前編
祝事。 ある日、柚木悠三の祖父、柚木権三のもとに、一枚の葉書が送られて来ました。可愛らしい花束が描かれた絵葉書で、送り主は連名で、加藤太郎、美津代旧姓柚木と書いてありました。
「ほほう、美津代も遂に結婚まで辿り着いたか。本家には出したのやろか。」と、じいさんは喜んでいました。
数日後、悠三と権三は、本家に呼び出されて、京都に行きました。懍を除く柚木家の一族が集合していました。本家柚木家の当主である、柚木英三がこういいました。
「この度、喜ばしくも美津代を嫁に出すことが決まった。そこで、我々柚木家の祝い事として、美津代を盛大にもり立てなければならん。何か意見をだしてくれ。」
「会場は東京がよいでしょう。そこなら、交通網がしっかりしておりますから、どこの県からでも、参る事ができますでしょう。」と、英三の孫である竜三がいいました。
「では、そうしよう。竜三よ、どこか我が家にふさわしい会場はあるかの。」
「調べて参りましょう。」
「しかし竜三さん、そのためには、何人の方がいらっしゃるのかを把握しなければなりませんわ。それによって会場の規模も変わって参りますでしょう?」と、竜三の妻である絹子が言いました。
「柚木家だけでも大人数ですからな。本家でも六人、ほかも入れると十七にもなりますな。」と、三男富三の息子、跳三が言いました。すると、
「待ってください、一人お忘れでは?柚木は全部で十八人です。」と、竜三の弟竹三が言いました。
「えっ、誰が?」
「懍がいます。」
「竹の言うとおりや。」と悠三が言いました。
その名前を聞いた途端、皆固まってしまいました。
「そうだった。懍を忘れてた。付け加えておこう。」とやっとこさで跳三が言いました。
「奴は取り消しておけ!奴にはこのことを消して話すな。」と英三が怒鳴りつけました。「どうしてですか。懍だって柚木の一員でありますのに。」と竹三。「いいか、奴は恐ろしい怪物だ。普段は隠してあるが、何か有るとすぐおかしくなる。奴が矛先を向けたのは、このわしだ!もうちょっとでわしの顔は醜くなるところだった。それにな、奴が一番憎むのは小さな子供だ。会場いたらどうなる」と、英三は続けました。
「ついこの間、佐藤さんのお宅の坊ちゃんを連れ去ろうとしたそうじゃないか。その時は、佐藤さんが早く気付いたから大事にならなくて済んだらしいが、寿三、お前の一歳になる娘を連れ去られたらどうする?」寿三は驚いて震え上がりました。
「あのですねえ、それは僕が小学校の時の話ですから、もう八年経ちますよ。大伯父様」と悠三。
「では悠三、お前から見てどうなんだ。」
「口だけは悪いかも知れませんが、大分落ち着いて来ていると思いますよ。」
「いや、わしの権限で言わせれば、奴を決して呼んではいけない。すべて奴に原因があるんだから。」
「それは意味によって差別になりますよ。」
「うるさい!竹三、お前も文盲の竹三のくせに、家長のわしに口を出すな!」 そのころ、なにも知らない懍は、用を済ますため、電車に乗っていました。ニ番目の駅で、一歳位の赤ん坊を連れた、母親が乗ってきて、彼の隣の座席に座りました。むくむく太った、可愛らしい無辜な赤ん坊で、母親がいないないばあをしたりして、笑っていました。
好奇心が旺盛なようで、懍が抱えていた道具箱に付いている、金の鈴に興味をもって、手にとって見ようとしました。「ほら、だめでしょう、人の物に手をだしちゃ。」と母親が止めました。母親も子供も笑っていました。懍の、朱雀を彫った右手は、彼の意志に反して、道具箱の蓋をそっとあけ、一尺三寸鏨に触れていました。彼の意志では、鏨を下ろせと指示を出しているのに、右手は動きません。懍は膝に顔を付けて泣きました。なんとか右手を下ろすのに成功すると、彼は次の駅で降りて、目的地まで別の電車で行きました。