中編
さて数日後、懍は電車から降りて、家にむかって歩いて行きました。家につくと、まだ明かりが付いていました。変だなと思いましたが、お手伝いの静江さんがまだやっているのかと思って、戸をあけました。すると、
「懍、おつかれさん。今日は何人彫ってきたのかな?」と、竹三が現れました。
「竹三さん!いったいどうやって、わかったんですか。」
「駅員さんに連れてきてもらったんよ。懍、お前、痛く痩せたな。袖が少し長くなったし、袴紐の結び目も大きくなった。」
「そんな語意を使うのは竹三さんだけじゃ」
と、懍は苦笑しました。
「あはは。そのとおりやね。それにしてもお前は付きない所に住んでるね。鴨長明の仮の庵みたい。テレビもパソコンもない。ガスや水道はあるが。有るものと言えば、柱時計に箏二台、花梨で作った経机。あとは道具箱一箱。」
「よく覚えてますね」
「まあいい。なあ懍、まだ飯食べてないやろ、鳥鍋作ったから食べよう。経机じゃ狭すぎるから、静江さんに卓袱台借りてきたで。この家には、菜切包丁しかないから、静江さんが貸してくれて、やっと作った。お前が彫りの名人なら、僕は飯作りが名人やから。」
「鍋なんて食べたの何年ぶりじゃろ。」と、懍は派手な純朱に染まった左手を口に当てて笑いました。白い指は名指親指の二本だけで、手の甲から残りの三本指には、麒麟の延長上として、新たに炎を彫ってありました。右手も、手の甲から中指食指小指まで、朱雀の尻尾が朱と深紅で描かれていました。これで誰が見てもすぐ判る。しかし竹三は、その下に根性焼きの跡が多数有ることを知っていました。
「とにかく食べようや、懍。そうしてから話す。」
「静江さんはどこに」
「もう帰ったよ。後は僕がやるからいい。」
と、竹三は懍を家の中に入れました。「ええ匂いする?」と、聞きました。
「よくわかりませんよ。良いのか悪いのかも。」
「お前は鼻も鈍ってしまったのか。」と、竹三は言いました。「まあいいや。遠慮なく食べとくれ。」
「それならばいただきます。」と、懍は茶の間に座って箸を取りました。そして、鳥肉を取って口に入れてみましたが、何が何だか判らなくて、咳き込んでしまいました。
「馬鹿だなあ懍、吹いてから食べるもんやで、熱いもんは。」
「ごめんなさい。全然気付かなかったものだから。」
「いや、いいんだよ。それよりさ、懍、この柱時計、確か稟三叔父さんの物やね。なんでお前が持ってるんだ。」と、竹三は話題に入りました。
「捨てられなくて。」と、懍はいいました。「何となく威厳があるようなきがして。ほら、大伯父から勘当された時、何か一つ持っていってよいと大伯父は仰って。だからこの時計を頂いてきました。」
「それを大事に持っていると言うことは、懍、お前はまだ柚木の血統を忘れてないんやな。」
「そうなのかもしれません。とっくに壊しても良いのに、まだ動かしているのですから。」
「なあ懍、その気持ちがひとったらしでもあるのなら、僕の話を聞いてくれ。あのなあ、美津代ちゃん、いたやろ、富三叔父様の孫で、寿三の妹の。あの子結婚するんやて。今本家はそれで大騒ぎや。」
「当然の如く、僕は呼ばれることはないでしょう。上級階級の御祝いの席に、僕みたいな人間が在籍していたとなったら旧華族の恥じですから。」
「御爺様がそういっていたよ。それでなあ、懍、あんたから何か御祝いを送ってほしいんよ。ちっちゃいものでかまわんから。そうすれば、御爺様もお前の勘当を解いてくれるかもしれん。」
「大伯父がそんな事をなさるわけがないでしょう。大伯父の顔に噛み付いたのは僕ですから。」
「そんなもん、ずっと昔の事やないか。このまんまじゃ、永久に離れたままになってしまうで。」
「…少し考えさせてください。」と、懍は虚ろな目つきになりました。
「この世で一番汚いものがあるとしたら、それは、優しさとか、助け合いとか、そう言う類のもの。そう言う言葉は、見かけ上本当のことを言っているつもりで、実際は僕らを追い出すためのもの。当時、大伯父が僕を本家へ保護してくれると言ったとき、僕はこれでやっと…、と考えていたんです。愚かにも。しかしそれはこの僕を外へ追い出すためのものだったんですよ。きっと大伯父は始めからそうするつもりだったのですね。人っていうのは、ああだこうだ言ったって、結局は自分の身を保持することに終始すれば良いから。」
「うん、その気持ちわかる。」と、竹三は言いました。「僕も、当たり前のことができないってことがいかに辛いかよく知ってるからね。そうか、ごめんな、勝手に僕の解釈を押し付けてしもうて。とりあいず、鳥鍋だけは食べてくれ。」
「そういたします。」と、懍は再び箸を取りました。暫く黙ったままで鳥鍋を食べました。
そうこうしているうちに、終電が終わってしまいました。ので、竹三に自分の煎餅布団を貸してやり、自分は座布団を枕にして、着物を掛けて寝ました。
深夜、竹三は、変な物音で目がさめました。音程がひどく高い声色で、誰かが叫んでいました。よく聞くと、
「辞めてよう!お母ちゃん!御願いだからあ!やめてえ、やめてえ、やめてぇぇぇぇぇぇぇっ!」
と、聞こえました。竹三が襖を開けると、懍が頭を左右に激しく振りながら、畳の上に横たわって叫んでいました。白い浴衣から、赤や緑や金を塗った背が透けて見えましたが、それに混じって赤い切り傷がはっきりと判りました。
「思い出してるんだな。御母さんに殺られそうになった時のこと。凶器は柳歯包丁だったね。一寸二部も深く切られて。だから菜切りしか使えないんだね。懍、お前はいくら塗りつぶしても、これだけは一生取れないだろうな。」と、竹三は呟きました。
次の日、彼は丁寧にとめてもらった礼を言いました。そして、字は読めなくても、鰻の池が見えたら浜松で、五重塔が見えたら京都だと直ぐわかると言って、1人で帰りました。
さて、竹三が家へ帰ると、「竹三!二日間連絡入れないでどこへ行っていた!」と、英三が怒鳴りました。
「懍に会いに行ってきました。」と、竹三は言いました。「痛いくらい痩せて、もうやつれた姿でしたよ。又新しく左右の手の甲に入墨して。」
「馬鹿者!あんなやつに会ってどうするんだ。あれはもう柚木の名を名乗る資格なぞない!」
「そうですけどね、稟三叔父様の時計、まだ大事に持ってましたよ。でも、安心してください。懍は二度と戻ってくるつもりはありません。自分でそう言ってます。この世で一番汚いものは優しさだと、そう言ってました。」
「本当にあれはきちがいだ。墨刑にふさわしい。お前も、そんなやつの所でよを明かすなら、帰って来るべきだったな。二度と会おうなんて思うなよ。」と、英三は部屋を出ていきました。
「やれやれ、御爺様、また袴の紐が短くお成りになりましたね。」と、竹三はやりきれない気持ちで言いました。