終着切符
……何よりもまず感じたのは視覚ではない。意外にも味覚だ。
口の中に土の味。そしてじゃりじゃりと手と舌の触覚。聴覚……は殆ど無い。まるで地の底だ、全く音を感じなかった。
埃っぽい匂いに顔をしかめた時点で、ようやく其処が薄暗いコンクリを打ちっ放しただだっ広い空間だと判る。
頭が痛い。起き上がるとなお痛かった。
眼を眇めて周囲を確かめれば………どうやら元はデパートか何かの地下だと規則正しく立つ四角柱が教えてくれた。
だがすっかり此処は廃墟だ。ショウウィンドウは割れ砕け、マネキンが転がり、本来こうこうと照っていた筈の電灯群は見事なまでに静謐と一体化している。
さて、今度は俺の番だ。怪我は無し、手も有る、足もある。服は…うん、スーツと革靴をちゃんと付けているが、酷い有様だ。どれも埃で汚れ切っている。
所持品は? 素晴らしいね、全く無い。今のところ状況を打破する武器は、俺の身一つと言う訳か。
しかし此処は何処だ? 止む無く俺は、薄暗い空間を探索する事に決めた。
―――どうしよう。
私はそれだけを思った。
だって……だって……高校最後の夏休みだったんだよ?
でも何で? 何でなの? 何で………
何で………私、制服で樹海に居る訳!?
違うよこれ、絶対日本とかじゃないよ! こんな樹見た事無いもん!
何が一体どうなってるの!? 判んない…判んない、判んない、判んない判んない判んない!!!
嘘でしょ? 誰か助けてよ!!!
―――おおい、誰か。
この誰何は一体何度目だろう、さすがに飽きて来た。
と言うよりこの空間……いつになったら端に着くんだ?
しかし寂しい所だな此処は………まるで地下墓地だ。
何だろうな、凄く不快感を覚える。空気が悪いんだろうか。
歩く先々に迎えてくれるのは、ずっとただただガラクタの山。もういい加減うんざりだ。
まさか一生このまま………? 冗談じゃない。人間が作った中だぞ、有るかそんな事。
―――誰か、居ないのか?
寂し過ぎる。世界から取り残されたみたいだ。
妙だな、人が居そうな感じでは有るのに、全く呼びかけに応えてくれない。
そう思っていると……………背後に何かが動く音がした。
……道が有った。森なのに。
舗装はされてないけど、草が道みたく無いから一応道だ。
恐る恐る踏んでみると……意外としっかりしてる。歩けそう。少なくとも森の中よりはずっとマシ。
良く見れば果物っぽいものも生ってる。むしって食べると………
うわ、うそ、マジ!? すっごい甘くて美味しい! 色もピンク色で透き通ってて、匂いもすごくイイ!
…あれ? 良く感じてみると、この道路に立った時から何かさっきみたいに蒸し暑くない。
そうか、きっと此処出るところなんだ。だったら全然恐くないや。急いで此処から出よう。
凄い力に殴り飛ばされた―――それが、今床に寝転がる理由だった。
くそ、痛い。物凄く。痺れて立てない所に、そいつの巨大な足が俺の腹を踏み付けた。
苦しいながらに見上げると………其処に居たのは巨大な緑色の肌を持つ怪物達だった。どれもが苦しむ俺を見下ろし、醜い唇を歪めて…恐らく笑っている。
退かそうと脚に手をかけるや、別の怪物が俺の足を蹴った。骨が折れたんじゃないかと思い叫ぶのを、奴らはやはり笑って見下ろしていた。
―――コイツドウスル?
―――ヤッチマオウゼ。
―――待チナッテ、ソレヨリ…
怪物共が相談している間も、俺の腹は圧迫され続けていた。
何をするんだ。別に俺は、何をした訳でもないのに。そう言ったら、一際下品に笑ってサッカーボールの様に蹴り飛ばされた。
―――知ラネーヨ。
怪物共の大爆笑が空間一杯に響き渡る。
悔しかった。寒かった。痛かった。周りの薄闇が濃くなったような気がした。
逃げようと這うと、怪物の中では小さ目の奴が俺の襟首を掴み、無理矢理大きい奴の前へ引っ立てる。
俺をどうしようか、と見るどんより濁った黄色い目。鈍重だが凶暴そうな腕。舌なめずりする耳まで裂けた口。
俺には恐怖の対象でしかなかった。何故こんな目に遭うのか、理不尽すぎて涙が出た。
道は爽やかだった。
うきうき気分で歩いていくと、左右で複雑に絡んだ長いツタに色とりどりの花や果物が生っている。道もどんどん綺麗に舗装されてきて、とっても歩きやすい。
随分長く続くけど、こんな楽しい気分だったら何でもいいや。ちょっと疲れて休んでも、生った実を食べるともっと進もうって気になってくる。そして実際足も軽いし。
ここいいトコだな、何なんだろ?
良く見るとこのツタが、いい香りを出したり空気を涼しくしたりしてるんだ。歩きやすくしてるのもこれなのかもね。
………だけどしばらく歩いてると、何だかだんだん道が悪くなっていく。空気もじっとりと湿ってきた。
何で? すごく気分が悪い。喉とお腹の面倒を見てくれた実も、付きが悪くなったりまだ熟さない奴ばっかりになった。ちなみに青い奴は、苦くて渋くて……何ともいえない味だった。無理して食べると逆に喉がものすごく渇く。あのいい匂いも無い。この道を歩く前のじっとり湿った草と樹と、土と得体の知れない匂いばっかり。
振り返ると、まったく実が生ってない。花も枯れてるし空気も蒸す…何で? 仕方なく少しでも実が生ってまともな空気がある前へと進むしかなかった。
……倒れた骸骨を見つけたのは、疲れと気持ち悪さで驚きもしなくなった頃だった。
進もうとしてたんだ……見た限りそれ以上は思えない。ただ、特に目に付いたのは両手に握ってる霧吹きと剪定バサミ。
これで何しようとしてたんだろう? ぼんやりとそれを見ていると、垣根みたいになった両脇のツタからにゅるにゅるって少しだけ若いツルが出っ張って伸びる。
せっかく周りがピシッとしてるのに、これはどうだろとハサミで切ってみた。そうすると花が咲いた。
だから今度は、霧吹きを枯れたツタにかけてみた。すると、その枝に実がついた。
―――そうか、こうやって進んできたんだ。そうと決まったらそこら中から伸びるツルと枯れたツタを見つけて、切ったりかけたりを繰り返した。
でも正直辛いなんてモンじゃないよ、これ。かがんだり立ったりを繰り返すし、そう言う〝ピシッとしてない部分〟は後から後から出てくるし、しかも良い匂いは出てるけど、蒸し暑いのは全然変わらないし、足元はすごく悪いし。もう、最悪!
そう叫んだ時―――…骸骨の横に変な棒が転がってたのに今始めて気付いた。
…T、の字をしてる太い棒なんだけどさ……何これ。足になるところに重そうなローラーがついてるんだよね。
えーとさ、まさか……これで道を平らにしろとか? 何それ?
でも足をとられて疲れるのは苦しい。柔らかかったり固かったり、出っ張ったり窪んだりの道はとても歩く気になれないからホンット仕方なく進むほうを均してみる。
……三メートルも均したころ、重労働に耐えられなくて座った。駄目、無理、汗びっしょり、息荒い。出来ないって、こんな暑い中で。
だけど…あれ? 少しなんか涼しい。だって、ほっぺたに当たる風が気持ちいいもの。
気持ち良い風は、ツタから出てた。て言うかこのツタが、風を冷やしてくれるんだ。
まさか、道を均したお礼…とか? 多分そうだと思う。だって、涼しい所って均したところだけだもん。
辛いけど、ここを進むにはこれしかないみたい。涼しくして、気分良くなって、食べ物見つけるにはこれ以外に無いもの。だからすごく嫌だったけど、ローラーを引き摺りながら周りのツタに気を配って進む事に決めた。
逃げる、逃げる、逃げる―――大急ぎで。
くそ、痛い、苦しい。闇から迫る笑い声が恐ろしくてたまらなかった。
何なんだあいつらは? 服を破られ、髪を千切られ、その上で殴る蹴るを受け続けた。何であんな化け物共にこんな目に会わされるんだと思うが、奴らはそれを言うたびに笑って殴った。
こんなに走ったのは学生の時以来だ。追い付かれると殴られる、それのみを頼りに息が切れるのを無視してひたすらに当ても無い暗い廃墟を走り回った。
息を切らして彷徨う俺の眼に、ふっと闇に浮かぶ人影。
―――おおい、助けてくれ!
それが人の横顔だってはっきり判る。九死に一生、地獄に仏とその人に駆け寄った。
………だが、何とした事かそれはそこら中に転がるマネキンの一つだ。立ってこそ居るが、全く以って紛らわしい。
―――聞コエタ、アイツアッチダ。
想像以上に近い怪物の声に、慌てて柱の一つに身を隠す。
ずん、ずん、と柱越しに響く怪物の足音。それだけで充分天井が抜けんばかりだ。
―――居ナイジャン。
―――テメー、テキトー言ッテンジャネーゾ!
―――ゴ、ゴメン。デモ、ホントニ…。
どうやら怪物達の間にもヒエラルキーが成立しているらしく、小さな怪物が大きな奴に叱られていた。
……いや、そんな生易しいものではない。大きな奴は罵声とビンタで激しく粗相を叱責する。まるで、小さい奴が俺の代わりになったように。
痛々しくてとても見ていられなかった。何がどうして俺を其処まで憎んでいるのか判らないが、兎も角その隙に音を立てないようになるべく素早く走り出していた。
息も抑え、足音も抑え、そうして走っているとまた人影。今度は間違い無く人だ。だって三人、しかも全員動いている。
叫びたい気持ちも必死に抑え、駆け寄るなり深く息を整える。
―――助けてくれ。実は化け物に追われて…
そこそこ整った息と共に顔を上げると…………なんと、それもマネキンだ。
そんな馬鹿な! だって今……動いて…?
そう考えていると……闇の中から、楽しそうな含み笑い。目を向けると、数体のマネキンが俺を見て笑っていた。
呆気に取られていると、今度は別な方向からも笑い。そしてマネキン。良く見れば、そこいらのマネキン全てが俺を見て笑っていた。
―――なんだ? 何なんだ一体!?
えも言われる怒気に突き動かされて、ずんずんと迫ったが……近寄るそばからマネキンは動くのと笑うのを止め、ただの人形と化した。更に噴飯なのは、俺が一定距離離れるやまた笑い出すことだ。
畜生……一体どうなってる!? 苛付いて仕様が無かった。こいつらはあの怪物達より性質が悪い、こんなに居るのに助けようともせず、俺を遠巻きに眺めてなるべく見られないように笑っているのだ。
クソッ! クソッ! 笑うなクソッ! 思わずマネキンを殴ったが、それは酷く固かった。
痛さに顔をしかめると、それで笑いが止まった。だが……今度はひそひそと不快な内緒話で俺の怒りを掻き立てる。
―――いい加減にしろよ、何なんだお前ら!
怒声の一喝で、そいつらは一気に沈黙する。やっと黙ったか、と少し溜飲が下がったが…それは大きな間違いだった。
―――此処ニ居ヤガッタナ。
……黙ったのは、怪物達が俺の背後に迫っていたからだった。
……変な気分。少し前までは普通に歩いてたのに、今は何だかガーデニングしながら歩いてる。
始めはあんなにうきうきだったんだけどな……結構汗だくになりながら、あちこち痛くして少しずつ進んでる。
何だろな、進めば進むほどツタの恩恵って言うの? それが薄くなってく気がする。実は生るけど始めのよりずっと味気無いし、花は適当で小さいし、涼しいのも今はかなり暑い。
何なんだろうな………でも、これやんなくちゃ実も涼しさも元気にしてくれる香りも無いから仕方なくやる。
ホント、何これ? ずっと同じことの繰り返しで、いい加減うんざりしてきた。
もう、やめよう! そう決定して、道具と私を道に投げ出した。
……空気はどんどんじっとり湿ってく。またあの嫌な森の臭い。そして喉を潤す果物なんてこれっぽっちも生らない。
空は高い、鳥が飛んでる。でも私は、まるでカゴに入ったみたいな窮屈な気分。疲れてる筈なのに、仰向けで見る空はせわしい私と違ってとてものどかだった。
………ああ、安らぐなあ…こんな中にも、忙しくない時ってあるんだな………
今までの疲れが一気に出たのか、私はとろとろと眠りに落ちていった……
―――起きなさい!
いきなりの女の人の声に、私はびっくりして跳ね起きた。
何? 何? 何何何? 首を左右させて道の前後を見たけどどっちも地平線の向こうまで続くだけだ。
―――全くもう……何処まで愚図なのあなたは!
すごい怒ってる声だ。びっくりして頭を抱えると、声はますますきつくなる。
―――私に恥を掻かせないで! もっとしゃんとしなさいよ!
もう疑問に次ぐ疑問で訳が判らなくなっていたけど、声の出所だけは判った……頭の上だ。
見上げると……其処にはさっきまでは無かった物すごく大きな花が咲いてて、その中心に美人だけどすごく険のある女の人の顔があった。それが私を見下ろして、めちゃくちゃ怒鳴り散らしてる。
―――いつまで油売ってるの? 早く自分の仕事なさい!
いや、だけど……そんな事言われたって…
―――全く、言い訳ばっかり上手くなって。誰があなたに食わせてやってると思ってるの? 私が居なきゃ野垂れ死んでるかもしれない宿六のくせに、偉そうな口利かないでよね!
気が狂ったみたいにキンキン声でわめく。そうか、このツタなんだ、あの人…
―――ったく、使えないわね。お父様も何か言ってやってよ!
そう言うと、対面のツタ垣に気難しそうなおじさんの花が咲いた。
―――全く、才気溢れる若者だと思って応援していたのに…君にはがっかりだよ。
今度は、嫌な顔をしたおばさんの花が咲く。
―――あなたに決定権が有るとでも? 何なら跡取り作って出て行ってもいいのよ。
花が顔が、私を上から叱り倒す。たまらず耳を塞ぐけど、それでも悪口は止まらない。
辛くて、苦しくて、涙が出た。何が楽しいのかそれとも楽しくないのか、言葉の槍は上から目線でずっと突き刺さり続けた。
でも、何だろ………私、何でか知らないけどこの状況をどこかで知ってる。
怪物達は、俺をそれこそ寄ってたかって殴りつけた。
―――ウゼーンダヨ、テメー。
―――逃ゲテンジャネーヨ、死ネ。
―――チョーシクレテンジャネーゾ、コラァ!
頭の悪い罵声と共に、俺の身体は暴威の只中にたゆたった。
何をこいつらに憎まれてるんだ、俺は。覚えが無いし、心当たりも無い。ただ苦痛にさらされながら考えるも、当然答えは無かった。
だが何故だ? 俺はこの状況を知っている。この理不尽と支離滅裂を知っている。
「………でさ、そいつら、私を目の仇にしてるんだ」
…そうだ、落ち窪んだ目であの子が言っていた。
だが俺は、それを殆ど鼻で笑った。だって、考えても見ろ。苛めなんて今の日本にどれだけ溢れてると思う? それを聞かされたって、もっと悲惨な目に遭ってる俺の方がよっぽどだろう?
…と、思っていたがその認識は愚かだった。充分此処もまた地獄だ。
話の通じぬ猛獣と不毛のジャングル、そして無情の傍観者に囲まれ、俺の正気は破壊される寸前だった。
「………どいつもこいつも、入り婿の俺に無理難題押し付けてきやがる」
そうだ、おじさんは疲れ切った顔を曇らせて言ってた。
言うには会社を任されてたらしいけど、奥さんの親御さん達の言うままにリストラとか裏金作りとかが嫌になったそうだ。それでもって奥さんは自分が中心じゃないと気に入らない人で、ただでさえ忙しいおじさんを無理矢理パーティとかに駆り出して休ませなかったって。しかもそれを言うと親御さんに言いつけるから、どうしようもなかったって。
それを聞いた時、「何だ、その人達殴んないんじゃん」って馬鹿にしたけど、こんなに辛かったんだ……ごめん、おじさん。
それなのにこの人達は、面子とかお金とかでおじさんを苛め抜いて………そう言えば言ってたな、「俺の話を聞いてくれたのは、お嬢ちゃんが初めてだよ」って。
……酷いよね。あんまりだよね。甘い実とか涼しさとかで誘って、結局は何処まで続くか判らないこの道を舗装させるためだけだったなんてさ。それなのに疲れて休むのは許さない、なんて、酷過ぎるよね。
死ぬのか、俺は。
男子受けが良いからって、とか笑顔がムカつく、とか俺にもあの子にもどうでも良い理由で怪物――同級生の女子――は俺を蹴ったり殴ったりだ。俺が逃げたのがよほど癇に障ったか、既に彼女達は歯止めとやらを無くしていた。
気が変になりそう。
花達のバリゾーゴン、って言うの? 怒鳴り散らす声は私を叩いてるみたいだった。
実際、叩かれてるんだろうな。身体じゃなくて、心を。こうやって人をボロボロにする事を、この人達気付いてるのかな。
殴打の中でも、マネキン共は見ているだけだった。何体かはそれと判るほど笑っている。
こいつら……あの子までこんな酷い目に遭わせてたのか…?
だんだん声は〝ごちゃごちゃ〟からある一つの形になっていった。
―――無能! ―――使えない! ―――役立たず!
酷いよ……おじさん、頑張ってるのに…………ッ!
〝―――許せない!〟
それが、俺の……私の、胸の中で激しく燃え上がった。
拳が、一番大柄な怪物を殴り倒していた。
―――ナ…ナニスンダテメェ!
―――コンナ事シテタダデ済ムト…!
取り巻きの言う事は聞かなかった。転がっているマネキンを無理矢理持ち上げ、起き上がろうとする怪物に思い切り振り抜いた。
何か叫んだが聞く気はない。どうせこいつらだって聞かなかった。
許せなかった。別に悪い子じゃないだろうが……なのに何でこんな事が出来るんだお前ら! 見てる奴らも、何で助けようとしないんだ! 見ろ、こいつらを! 俺がきつめの反撃してやったら、あっと言う間に黙りやがった!
お前らとあの子、おんなじように痛いだろうがよ! なのに何で……あの子が痛いって判らない!
ハサミを取り出すと、それで何でもないツタを次々に切っていった。
何かわめいてるけどもう聞かない。聞きたくもない。この道がおじさんを苦しめるなら、こんな所道じゃなくて良い!
切ってくと外側に行くにつれてどんどんツタが太く固くなってきた。さすがにハサミじゃもう駄目だから、あのローラーを振り上げて思いっきり叩き付けた。
―――ちょっと……何してるのよ!? 止めなさい!
うるさい。女の人の声なんて完璧に無視して、何度も何度も振り下ろした。少し割れると後はもろくて、細い繊維ばかりになるからそれをプチプチハサミで切っていく。
直ろうとしてる所があったから霧吹きをかけると、栄養の取りすぎかどうか知らないけど其処は見る見る腐っていった。
おばさんの金切り声がうるさかったけど、私は構わず壊すことをし続けた。
―――ゴメン……ゴメン…許シテ…
怪物が泣きながらそう言う頃には、俺の荒い息以外は全部静まり返っていた。
だが心地良い。これは用意された静謐ではない、勝ち取った静寂なのだ。
他人を傷付けるのはそりゃ好きじゃないが、傷付けるのが好きな奴なら話は別だ。そしてそれをただ見てた奴らも気まずく黙るのは、どれほど良い気分だろう。少なくとも俺は、あの子を苦しめた全てを蹴散らしたのだ。
しかし終わりではない、俺は今も泣く怪物を見下ろしてマネキンの足を突きつけた。
「……お前が此処の支配者なら、此処から出る方法を知ってるんだろ? ―――言え!」
穴はすっかり開いた。もうおばさんの花は卒倒して、おじさんの花は真っ赤になって何も言わない。
でも其処からただ抜ければ終わりじゃない。私は道を大急ぎで引き返した。
私があんまり進まなかったからだろう。〝それ〟は、意外と近くに有った。
行こうよ、あなたも。そう言ったつもりで私はばらけもしない骸骨を持ち上げた。
気持ち悪いとは思わない。だってこの人も、ここの犠牲者なんだから。その上軽いもんだから、持ってないみたいに私は穴まで走っていけた。
―――止めなさい! お願い、〝それ〟まで持っていかないで!
女の人が泣きそうに叫んだけど、知った事じゃない。どうせこの人が残ったのを慰めにでもする気なんだろう。…冗談じゃない。
「あんたたちだけで居れば? こんなとこ」
………バスの停止する慣性が、眠る二人の身体を揺さぶった。
「ん……む…」「んあ…」
車内は、最後尾に並んで座る二人だけしか乗っていなかった。男が目を覚まして辺りを見ると、其処は海の見える何処かの町だ。
「うん……」
「起きたか、お嬢ちゃん」
しょぼつく目で男を見上げた女子高生が、ぼんやりと彼の顔を眺める。
「あのー…降りないんスか?」
運転手の怪訝そうな問いに、二人は顔を見合わせ…
『ええ、降りません』
降車ボタンを押しながら降りない妙な客二人を不思議がりながら、バスは何事も無く走った。
「……良いのかい? 目的地だったんだぜ?」
「おじさんだって降りないじゃん。いいでしょ?」
窓の外を見る。其処には青い空と青い海、そして……飛び降りたらまず助からないだろうと思える岬が見えた。
「済まんねお嬢ちゃん、軽く見て」
「ううん、私もだからおあいこ」
…奇妙な偶然だった。よもや同じ目的で同じ場所を目指す二人が出会うとは、何か運命じみたものを感じなくもない。その上まさか、二人揃って変心するとはまさしく夢にも思うまい。
「おじさん……辛かったね」
「そっくり返すぜ、お嬢ちゃん」
そして沈黙。だが、少しも居辛くない。今の今までお互い感じ得なかった暖かい一体感が、二人の間に出来ていた。
「でも助けた」
「私も」
疑問を投げかけられると思ったつもりが普通に返され、二人は一時固まり…………やがて弾ける様に笑った。
「ならお互い、助けられた命は無駄に出来ねえな」
「そうだね」
朗笑と共に、二人は自分のカバンからその封書を取り出した。
現実の何が変わった訳でもない。二人は眠る前と変わらぬ絶望の地平に立っている。
変わったのは、二人の心。もう何にも押し潰されない、絶対に負けない、二人はそれだけの冒険と戦いを終えたのだ。
遺書を破ったのは、ほぼ同時だった。
以前遊びで書いた短編です。
拙いのは承知ですが、もし良ければ感想お願いします。