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1.華怜

 大空に広げられた巨大な両翼は、粉々に砕け散った。

 新緑の山の斜面は、まるでそこの一部が切り取られたかのように赤く染まり、轟々と燃え盛っている。

 黒煙が立ち上るその景色は、まるで地獄のようだった。

 その地獄のような光景を、空からマスコミのヘリが追っている。

 声が高い女性アナウンサーは、必死に現場の様子を中継していた――

『乗員乗客合わせて四百五名を乗せた航空機は――』

 乗員乗客四百五名を乗せた日本国籍の航空機が、山の斜面に墜落した。

 現時点で死傷者の数は不明。

 後に、歴史に残る大事故となるだろう。


 五月二〇日 日曜日の出来事だった。


記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕。


 二〇一八年 五月二十一日(月)


 半日の講義を終えて大学から徒歩五分の牛丼屋で昼飯を食べた後、バスに乗ってアパートへと帰る。

 何度も繰り返されてきたその行為を今日も忠実にこなし、今はそれほど混み合っていないバスに揺られていた。

 もう午前の講義は半分以上頭の中から抜け落ちていて、きっと明日も同じことを繰り返すのだろうと考え暗い気分になる。

 一年目は講義を受けることに必死になっていたけれど、今はそうでもない。それなりに真面目にやっていれば、単位が取れることを知ってしまったし、必要最低限の回数だけ講義に出ていれば何の問題もない。余裕が出てきたのはもちろんいいことだが、こんな毎日が続くと将来が不安になってくる。

 僕は将来何者になっているのか。その時、そばには支えてくれる人がいるのか。それとも夢半ばに挫折して、今と同じような生活を送っているのか。

 最近はそういうことが頭の中をぐるぐる回っていて、僕の心をどうしようもなく不安にさせる。

 やがて最寄駅にバスが停車する。読んでいた文庫本を閉じてカバンの中へしまい、お金を払ってバスを降りた。

 今将来のことを考えても仕方ないと悟った僕は、一人暮らしをしているアパートへ戻るという目標を掲げて歩き出した。

 大通りから離れ住宅街をしばらく歩き、やがて曲がり角を曲がれば見慣れたアパートが現れる。

 今日もいつも通り二階への階段を登り、一番右端の部屋へ帰る……はずだった。

 曲がり角を曲がった僕は、そのいつもとは違う光景を見て思わず足を止める。


 ――アパートの前に、制服を着た女の子が倒れていた


 それを頭の中で遅れて受け入れた僕は、立ち止まらせていた足を走らせる。


「大丈夫ですか?!」

「うぅ……」


 慌てて駆け寄ってその彼女を抱き起こすと、かすかな呻き声を上げた。どうやら意識はあるようで、僕は安堵する。

 こういう状況に慣れているはずのない僕は、ポケットからスマホを取り出して――地面へ落とした。動揺で指先が震えているのだ。

 もう一度スマホを拾い上げて、着信画面を呼び出す。救急車って何番だったっけと考えているうちに、彼女は目を開いた。

 その時初めてまともに彼女の顔を見た僕は、数秒の間目を奪われた。サラサラの長く綺麗な髪。伸びた睫毛に隠された瞳はまるで宝石のようで、すいこまれてしまいそうなほどに深い色をしている。小ぶりな鼻は自己主張をせずに、それがまた可愛らしさを引き立てている。

 我に返った僕は、かぶりを振った。


「あの、大丈夫?」

「頭……」


 そう呟いて、彼女は自分の後頭部へ恐る恐る指先を当てる。

 それが触れた瞬間、慌てて手を離し苦悶の表情を浮かべた。その瞳には涙が浮かんでいる。


「ごめん、ちょっといいかな」


 断りを入れて後頭部へ触れると、指先に大きなコブが感じ取れた。

 同時にまた「ひっ!」という悲鳴を上げたため、すぐに手を離す。

 おそらく地面に頭を打ったのだろう。それ以外にはセーラー服が乱れているだけで、目立った外傷は見られなかった。


「君、名前は?」

「名前……?」


 首をかしげた後、どこか遠くを見つめるように目を細める。胸中に嫌な予感が渦巻いた。


「か……」

「か?」

「カレン……」


 彼女は自分をカレンと名乗り、人差し指を地面へと立てた。そして一つ一つを思い出すように、ゆっくりと指先を滑らせていく。


 華怜。


「苗字は?」

「苗字……?」


 再び首をかしげる。小さく口は開いているが、何かが喉に詰まっているかのように声を発そうとしない。その口は結局、母音の『あ』の形で止まったままゆっくりと閉じていった。


「すいません、思い出せないです……」

「じゃあ、住んでいる場所は?」


 しばらく考えた後、小さく首を振る。

 家族構成や通っている学校、行ったことのある地域、色々なことを質問したけれど、そのどれも彼女は覚えていなかった。

 覚えているのは華怜という名前だけ。

 いわゆる、記憶喪失というやつだ。おまけに持っているのはスカートのポケットに入っていたティッシュと、ピンクのハンカチ。それからピンク色のスマホだけで、身元が分かるものは一切所持していない。おまけにスマホの四桁のパスワードが分からず、そもそも液晶が割れているためただの文鎮だ。

 何か助けになりたいと思ったけれど、さすがに手に負えないと分かり立ち上がった。


「今から一緒に病院へ行こう。歩けるかな。もしダメなら、病院までおぶってくから」

「病院?」

「身体に異常があるか検査をする場所だよ。そこで検査をして、それから警察へ行こう。もしかすると、自分が誰か分かるかもしれないから」


 金銭の類を持っていないということは、おそらくそれほど遠くから来たわけではないのだろう。

 警察へ頼って何かしらの対応をしてもらえば、案外すぐに見つかるかもしれない。

 そういう期待をして、もちろん華怜もすぐに納得してくれるかと思った。両親さえ見つかれば、少なくとも自分が誰なのかを知ることができるから。

 だけど華怜は両目を見開き、すぐに怯えた表情を浮かべる。その表情の意味がわからずに戸惑っていると、唐突に僕へと抱きついてきた。

 甘く、どこか懐かしい柑橘系の匂いが僕のそばに広がる。


「え、ちょっと。どうしたの?」


 僕より背の低い華怜は、胸に顔をうずめながら首をふるふると横に振った。

 病院、警察へは行きたくないということだ。


「……そうはいっても、このままじゃマズイって。きっとお父さんとお母さんも探してると思うよ?」

「いやだ! いやだ!」


 まるで駄々をこねる子どものように、華怜は否定の言葉を叫ぶ。

 嫌がる彼女を無理矢理にでも、と少し考えたけれどやめた。

 僕は彼女の事情を少しも知らないのだから、迂闊な行動はできない。 

 もしかすると、病院や警察に行くのは都合が悪いのかもしれない。

 それは華怜も同じことで、おそらく自分が否定している意味を自分でも理解できていないのだろう。

 反射的、本能的なものなのかもしれない。

 抱きついたまま華怜は震えていて、どうしようか思案に暮れていると、鉄製のドアの開く音が耳に届いた。

 それは僕の部屋の隣あたりから響いた音で、思わず反射的に身を縮こませる。

 ゆっくり音のした方へ視線を向けると、そこにはパジャマ姿の七瀬奈雪先輩がいた。眠たそうな目をこすりながら、華怜が抱きつく僕を見ている。


「なになに、お邪魔だった?」

「えっと、この人は……」


 素直に先輩を頼ることもできた。それをしなかったのは、不意に見た華怜が僕へすがる視線を向けていたからだ。

 再びそのか弱い視線に射抜かれてしまい、僕は声を詰まらせた。ならば、先輩に華怜のことをどう説明しよう。

 とっさの嘘を考えていると、先に先輩が納得したように手のひらを叩いた。


「あれだね、前に言ってた小鳥遊くんの妹だね」

「あ、そうです! 実は妹なんですよ」


 抱きついている華怜はようやく緊張の糸がほぐれたのか、ホッと安堵の息を漏らす。そして小さく「ありがとうございます……」と呟いた。

 先輩は僕の妹という設定の華怜に興味を示したのか、階段をバタバタと音を立てながら降りてくる。


「本当だ、どことなく小鳥遊くんに似てる気がするよ。ほら、目元とか」

「そうですかね。あんまり似てるって言われたことないですけど」妹じゃないのだから当たり前だ。


「似てる似てる、似てるよ。でも、小鳥遊くんの妹って今年大学一年生じゃなかった?」


 背中から嫌な汗が吹き出す。気付かれたりしないように、さらに嘘を塗り重ねた。


「い、妹は二人いるんですよ。大学一年の妹と、高校生の妹です」

「へえ、そうなんだ」

「そうなんです」


 先輩は華怜を覗き込んで「可愛い妹さんだね」なんて言葉を呟いた。本当にこれでよかったのだろうか。でも、僕の咄嗟の嘘を信じてくれたようだ。

 先輩には悪いけれど、このままじゃいつかボロが出てしまいそうだから、華怜へさりげなく目配せした。次いで視線を戻す。


「すいません。妹と話があるので、僕はこれで」

「あぁ、ごめんね邪魔しちゃって」


 申し訳なさそうに微笑んだ先輩は、再び階段を上がり部屋へと戻っていった。華怜は未だ、僕に抱きついている。


「えっと、とりあえずウチくる……?」


 コクリ。小さく頷いて、ようやく僕から離れた。

 もう一度真近で見た華怜は可愛くて、僕の心臓は不自然に大きく脈打っている。

 凝視していると、なぜか不思議と懐かしい気持ちになった。


「あの、なんでしょうか……?」

「あ、あぁ。ごめん」


 いつの間にか華怜は恥ずかしそうに俯いていて、僕も余計な思考を外すためにかぶりを振った。

 僕らは初対面だ。面識なんてあるはずがないし、懐かしさを感じるはずもない。だけど、この心の内側からあふれ出る不明の感情はなんなのだろう。

 湧き上がってきたそれをどこか奥へと引っ込ませて、華怜を部屋の中へと招く。

 この時の僕はまだ、彼女のことを何も知らなかった。

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