第95話:魔王、世界を揺らす
——ドゴォンッ!!
対異界特務庁の上層階に、凄まじい衝撃音が響いた。
床が揺れ、壁が震える。
天井の照明が一瞬だけ明滅した。
監視室の空気がびり、と張り詰める。
その瞬間、アスモデウスの横に裂けた瞳がぴくりと細められた。
『……あれ?』
黒い翼をわずかに揺らし、ゆっくりと顔を上げる。
怠惰の魔王の気配に気づいたのだ。
そして、もう一つ。
遠ざけたはずの、憤怒の理核の気配。
蒼真も同じものを感じ取っていた。
階下から駆け上がってくる、見慣れた熱。
胸の奥で、弱まりかけていた雷がかすかに呼応する。
(来た……!)
だが、それを感じ取ったのはアスモデウスも同じだった。楽しげだった表情から、すっと笑みが薄れる。
『……早すぎない?』
ぽつりと漏らした声には、明確な焦りが混じっていた。
怠惰の魔王が想定より早く到着した。
しかも、理核まで近づいてきている。
時間がない、とそう判断したのだろう。
次の瞬間、アスモデウスの纏う空気が露骨に変わった。
『じゃあ、先に終わらせるね』
甘い声。だがその奥にあるのは、さっきまでの余裕ではない。
獲物を仕留めるために、手段を選ばない肉食獣の温度だった。
黒い靄が一気に膨れ上がる。
監視室の床を這い、壁を染め、割れたモニターの表面にまで黒いノイズを走らせていく。
蒼真は槍を握り直した。
「来る……!」
アスモデウスが片手を上げる。
それだけで、空間が軋んだ。
『邪魔だから、壊そっか♡』
黒い靄が槍のように収束し、一直線に蒼真へ向かって走る。
「っ!」
蒼真が踏み込もうとした、その前に——
バンッ!!
半透明の光壁が割り込んだ。
黒い靄がそれに激突し、火花のようなノイズを散らす。
「結界、展開完了!」
「瀬名ハンターを下がらせろ!」
「第二結界班、前へ!」
監視室の入口側で、対異界特務庁の職員たちが一斉に魔法陣を展開していた。
淡い光の板が何重にも重なり、即席の防壁を形作っている。
蒼真が目を見開く。
「え……!?」
「ひとりで背負うな、瀬名!」
近くにいたハンターの一人が、短剣を構えて前へ出た。
「こっちはこっちで、時間を稼ぐ!」
別の職員が叫ぶ。
「拘束魔術、準備!魔力固定、急げ!」
「媒体侵食率上昇、警戒!」
「分かってます!」
アスモデウスの顔が、目に見えて歪んだ。
『このっ……邪魔をするな人間どもがああ!!』
黒い翼がばさりと広がる怒声が、監視室を震わせた。
その瞬間、周囲のガラスがびきびきとひび割れる。
欲望の魔王らしい甘さは、もうそこにはなかった。
あるのは苛立ちと、剥き出しの怒りだけだ。
黒い靄が再び膨れ上がる。
今度は広範囲。
結界ごと飲み込むつもりで、床一面へと流れた。
「まずい、結界がもたない!」
職員の一人が青ざめる。
その前に、別のハンターが飛び込んだ。
「下がれ!」
剣閃が走る。靄の先端を切り裂き、進行をわずかに逸らす。
さらにもう一人。
「そっちは通させねえ!」
盾を構えた大柄なハンターが、結界の前へ滑り込む。黒い靄が盾へぶつかり、激しいノイズ音を立てた。
それでも、持ちこたえる。
監視室の中で、職員とハンターが咄嗟に連携していた。
蒼真はその光景を見て、ほんの一瞬だけ息を呑む。
この場にいるのは、自分だけじゃない。
恐怖に足が竦みながらも、逃げずに立っている人間がいる。
助けようとする者がいる。
守ろうとする者がいる。
それを見た瞬間、胸の奥にあった焦燥が少しだけ和らいだ。
(……大丈夫だ)
まだ終わっていない。
そう思えた、そのときだった。
監視室の外、廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた。
『よし、生きているな、蒼真!』
次の瞬間、小さな黒い影が監視室へ飛び込んでくる。
ポメ様だった。
小さな体で床を滑るように着地し、そのまま蒼真の頭の上へ駆け登った。
蒼真の顔がぱっと明るくなる。
「ポメ様!!待ってたんですよ!!」
声が弾んだ瞬間だった。
理核が近づいたことで、胸の奥の雷が一気に噴き上がる。
バチッと紫電が弾けた。
さっきまで鈍かった怒りの理が、噛み合う。
遠かった熱が、今はっきりと自分の中へ戻ってくる。
蒼真の指先から、明確に雷が走った。
アスモデウスの表情が変わる。
『……あっ』
まずい、とでも言いたげな顔だった。
ポメ様が、黒い靄を睨みつける。
『……ここからは噛み合うぞ。憤怒を舐めるな、色欲』
低い声だった。今までとは比べものにならないほど濃い雷が集まり始める。
「……怒るなとは言わない」
蒼真は低く言った。
アスモデウスの横に裂けた瞳が、わずかに揺れる。
「でも——その怒りは、拡げるな」
次の瞬間、蒼真が右手を振り下ろした。
その動きに呼応するように、足元から紫電が奔る。
監視室の床を裂き、壁を走り、ビル全体へ広がっていく。建物そのものが、びり、と震えた。
ただの雷ではない。
理に触れた雷。
怒りそのものを導線として、世界の基盤へ流し込むための権能。
蒼真は、その名を初めて口にした。
「——第三権能……怒雷接地」
轟音が弾けた。
次の瞬間、蒼真の足元から放たれた雷が、大地を駆け抜ける。
紫電はアスモデウスの怒りに触れ、それを掴み、そのまま下へと叩き落とした。
空へ。
画面へ。
世界中へ。
拡散しかけていた色欲の怒りの理が、強引に“接地”されていく。
アスモデウスが初めて目を見開いた。
『……ッ!それ、私の怒り……!』
蒼真は歯を食いしばる。
「そうだ。お前の怒りを、地面に落とす」
さらに雷が走る。
ビルの床から、都市の地下インフラへ。
通信網を這い、サーバー群を駆け、世界中のネットワークに張り付いていた色欲の怒りを、大地へと逃がしていく。
監視室のモニターが一斉に白く明滅した。
街頭ビジョン。
スマホ画面。
テレビ。
監視端末。
広告モニター。
あらゆる映像が同時に揺れ、ぶつりと途切れる。
そして次の瞬間。世界中のあらゆる画面が、真っ黒に落ちた。
「消えた……!」
「全画面ブラックアウトです!」
「通信が死んだのか!?」
監視室がざわめきに包まれる。
だが、ポメ様が低く言った。
『……いや、違う』
その声には、わずかな誇らしさが混じっていた。
『色欲の理を通していた“窓”を、怒りごと全部遮断したのだ。荒業だが……なかなかだろう?』
蒼真は肩で息をしていた。
全身が焼けるように熱い。
それでも、目だけは逸らさない。
画面を失い、世界との接続を一瞬断たれたアスモデウスは、その場で大きくよろめいた。
『……っ』
怒りそのものは消えていない。
だが、もう拡散はできない。
地に落とされた怒りは、世界を侵す熱ではなく、ただそこに留められるだけのものへ変わっていた。
アスモデウスが蒼真を見る。
その目には、はっきりとした驚きがあった。
『……面白い』
かすれた声で、そう呟く。
『怒りを否定しないのに、ちゃんと飼い慣らしていたんだ』
アスモデウスの唇がゆっくり吊り上がる。
怒りは落とせたが、魔王の力はまだ消えていない。だが今、この場で主導権を握り直したのは——
憤怒の魔王だった。




