表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/103

第92話:魔王、怒りに触れる


 仮想空間を満たしていた赤い数値が、ぴたりと止まった。


【欲望累積値 那由多】


 その表示を見た瞬間、誰もが言葉を失った。


「……那由多?」


 裂け目の向こうで、榊原が目を瞬かせる。


「な、那由多って……あの仏教用語の那由多ですか?極めて大きな数を指す単位の……」


 ポメ様が低く唸った。


『ただの大数ではない。欲望をいくら増やしても、“無量”に達した時点でそれ以上は増えん……ということか?』


 ベルフェが、わずかに目を細める。


「……理の飽和か」


 榊原がはっと息を呑む。


「概念上の上限値にぶつかった……?」


 だがその説明に、アスモちゃんはまるで納得していなかった。


 欲望の海の向こうで、羊角のアバターがじっと表示を見つめている。


 営業スマイルは消えていない。

 なのに、その声には明らかに棘が混じっていた。


『……欲に上限があるはずないでしょ』


 静かな声だった。


『それなのに……よりによって、なんで“那由多”なの?』


 その一言を聞いた瞬間、蒼真の中で何かが引っかかった。


 違う。


 いまの苛立ちは、世界に向いたものじゃない。

 人類全体への怒りでもない。

 もっと狭く、もっと深く、もっと個人的な感情だ。


 蒼真は息を止める。


 仮想空間に満ちる欲望の濁流の中で、一本だけ異質な熱がある。

 焦げついていて、鋭くて、何百年も冷えなかったような怒り。


「……そこか」


 蒼真が呟く。

 雷をまとった槍を一瞬だけ足場に突き立て、逆鱗探査の感覚をさらに深く沈める。


 欲望の海の奥。

 その中心に絡みつく、怒りの核。


 触れた瞬間、視界が反転した。


 ◇


 今度の景色は、前よりも近かった。


 王宮の中庭。

 夕暮れの石畳。

 どこか遠くで、民衆のざわめきが聞こえる。


 崩壊の前兆は、もうすでに城の中にまで入り込んでいた。


 貴族たちは贅沢を覚え、兵は規律を失い、王は進言より甘言を好むようになっている。

 そのどれもが、不自然なくらい滑らかに、欲へ傾いていた。


 そして、その中心にいる。


 白い肌。

 長い髪。

 ただ立っているだけで空気の質を変えてしまう、美しすぎる女。


 色欲の魔王アスモデウス。


 今の配信アバターよりも、ずっと静かで、ずっと冷たい。

 王の隣で微笑んでいるだけなのに、周囲の理性が少しずつ削れていくのが分かる。


 しかし、そんな王宮の中で、たった一人だけ、その空気に染まらない男がいた。


 侍従服を纏った若い男。


 背筋は真っ直ぐで、顔立ちは整っている。

 なのにそこに華やかさはなく、ただ静かで、地味で、実直だった。


 誰かがその男を呼ぶ。


「那由多」


 蒼真の目が見開かれた。


(……やっぱり)


 偶然か、定めか。

 表示された“那由多”は、仏教の無量数ではなく、目の前の男の名でもあった。


 那由多は王の前に控えながら、淡々と書簡を整理している。

 周囲の貴族たちが色欲の理に酔い、視線を乱し、声色を変えていく中で、この男だけが何一つ変わらない。


 アスモデウスが彼を見る。

 最初は興味だった。


 欲のない人間などいない。

 それが色欲の魔王の確信だった。


 ならば、いずれこの男も欲を見せる。

 見せないはずがない。


 そう思っていたのだろう。


 だが、何日経っても。

 何週間過ぎても。

 何ヶ月かけても。


 那由多は変わらなかった。


 王が壊れていく。

 国庫が空になっていく。

 貴族が私腹を肥やし、兵が民を食い物にし、国そのものが内側から腐っていく。


 それでも那由多だけは、静かに仕事を続けていた。


 止められるものを止め、救えるものを救い、手遅れになったものを淡々と受け止める。


 その姿を、アスモデウスはずっと見ていた。


 ある夕暮れ。


 崩れかけた回廊で、アスモデウスはとうとうその男へ問いかけた。


『あなたは何が欲しいの?』


 那由多は手を止める。

 それから少し考え込み、困ったように笑った。


「……強いて言うなら——」


 言葉を選ぶような、静かな間。


「皆で、普通に生きられることです」


 その一言に、蒼真は息を呑んだ。

 

 独占でもない。

 承認でも快楽でもない。


 だが間違いなく、強い“欲”だった。


 自分のためではなく、誰かのために向いた欲望。

 色欲の魔王にとって、最も理解しにくい種類の願い。


 アスモデウスはしばらく何も言わなかった。


 ただその美しい顔で、那由多を見つめていた。


 そして……ほんの少しだけ笑った。


『……そう』


 優しい声だった。

 だからこそ、残酷だった。


『でも、それももう叶いませんでしたね』


 那由多が顔を上げる。

 アスモデウスは笑う。


『だって——私が壊したから』


 その瞬間、那由多が振り向いた。


 蒼真の心臓が跳ねる。


 この男の顔を見れば、何か分かる。

 怒りの核。

 色欲の魔王の失敗。

 千年前の敗因。


 全部が、そこにある気がした。

 那由多の顔が、こちらを向く。


 その瞬間。


『これ以上は見ないで!!』


 悲鳴に近い声が、空間そのものを引き裂いた。

 ぐんっ、と景色がねじ曲がる。


 回廊が歪む。

 夕焼けが裂ける。

 石畳も、王宮も、那由多の姿も、全部が黒いノイズに呑み込まれていく。


「っ!?」


 蒼真が目を庇った次の瞬間には、もうそこは欲望の仮想空間だった。


 黒い海。

 流れ続けるコメント。

 ウイルス魔物の残骸。


 そして目の前には、アスモちゃんのアバター。


 さっきまでの軽薄な笑顔とは違っていた。

 表情は笑っている。

 けれどその奥で、明らかに何かが壊れかけている。


 蒼真が低く呟く。


「色欲の魔王……あなたはもう“魔王”じゃない」


 アスモちゃんは答えない。

 ただ、唇の端だけを吊り上げた。


『……いいよ』


 その声は静かだった。


『そんなに見たいなら、見せてあげる』


 ひび割れた画面の奥で、アバターの輪郭がぐにゃりと歪む。


 羊の角が、ゆっくりと伸びる。

 瞳が横に裂ける。


 その奥に、人ではない何かの輪郭がちらついた。

 そして彼女は、唇を吊り上げて笑う。


『“アスモちゃん”は、ここまで』


 その宣言と同時に黒いノイズが、ロビー中の画面を一斉に塗り潰した。


 次に現れるのは、もう愛嬌を装った配信者ではない。


 本来の魔王(アスモデウス)


 環境適応の果てに現代へ寄生した色欲が——ついに、その本性を覗かせようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ