をかしげてオロオロし始める。

 僕は少し面白くなって黙っていたけれど、さすがにかわいそうだから答えを紙に書いて彼女の見える位置へと滑らせた。

『パブロフの犬』

 それを確認した華怜は、安心したのかパッと笑顔になる。

「パブロフのワンちゃんです!」

 僕は思わず吹き出す。こちらを見ていた生徒もクスリと笑って、教授は呆れてひたいに手のひらを当てていた。もう席に座っていいと言われたため、華怜は赤い顔のまま席へ座った。

 少しだけ、講義室の空気が暖かくなった気がする。

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