第97話:魔王、欲を見送る
ひび割れていたアスモデウスの身体が、音もなく崩れていく。
黒い翼がほどけ、異形の角が縮み、巨大だった悪魔の姿はみるみる小さくなっていった。
監視室の床へ、黒いノイズが砂のようにこぼれ落ちる。そして最後に残ったのは——小さく丸い羊だった。
ふわふわの白い毛玉に、つぶらな目。
さっきまで世界を壊そうとしていた魔王とは思えないほど、弱々しい姿。
『……でも、欲は残るよ』
その小さな羊が、ぽつりと呟く。
声はもう、世界を揺らす魔王のものではなかった。
しかしそれは、確かにアスモデウスの声だった。
次の瞬間。
監視室の割れたモニターが、ふっと淡い光を帯びた。
「……え?」
蒼真が目を瞬かせる。
床に走っていたノイズが、するすると消えていく。
ひび割れていた端末の表面が逆再生のように繋がり、断線していたケーブルがひとりでに戻り、警報表示が正常値へと書き換わっていく。
職員の一人が震えた声を上げた。
「修復……してる?」
「いや、ここだけじゃない……!」
別の職員が端末にしがみつきながら叫ぶ。
「世界規模で同じ現象が起きています!」
「各都市の通信障害、順次回復!物理破損した通信設備まで自己修復を開始しています!」
監視室がざわめきに包まれる。
「何が起きてるんだ!?」
「こんなの、人間の技術じゃ——」
蒼真ははっと顔を上げた。
「……ベルフェさん」
まるで答え合わせのように、館内放送が鳴り響く。
『緊急報告。通信障害の大規模復旧を確認。各都市インフラ、交通制御、医療ネットワーク、電子決済系統の順次正常化を確認——』
その放送の途中、監視室の扉が開いた。
「……終わったか」
入ってきたのは、ベルフェだった。
その後ろには、肩で息をしている天音と、呆然とした榊原、肩の上にアラームがいる。
「魔王様……!終わったんですよね」
天音がほっとしたように声を上げる。
榊原はまだ信じられないものを見るような顔でベルフェを見た。
「まさか……今の、全部あなたが?」
ベルフェは気だるげに片手を下ろした。
「ついでに直した」
「ついでで済む規模じゃないんですが!?」
榊原が思わず素で叫ぶ。
その横で、天音が腕の中のモフ4号を見下ろして息を呑んだ。
もふもふした式神は、すっかり光を失っていた。
「魔力が空っぽです……」
ベルフェが淡々と言う。
「一万人分、全部使ったからな」
一瞬、誰も言葉を失った。
教国の民たちが注ぎ込んだ膨大な魔力。
それを、たった一度の権能行使で使い切った。
その結果が、今起きている世界規模の修復だ。
壊れた回線。
狂った接続。
侵食された境界。
物理的に破壊された設備に至るまで。
ベルフェは、まるで世界そのものを“繋ぎ直す”ように、理のほつれを組み直してしまったのだ。
それは修復というより、もはや世界の理そのものを書き換える所業だった。
『……そこまで、やるの』
床の上の羊が、かすれた声で呟く。
その瞳には、もう敵意より驚愕の方が濃かった。
蒼真はゆっくりとしゃがみ込み、アスモデウスと目線を合わせる。
「人がいる限り、欲は消えないでしょう」
羊の耳が、ぴくりと動いた。
「でも」
蒼真は、少しだけ微笑んだ。
「それでも、形は変わります」
その顔を見た瞬間だった。
アスモデウスの中で、千年曖昧になっていた記憶がふと揺れる。
夕暮れの回廊。
崩れかけた王国。
侍従服の青年。
那由多。
あの時、自分は確かに問いかけた。
『あなたは何が欲しいの?』
那由多は、少しだけ困ったように笑っていた。
それから静かに言ったのだ。
『強いて言うなら……皆で、普通に生きられることです』
自分はその願いを壊した。
満たされなかった欲を、怒りへ変えた。
そして千年ものあいだ、その怒りだけを握り締めていた。
最後に見た那由多の顔だけは、ずっと曖昧だった。それが今さら思い出したのだ。
静かだったけれど、確かに前を向く顔だった。
『……私も変わるべきでしょう』
あの男は、そう言っていた。
『諦めません』
胸の奥で、千年凍りついていた感情が、ようやくゆっくりと形を取り戻す。
怒りではない。執着だけでもない。
もっと静かで、もっと弱くて、けれどずっと痛かったもの。
『……そう』
小さな羊が、ぽつりと呟く。
蒼真は何も返さない。
その沈黙の中で、アスモデウスはもう一度だけ蒼真を見上げた。
怒りを否定しない目だった。
それでも、怒りだけに呑まれない目だった。
『……あんた、やっぱりずるいね』
ぽつり、とそう呟く。
『壊すだけなら簡単なのにさ、ちゃんと直しちゃうんだ』
ベルフェは肩を回しながら、ようやく振り返った。
「壊れたままだと面倒だ」
『ほんと、ぶれないなぁ』
軽口の応酬に、監視室の空気がようやく緩む。
蒼真はそんな二人を見ながら、小さく息を吐いた。
終わったのだと、やっと実感が湧いてくる。
色欲の魔王は、現代に最適化された形で世界を侵した。
だが最後に残ったのは、満たされない欲望が怒りへ変わった綻びだった。
怒りを落としたのは蒼真。
世界を繋ぎ直したのはベルフェ。
それぞれの理が、ようやく役目を終えたのだ。
監視室の大型モニターには、元の監視画面が戻っていた。先ほどまでの配信騒動が、まるで悪い夢だったかのように。
ただし床の上には、ひとつだけ夢では済まない現実が残っている。
もふもふした羊のマスコット。
『で、私どこで暮らせばいいの?』
その一言に、全員が固まった。
アラームが叫ぶ。
『増える前提で話すな!!』
天音は困ったように笑い、榊原はなぜか目を輝かせた。
「非常に興味深い存在ですね!!記録をつけてもよろしいでしょうか!?」
『やめろ、ろくなことにならん』
ベルフェは深く、深くため息をついた。
「……面倒が増えた」
だが、その声にはどこかいつも通りの気怠さが戻っていた。
世界は繋がり直した。
欲望の暴走は止まり、色欲の理は消えた。
そして代わりに残ったのは、またひとつ増えた厄介なマスコットだけだった。
——怠惰の魔王の日常は、今日も大して平穏ではない。




