番外編◇王子
王子視点
創世神話に語る。
遥かな昔、世界の形がまだ定まっていなかった頃。
不安定な地で必死に生きる生命たちを憐れんだ神のひとりが、世の理を全て詰め込んで一つの宝珠を創り上げた。災を抑え、地を宥め、常に穏やかな風を吹かせる力を宝珠に込めて、大地に落とした。
初めての安寧を得た地上は当然のこと繁栄した。もう、巨大な地の割れ目に群れが丸ごと飲まれることも、山が吹く業火に焼かれていくつもの種が滅びることもない。生命は穏やかな進化を遂げ、数を増し、地を埋め尽くした。その中で最も高度な知能を持つ種であった人間はその頂点に立って地を支配した。
しかし宝珠の力にも限りがあった。始めに込められた神の力が枯渇し、再び天災が起こり始めたのだ。
人間は聖宮に祀っていた宝珠を通じて神に助けを請うた。
神は言った。
異世界の乙女が宝珠に触れることで、宝珠は再び力を蓄えることができるだろう。
そうして神はこの世とこの世ならざる場所を繋ぐ扉を地上に開いた。
扉の向こうからやって来たのは麗しい乙女だった。乙女が宝珠に触れると、透明な宝珠を虹色の光が満たした。人々は歓喜し、大地は再び安寧を取り戻した。
乙女は聖女と呼ばれるようになり、この世界のどの男と結ばれることもなく神の伴侶として宝珠に寄り添い生涯を過ごした。
以来、三百年ごとに宝珠の力が尽きそうになるたび、穴の向こうからは新しい聖女が現れるのだという――
――と、これは民草に向けた表向きの物語である。
事実はこれとは違う。いや、全く異なっているという訳ではない。
聖宮にある宝珠が天災を抑えるということも、それに力を注げるのが異世界からきた乙女だというのも本当だ。ただ、宝珠を創り出したのは神ではなく人間であった。
失われた古代魔術。今ではもうおとぎ話でしかない魔術というものが事実存在していたことを知るのは、最上位の貴族と王族、聖宮に務める一部の者ぐらいである。
――この世の理を超えたものが宝珠に触れることでのみ、宝珠は力を蓄えることができる。
そう言い残したのは、この世の理を解き明かしその結晶として宝珠を創り上げた古代の魔術師。彼が残した宝珠はとある魔術と共に聖宮の奥に秘められることとなった。
現代に残る最後の古代魔術――召喚術。
宝珠の力が切れる三百年の節目ごとにそれは紐解かれ、「聖女」の召喚にのみ使われることになっている。
*
「……あの子はどこ?」
艶やかな黒髪と焦げ茶の瞳をした今代の聖女は、まず一言目にそう言った。
召喚の間の中央、魔術陣の中心に空いた黒い穴をくぐるように現れた聖女。呆然とするままに聖宮長からこちらの国の事情を伝えられ、彼女はゆっくりと召喚の間に集う我々に目を滑らせた。
そして最後に聖宮長に視線を戻すと、その問を口にしたのだった。あの子はどこなの、と。
「あの子、とは?」
「あの子よ。わたしの片割れ。あの子はどこにいるの?」
冷たいほどの声で紡がれた言葉が召喚の間に響いた。
片割れと言うからには双子か、それとも伴侶か。どちらにしろそれが聖女がいた世界の人間を指しているのならば、答えは一つだ。
「私どもが喚んだのはあなただけです。あの子というのが誰かは分かりませんが、ここにあなたの世界の人は他におりません」
聖宮長がそう事実を伝えると、聖女の目の色が明らかな怒りと憎悪の色に染まった。
激昂するかと思いきや、しかし聖女は何も言わない。ただ歯を食いしばり、拳を固く握り締めて私たちをきつく睨みつけた。
その後、聖女は以外にもあっさりと役目を受け入れた。正直に言うと拍子抜けだった。召喚時のあの様子では意地でも拒み続けるだろうと思っていたのだが。
日に一度の宝珠に力を注ぎ込む作業も、国民への披露を兼ねた行事も、それが聖女の役目だと言えば淡々と頷いて無感情にこなした。そして、それ以外の時間のほとんどは聖宮の奥から動かない。……聖宮の一番奥には、あの召喚の間がある。そこで彼女が何をしているのかを知っている人間は少ない。
私は聖宮長を呼び出して聖女の様子について報告をさせた。たまには自分でも様子を見に行っているが、そう頻繁には時間を取れない。
聖宮長は年季のある皺をさらに深くさせて低い声で言う。
「……聖女リナ・レナ様は相変わらずのご様子です。陣の前から動いてくださいません。食事と睡眠も、最低限しか取られていないようで」
予想通りの言葉に溜息が漏れる。
「最低限は取っているのならまだましか。とにかく無理にでも食事は取らせろ。睡眠の方は薬を盛るなり気絶させるなりしろ」
「しかし」
「でなければ、今に衰弱死するぞ。聖女を失えば国は破滅だ。数千年も人為的に天災を抑えていた分、枷を外せばあっという間だろうな」
宝珠の力が枯渇すれば、それこそ一瞬でこの国は滅ぶだろう。もしかしたら海を挟んだ向こうの大陸の国さえ巻き込んで消滅するかもしれない。九百年ほど前に一度実際にそうなりかけたという記録もある。その時は二人目の聖女を召喚することでしのいだようだが、残された記録はそれはもう悲惨な内容だった。
こちらの都合で家族と引き離し役目を押し付けていることに関してはすまなく思う。しかしまだ宝珠に力が満ちきっていない今、この国は聖女を失うわけにはいかないのだ。
――数日後、政務を調整して時間を作った私は沈黙する聖宮長と護衛騎士を連れて久し振りに聖宮の最奥にある部屋へと向かった。
召喚の間。だだっ広い部屋の中心に、人一人が立てるくらいの大きさの黒い円が塗りつぶされている。その周囲には、今では誰も読むことができない古代文字。
そこに、黒髪の聖女が膝をついて両手を押し付けている。
「聖女」
呼びかけるが、反応しない。長い髪で隠れて顔は見えない。捲った袖から覗く細い手首には乾いた赤黒いものがこびり付いていた。
「リナ・レナ。いい加減に休め。血が足りなくなるぞ」
真横に立って強めの声を出す。
「――――」
聖女がようやくゆるりと顔を上げる。焦点の合わない瞳がこちらを向いた。
「……だめ、見つからない。どこにいるの。どこにいるのあの子。早く、早く見つけないと」
「休め。そう疲弊していては集中力も下がるだろう」
「――うるさい。あと少しなの。黙っててよ」
そうして乾いた血のついた小さなナイフを血まみれの手首に突き立てようとする。
その刃が皮膚に接触する寸前に私は聖女の細い首筋へ手刀を当てた。
意識を失ってぐらりと傾いだ体を、近くで控えてさせていた護衛騎士が受け止める。
「レガード、寝かせてやれ」
側にある、床に布を厚く重ねただけの寝床とも言えない一角がここ暫くの彼女の寝床なのだろう。
部屋に戻れば寝心地の良い立派な寝台があつらえてあるというのに、彼女がそこを使用したのは未だ片手にも満たない回数だ。
日に日に青白くなっていくその顔色。深く溜息をついて聖女から視線を外すと、部屋の中央にある漆黒の陣が自然と目に入る。
――血の繋がった親類ならば血が共鳴し、上手くいけばこちらに呼び寄せることができる。そのことを知った聖女は躊躇いなく自ら血を流して昼夜を通し陣の前に居座った。食事も睡眠もほとんど取らず。
やむを得ず今日のように強制的に意識を落とさせる羽目になったのは、既に一度や二度のことではなかった。
聖女を召喚してからもう半月が過ぎている。
その間、聖女は時間の許す限りここで過ごしているというのに、彼女が求める人物は未だ現れない。
*
聖女と全く同じ容姿をした娘がこの世界に立ったのは、それから更に半月が過ぎた頃だった。
聖女が初めに名乗ったリナ・レナという名はどうやら二人の名を繋げたものだったらしく、「片割れ」を取り戻した聖女はそう名乗るのをやめた。
取り憑かれたように片割れを探し求める以前の聖女の姿ももうどこにもない。代わりにいるのはそっくり同じ顔をした二人、リナとレナ。陽気で活発な「リナ」と、内気で物静かな「レナ」。
元の聖女は一体どちらなのか。
名も性格も変わってしまった聖女ともう一人を前に、誰もが困惑した。自分たちの知る「聖女」はリナか、それともレナなのかと。
同じ容姿。対のように正反対の性格。更には聖女としての能力も同じように二人共が持っている。
直接尋ねても、どちらが聖女リナ・レナだったのかを彼女らは明かさなかった。まるで悪戯が成功した子供のように顔を見合わせてクスクスと笑うだけだった。
――おそらく慣れない環境で精神が抑圧されていたのが、家族と再会できたことで本来の自分を取り戻したのだろうと。
多くの者はそう納得して二人の聖女を受け入れた。一度受け入れてしまえばリナとレナは以前の聖女よりも余程接しやすい性格をしていた。
だが――「それ」を知っている一部の者は気付いただろう。
初めの聖女には、手首の傷がある。それは彼女が片割れを探すため自らの手を何度も何度もナイフで切り裂いたときにできた傷の、まだ治りきっていない跡だ。
例えばカップを持った腕を持ち上げたとき。例えば風に流された横髪を耳に掛ける仕草をするとき。ほんの少しだけ彼女の袖がめくれ、赤黒い瘡蓋に覆われた傷跡が知っていなければわからないほど微かに覗く。
その傷を持っているのは、「リナ」の時もあれば、「レナ」の時もあった。