第92話:魔王、怒りに触れる
仮想空間を満たしていた赤い数値が、ぴたりと止まった。
【欲望累積値 那由多】
その表示を見た瞬間、誰もが言葉を失った。
「……那由多?」
裂け目の向こうで、榊原が目を瞬かせる。
「な、那由多って……あの仏教用語の那由多ですか?極めて大きな数を指す単位の……」
ポメ様が低く唸った。
『ただの大数ではない。欲望をいくら増やしても、“無量”に達した時点でそれ以上は増えん……ということか?』
ベルフェが、わずかに目を細める。
「……理の飽和か」
榊原がはっと息を呑む。
「概念上の上限値にぶつかった……?」
だがその説明に、アスモちゃんはまるで納得していなかった。
欲望の海の向こうで、羊角のアバターがじっと表示を見つめている。
営業スマイルは消えていない。
なのに、その声には明らかに棘が混じっていた。
『……欲に上限があるはずないでしょ』
静かな声だった。
『それなのに……よりによって、なんで“那由多”なの?』
その一言を聞いた瞬間、蒼真の中で何かが引っかかった。
違う。
いまの苛立ちは、世界に向いたものじゃない。
人類全体への怒りでもない。
もっと狭く、もっと深く、もっと個人的な感情だ。
蒼真は息を止める。
仮想空間に満ちる欲望の濁流の中で、一本だけ異質な熱がある。
焦げついていて、鋭くて、何百年も冷えなかったような怒り。
「……そこか」
蒼真が呟く。
雷をまとった槍を一瞬だけ足場に突き立て、逆鱗探査の感覚をさらに深く沈める。
欲望の海の奥。
その中心に絡みつく、怒りの核。
触れた瞬間、視界が反転した。
◇
今度の景色は、前よりも近かった。
王宮の中庭。
夕暮れの石畳。
どこか遠くで、民衆のざわめきが聞こえる。
崩壊の前兆は、もうすでに城の中にまで入り込んでいた。
貴族たちは贅沢を覚え、兵は規律を失い、王は進言より甘言を好むようになっている。
そのどれもが、不自然なくらい滑らかに、欲へ傾いていた。
そして、その中心にいる。
白い肌。
長い髪。
ただ立っているだけで空気の質を変えてしまう、美しすぎる女。
色欲の魔王アスモデウス。
今の配信アバターよりも、ずっと静かで、ずっと冷たい。
王の隣で微笑んでいるだけなのに、周囲の理性が少しずつ削れていくのが分かる。
しかし、そんな王宮の中で、たった一人だけ、その空気に染まらない男がいた。
侍従服を纏った若い男。
背筋は真っ直ぐで、顔立ちは整っている。
なのにそこに華やかさはなく、ただ静かで、地味で、実直だった。
誰かがその男を呼ぶ。
「那由多」
蒼真の目が見開かれた。
(……やっぱり)
偶然か、定めか。
表示された“那由多”は、仏教の無量数ではなく、目の前の男の名でもあった。
那由多は王の前に控えながら、淡々と書簡を整理している。
周囲の貴族たちが色欲の理に酔い、視線を乱し、声色を変えていく中で、この男だけが何一つ変わらない。
アスモデウスが彼を見る。
最初は興味だった。
欲のない人間などいない。
それが色欲の魔王の確信だった。
ならば、いずれこの男も欲を見せる。
見せないはずがない。
そう思っていたのだろう。
だが、何日経っても。
何週間過ぎても。
何ヶ月かけても。
那由多は変わらなかった。
王が壊れていく。
国庫が空になっていく。
貴族が私腹を肥やし、兵が民を食い物にし、国そのものが内側から腐っていく。
それでも那由多だけは、静かに仕事を続けていた。
止められるものを止め、救えるものを救い、手遅れになったものを淡々と受け止める。
その姿を、アスモデウスはずっと見ていた。
ある夕暮れ。
崩れかけた回廊で、アスモデウスはとうとうその男へ問いかけた。
『あなたは何が欲しいの?』
那由多は手を止める。
それから少し考え込み、困ったように笑った。
「……強いて言うなら——」
言葉を選ぶような、静かな間。
「皆で、普通に生きられることです」
その一言に、蒼真は息を呑んだ。
独占でもない。
承認でも快楽でもない。
だが間違いなく、強い“欲”だった。
自分のためではなく、誰かのために向いた欲望。
色欲の魔王にとって、最も理解しにくい種類の願い。
アスモデウスはしばらく何も言わなかった。
ただその美しい顔で、那由多を見つめていた。
そして……ほんの少しだけ笑った。
『……そう』
優しい声だった。
だからこそ、残酷だった。
『でも、それももう叶いませんでしたね』
那由多が顔を上げる。
アスモデウスは笑う。
『だって——私が壊したから』
その瞬間、那由多が振り向いた。
蒼真の心臓が跳ねる。
この男の顔を見れば、何か分かる。
怒りの核。
色欲の魔王の失敗。
千年前の敗因。
全部が、そこにある気がした。
那由多の顔が、こちらを向く。
その瞬間。
『これ以上は見ないで!!』
悲鳴に近い声が、空間そのものを引き裂いた。
ぐんっ、と景色がねじ曲がる。
回廊が歪む。
夕焼けが裂ける。
石畳も、王宮も、那由多の姿も、全部が黒いノイズに呑み込まれていく。
「っ!?」
蒼真が目を庇った次の瞬間には、もうそこは欲望の仮想空間だった。
黒い海。
流れ続けるコメント。
ウイルス魔物の残骸。
そして目の前には、アスモちゃんのアバター。
さっきまでの軽薄な笑顔とは違っていた。
表情は笑っている。
けれどその奥で、明らかに何かが壊れかけている。
蒼真が低く呟く。
「色欲の魔王……あなたはもう“魔王”じゃない」
アスモちゃんは答えない。
ただ、唇の端だけを吊り上げた。
『……いいよ』
その声は静かだった。
『そんなに見たいなら、見せてあげる』
ひび割れた画面の奥で、アバターの輪郭がぐにゃりと歪む。
羊の角が、ゆっくりと伸びる。
瞳が横に裂ける。
その奥に、人ではない何かの輪郭がちらついた。
そして彼女は、唇を吊り上げて笑う。
『“アスモちゃん”は、ここまで』
その宣言と同時に黒いノイズが、ロビー中の画面を一斉に塗り潰した。
次に現れるのは、もう愛嬌を装った配信者ではない。
本来の魔王。
環境適応の果てに現代へ寄生した色欲が——ついに、その本性を覗かせようとしていた。




