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祝事  作者: 増田朋美
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後編

柚木美津代が富士駅を降りると、雑踏に混じって見覚えのある人物が見えました。痩せた色白の顔に、墨より黒く長い巻き髪をもち、その目も黒くてつやがなく、左右の手を朱に染め、紺色の着物に袴をはいた人物。美津代はその人物に近づいて、

「懍さんじゃない!今はここに住んでいらっしゃるの?」と声をかけました。 懍もこの人が誰だかわかって、「どうもおひさしゅうございます。この度はおめでとう」と申しました。 「ありがとう。私こそお会いできて嬉しいわ。」

「実は僕、何かお祝いを奉りたいと考えておりましてね。近々そちらにお送りしたいと思っておりましたが、偶然お会いできましたから、直接奉るほうがよろしいですね。」

「まあありがとう。頂くわ。」

「では、立ち寄って頂けますか。すぐそこなんですよ。」

「なら、地図を頂けないかしら。少し用事を済ませてからお伺いするわ。」

「判りました。お待ちしております。」と懍は半紙と矢立をだして大まかな地図を書きました。美津代はなるべく早く行くからといってとりあえず別れました。

さて、美津代は地図通りに懍の家へいってみました。見れば自分の家の物置より小さい建物で、とても驚きました。一枚しかない引き戸を叩くと、懍がお入りなさいと言うのが聞こえました。戸を開けて茶の間までわずか三歩でした。

「あなたって狭いところが本当に好きなのね。見たことのない小さい家だわ。」

「確かに。」と、懍は言いました。

「で、私にくれるって何?楽しみだわ。」

「その机の前にお座りください。今お茶出しますから。」美津代はその通りにしました。

と、隣の部屋からじゃらじゃらというおとがしました。「何の音」と美津代は尋ねました。「お品物を取り出したんです。」と懍が白木の箱を持って出てきました。それを机の傍に置くと、彼は台所へ行って茶を出しました。

「どのようにして結婚に至ったのですか」と聞きました。

「職場で知り合ったの。一緒に仕事している間に、この人ならずっと一緒にいてもいいかなっていう気持ちになったの。大伯父様も認めてくださったわ。」

「では、覚悟はできているのですね。」

「覚悟?」 と美津代は顔をしかめました。

「ある程度自分の経歴が終わることです。」

「それなら大丈夫よ。私、仕事やめるつもりだから。」

「本当にそうですか?それができないとこうなりますから。」と懍は懐から一枚の写真を出して机に置きました。二十歳位の若い女性の写真でした。

「結婚するまえの僕の母です。」

「まあ、伯母さまは若い頃、こんなにおきれいだったの!知らなかったわ。」懍はまた写真を置きました。目が釣り上がり、やつれた姿をした女性が映っていました。

「私が覚えている伯母さまの顔だわ。」と美津代は言いました。

「ええそうです。そしてこれが、最近になってから撮影した顔。」と、懍は写真を置きました。

「これが伯母さまの顔?」その目は飛び出していて、口はへの字型、額は皺だらけで、髪は白くなっています。

「そうですよ。途中で踏み誤るとこうなるのです。最終的な結果はこれです。一度しかお見せしませんから、決して御忘れにならないように。」

「いったい何を出すの。」懍は着物の袂から左腕を抜き、襟の隙間から中指を出しました。そして美津代に背を向けて、遠山金四郎がよくやった格好になりました。

一瞬美津代は雷鳴を直に体に受けたような気がしました。はじめに見えたものは、左肩に付いた切り傷でありました。それはあたかも舌なめずりをしているように、不気味に見えました。そのような形の傷が三ヶ所、左肩についていました。これが見えてしまうと、背に描いてあるものなんて目に入りませんでした。白いところなぞほとんどありません。 「私にくれるって、このことだったの。そうよね。あなたのような人が、私に何かくれるわけないもの。あなたは私たちのことを妬んでいるんだもの。私たちがぬくぬくと暮らしているのをあなたは嫉ましく思ってるのよね。よくわかったわ。お祝いしてくれる代わりに、私に道を外さないようにと例をあげて示してくれたんでしょう…。でも、心配いらないから。私、ちゃんとやるから。覚悟できてるわ。後悔しないから。ありがと。」と、美津代は辛うじて言いました。懍はまた着物を着直して、「本当にそうなんですね。」と、念を押しました。「ええ。」「よろしうございます。」と、懍は言いました。「じゃあ帰ってもいい?」「まもなくね。もう一度教えて奉ることがあります。」「な、何?」 懍は黙って箱の蓋を開け、針束を取りました。

「いいですか、机に左右どちらでもかまいませんから、腕を乗せてください。出来れば目を閉じてくださった方がいい。けして悲鳴をあげないように。」

美津代はその通りにしました。その言い方がとてもおどろおどろしい言いまわしだったので、従わなかったら噛みつくかもしれないと考えたのです。すると、懍は彼女の袖をめくり上げて、筆をとり、何か描いていきました。次に、太い針束を刺していきました。美津代は思わず叫びそうになりましたが、じっと我慢しました。仕舞いには、何が何だか判らなくなってしまいました。

「これでよし。よく耐えて下さいましたね。女性にしては上出来ですよ。増してやなんの変哲も無い人なんて。」と言う懍の言葉でやっと目を開けました。

「いったい何をしたの。」と、彼女はかすれ声で言いました。

「勲章ですよ。結婚の印として。これは一生残りますからね。いつまでも覚えていられます。そのときのこと。」

「勲章?」

「その通り。これが僕からの祝事。僕にはこれしか奉る物が無いので。竹三さんに言われてやっと思いつきました。大切になさってくださいね。新しい人と!」

と、懍は皮肉めいた調子で言ってから、「お帰りください。」と、美津代を家から出しました。外は既に暗くなっていました。彼女は電車に飛び込んで家に転がり込むように帰っていきました。

 さて、次の日、竹三がやってきたとき、

「もう、どうしてあんたは懍にあんなこというのよ!御蔭であたしは一生取れない変な物体をくっ付けられたの!」と、美津代は文句を言いました。

「どれ、見せてくれ。」と、竹三は美津代の袖をめくってみて、

「何だあ、いかにも懍らしい励まし方やなあ!これは変な物体やないよ。勿忘草、よく見てみい。懍のやつ、一生懸命妬ましい気持ちを押さえてあんたにくれたんよ。やつは、夫婦が破綻することを一番恐れてる。だから結婚したときの喜びを忘れるなって言う意味であんたに彫ったんよ。」

「そういうもんなの。」

「うん、懍のやつ、二度とやつのような人間が出てくることを恐れているからな。」

「そうだったの。」と、美津代は自分の腕に描かれたものを見て、「かわいい?」と、言いました。彼女はこの勲章を消すまいと思いました。


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